29.主人の威を借りる従者、弟の顔を借りる兄
普通の人間なら、この大男に睨みつけられただけで、少なからず恐怖を感じていただろう。
しかし、ラインは一度彼を見ただけで興味を失い、再び食事を始めた。
すぐそばに立つ男など、初めから存在していないかのようだった。
離れた場所へ避難していた宿屋の店員たちは、険悪な空気を感じ取り、
誰も近づこうとしなかった。
ただ部屋の隅に集まり、声を落として話し始める。
「あの男、コア家の使用人が着る制服を着ていますよね。」
「精霊使いでもないのに、どうしてライン様へあんな口を利けるんでしょう?」
「主人の威を笠に着ているだけだ。」
「コア派が後ろについていなければ、ただの使用人が精霊使いに逆らえるものか」
「それでも、大勢の前で精霊使いを怒鳴りつけるなんて、本人はさぞ気分がいいでしょうね。」
「俺たちなら、あんな目で見られただけで、まともに話すこともできませんよ」
「だが、ライン様もまだ一環初位で、本源精霊を錬化したばかりだ。」
「接近戦になれば、あの大男に勝てるとは限らないぞ」
別の店員は、心配そうに周囲のテーブルや椅子へ目を向けた。
「頼むから、ここでは戦わないでくれよ。壊されたら、今月の売り上げが全部消えてしまう」
大男は、自分が警告すればラインも慌てると思っていた。
だが、何事もなかったように食事を続ける姿を見て、その目つきが次第に険しくなっていく。
「まだ食べ続けるつもりか? 俺が脅しているだけだと思うなよ。」
「すでにリリア様へ知らせに行った者がいる。すぐにこちらへ来られるはずだ」
「逃げようなどと思うな。俺がここで見張っているからな」
ラインは聞こえていないかのように、顔さえ上げなかった。
言い返されるよりも、この完全な無視のほうが男の怒りを強く刺激した。
彼はコアの屋敷で十年以上も働き、主人からも信頼されている。
他の使用人や村の一般人から見れば、それなりに高い立場にいる人物だった。
長年コア家に仕えるうちに、男は主人の持つ権威まで、自分の立場の一部だと思うようになっていた。
村の農民や狩人、普通の商人でさえ、彼を見れば自分から道を空ける。
ラインのように存在そのものを無視する者など、今まで一人もいなかった。
それでも男は、自分が本当にラインより弱いとは思っていなかった。
彼は長年、コア家の若者たちの訓練相手を務めており、
低環の精霊使いがどのように戦うかも知っている。
一環初位の精神力は少なく、実戦では依然として接近戦を中心に戦わなければならない。
精霊の力も、実際の殺傷力より、その見た目が与える威圧感のほうが大きい場合が多かった。
ラインが錬化した月印も、連続して放てる月刃は数発にすぎない。
一環初位の精神力で使えば、正確に命中しても体に切り傷を残す程度で、
鍛えた大人を一撃で倒すのは難しい。
男はこれまでにも、覚醒したばかりの少年たちの訓練相手を務めてきた。
新人は三、四回続けて精霊を使えば、すぐに精神力が尽きかける。
最初の月刃さえ避ければ、その後の接近戦はこちらのものだ。
自分は今、最も力の充実した年齢にあり、長いあいだ戦闘訓練も受けてきた。
そのうえ、背後にはコア派がいる。
リリア様の前で忠誠心と勇気を示せば、いずれ褒美も与えられるだろう。
「小僧、なかなかいい度胸をしているじゃないか」
男は袖をまくり、太く、古傷の残る腕を見せた。
近くにいた客たちは戦いが始まる気配を察し、次々と会計を済ませて宿屋を出ていく。
店員たちは顔を青くし、すでにテーブルや椅子、窓の値段まで計算し始めていた。
「ラインは見つかった?」
張りのある、強い女の声が入口から聞こえてきた。
リリアが大股で宿屋へ入り、その後ろからコア家の使用人たちが続く。
リリアは背が高く、均整の取れた体つきをしていた。
顔はやや面長で、祖父であるコアの特徴をいくらか受け継いでおり、
目を引くほどの美人というわけではない。
身につけているのは、動きやすい濃紺の戦闘服。
腰の暗赤色のベルトには、二つの輪が重なるように刻まれた鉄製のバックルがあり、
彼女が二環精霊使いであることを示していた。
半月に及ぶ偵察任務から戻ったばかりで、服にはまだ山林の土や埃が残っている。
それでも目つきは鋭く、彼女が宿屋へ入っただけで、それまでの小さな話し声は瞬く間に消えた。
「リリア様、お帰りなさいませ!」
先ほどまでラインを前に威張っていた男は、すぐに笑顔へ変わった。
慌てて彼女の前まで駆け寄り、必要以上に深く腰を折る。
大きな体がほとんど二つに折れ、袖をまくってラインへ迫っていたときとは、まるで別人だった。
店員たちは呆気に取られたが、誰も笑おうとはしない。
むしろ、リリアがコア家でどれほど高い立場にいるのかを、改めて理解した。
「リリア様、ラインはあちらにおります」
アノは機嫌を取るような笑みを浮かべ、ラインのいるテーブルを指した。
リリアは彼の態度など気にも留めず、初めからラインだけを見つめていた。
そのまま真っすぐテーブルまで歩いていく。
「お前がラインか。ずいぶんうまそうに食べているな」
「それなら、拳の味も試してみるか?」
そう言いながらも、リリアはすぐには手を出さなかった。
ラインはあまりにも落ち着いている。
まるで彼女が来ることを初めから知っていたか、
あるいは二環精霊使いである自分など、相手にする価値もないと思っているかのようだった。
その態度を見て、リリアは本能的に警戒を強めた。
ここへ来る前に、彼女はラインのことを調べている。
両親を早くに亡くし、叔父夫婦との関係も壊れ、現在は一人で暮らしている。
資質も下等にすぎず、二環精霊使いが警戒するような後ろ盾も力もないはずだった。
ラインが二度続けて試験で一位になったことも聞いていた。
だが、一族の者たちの多くは、それを運と経験が重なった偶然だと考えている。
いずれにしても、覚醒したばかりの一環初位が、正面からリリアを脅かせるはずがない。
だからこそ、今の落ち着きが不自然だった。
ラインはようやく食器を置き、顔を上げて彼女を見た。
その口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「誰から、私がライン・ローデンだと聞いた?」
リリアは一瞬、言葉を失った。
すぐに振り返り、アノへ視線を向ける。
アノの顔から得意そうな表情が消え、額に冷や汗が浮かんだ。
何か答えようとして口を開いたが、言葉は一つも出てこない。
彼らはラインの肖像画を持っていた。
しかし、ラインとライルが双子であり、ほとんど見分けがつかないほど似ていることも、
誰もが知っている。
目の前の少年がこれほど余裕を見せているのは、彼が本当はライルだからではないのか。
後ろにいた使用人たちも、同じ疑いを抱き始めた。
ラインは下等資質で、一族からの支援も受けていない。
一方のライルは、将来を期待される上等資質であり、
すでに族長派から重点的に育てられていた。
もしライルをラインと間違えて侮辱すれば、話は簡単には済まない。
将来、ライルは族長派の中心人物になる可能性が高かった。
リリアが弟のために、後ろ盾のないラインへ警告するだけなら問題はない。
だが、人違いによってコア派に新しい敵を作るわけにはいかなかった。
真相を知っているのは、部屋の隅に隠れている宿屋の店員たちだけだった。
しかし、ラインとリリアのどちらも、彼らには逆らえない相手だ。
全員が固く口を閉ざし、何も知らないふりをした。
ラインは最後の一口を食べ終え、ナプキンで口元を拭いた。
それからゆっくりと席を立つ。
「ラインを捜しているのだろう? ついてこい」
「学堂の宿舎まで案内してやる」
リリアはすぐに状況を考えた。
目の前の少年が本当にライルなら、将来一族の上層部へ入る可能性の高い相手と、
ここで争う必要はない。
もしライン本人だったとしても、このまま後ろをついていけば、途中で逃げることもできないだろう。
「いいだろう。私も行く」
リリアは横へ退き、ラインへ先に歩くよう手で示した。
ラインは小さく笑い、そのまま宿屋を出ていった。
リリアがすぐ後ろに続き、他の使用人たちも一列になって外へ出る。
彼らの姿が通りの先へ消えてから、店員たちはようやく息をついた。
「やっと出ていった……」
「何をするつもりか知らないけど、食堂の中で戦わないなら、それでいいよ」
一行は、ほどなく学堂の門へ到着した。
すると二人の守衛がすぐに前へ出て、リリアの後ろにいる使用人たちを止める。
「お待ちください。一族の学堂へ自由に出入りできるのは、ローデン一族の精霊使いだけです」
「それ以外の者を、許可なく中へ入れることはできません」
リリアは眉を寄せた。
「私が連れてきた者でも、入れないというの?」
二人の守衛は、もちろん彼女の顔を知っていた。
年上の守衛が胸へ手を当てて礼をしたが、門の前から退こうとはしない。
「リリア様であることは承知しております。しかし、これは学堂の規則です」
「お連れになれるのは一人まで。それが、我々に認められる最大限の譲歩です」
学堂には大量の精霊や霊石、訓練用の道具が保管されており、一族の中でも特に厳重に守られていた。
各派閥の有力者であっても、大勢の部外者を自由に連れ込むことはできない。
リリアは不満を感じたが、それ以上守衛を困らせようとはしなかった。
コア派が強くなるほど、他の派閥はその動きを厳しく監視する。
対立しているカル派だけでなく、族長派もコア家の力を削る機会を見逃さないだろう。
数人の使用人を入れるためだけに、相手へ口実を与える必要はなかった。
「他の者は外で待ちなさい。アノだけ、私と一緒に来るように」
アノはすぐに背筋を伸ばし、顔に再び得意そうな笑みを浮かべた。
「はい、リリア様!」
「行くぞ、後輩」
リリアはラインへ目を向けた。その瞳には、今も疑いの色が残っている。
ラインは平静なまま、二人を自分の宿舎まで案内した。
部屋の前で鍵を外し、扉を開けて中へ入る。
そこで足を止め、扉を完全に開け放った。
入口から部屋全体を見渡せたが、中には他の人間など一人もいなかった。
リリアは入口に立ったまま、部屋の中を見回した。
その表情が少しずつ険しくなっていく。
「後輩、きちんと説明してもらおうか」
「ここには誰もいないじゃないか」
ラインは、わずかに笑った。
「私がいるだろう。私が人間に見えないのか?」
リリアはラインの顔を睨み、ようやく自分がからかわれていたことに気づいた。
「私が捜しているのはラインだ!」
「私は一度も、自分がラインではないとは言っていない」
ここまで楽しんでいただけましたら、ブックマークしていただけると嬉しいです




