3.どけ
一筋の朝日が夜の静けさを破った。
ラインは乾いた瞼を開き、心の中で呟く。
(時間か)
昨夜はベッドに入ってからも長いこと考え続け、これからの計画をいくつも立てていた。
結局、眠れたのは一時間少々だった。
今の身体はまだ修練を始めておらず、体力もそれほどない。
そのため、重い疲労と眠気がまだ身体の奥に残っていた。
だが、五百年を超える歳月は、ラインの意志を鋼のように鍛え上げている。
この程度の眠気など、気にするほどのものではなかった。
ラインは絹の掛け布団を払いのけると、迷いなくベッドから起き上がった。
窓を開ける。
昨夜まで降り続いていた春雨は、もう止んでいた。
土と木々、それに野花の匂いが混じった、湿り気のある新鮮な空気が一気に流れ込んでくる。
ラインは頭がすっと冴えていくのを感じた。
残っていた眠気も、たちまち薄れていく。
まだ太陽は完全には昇っていない。
空は深い青に染まり、夜とも朝ともつかない淡い明るさに包まれていた。
窓の外に目を向けると、青竹や木材で建てられた家々が山の緑に溶け込み、静かな景色を作っている。
家はどれも二階建て以上だった。
雨と湿気の多いこの土地では、一階部分を太い木の柱で高く持ち上げ、その上に人が暮らす造りが一般的だった。
ラインと弟のライルも、その二階で暮らしている。
「ライン様、お目覚めでしたか。わたくし、すぐに上がってお支度をお手伝いいたします」
そのとき、階下から少女の声が聞こえてきた。
ラインが下を見ると、自分付きのメイド、ミラが立っていた。ただのミラ。
ミラ・ローデンではない。
容姿は人並みより少し上、といったところだろう。
だが身なりはよく整っていた。
清潔なメイド服には皺一つなく、金色の髪は細かな彫刻の入った木の簪で丁寧にまとめられている。
そのため、年齢のわりにはどこか落ち着いた雰囲気があった。
ミラはラインの姿を見つけると嬉しそうに笑い、水を張った盆を抱えて軽い足取りで階段を上がってきた。
用意されていたのは、ちょうどよい温度に調整されたぬるま湯だった。
顔を洗った後は、柳の枝に雪塩をつけて歯を磨く。
ミラは終始やさしくラインの世話をしながら、楽しそうに微笑んでいた。
洗顔が終わると、今度は服を着せ、留め具を一つずつ留めていく。
その途中、わざとなのか偶然なのか。
豊かな胸がラインの腕や背中に何度も触れた。
だがラインの表情は変わらない。
心にも、何の波も立たなかった。
このメイドは叔父夫婦の目でもあり、見栄っ張りで、情も薄い。
前世のラインはそれを見抜けず、彼女にいいように惑わされていた。
覚醒の儀を境にラインの立場が一気に落ちると、ミラの態度もすぐに変わった。
それまでの笑顔が嘘だったかのように、冷たい目を向けられたことも一度や二度ではない。
そこへライルがやって来た。
ちょうどミラが、ラインの胸元にできた服の皺を手で伸ばしているところだった。
それを見たライルの目に、ほんの一瞬、羨望と嫉妬が浮かぶ。
ライルもこれまで兄と一緒に暮らしてきたため、身の回りを世話する使用人はつけられていた。
だが、ミラのような若い娘ではない。かなり太った年配の女だった。
(もし、いつかミラが俺にもこんなふうにしてくれたら……どんな感じなんだろう)
そんなことを考えたものの、ライルはその先を想像することすら少し怖かった。
叔父夫婦がラインを特別扱いしていることは、一族の中でもよく知られている。
そもそもライルには、最初は専属の使用人すらつけられていなかった。
それを叔父夫婦に頼んだのもラインだった。
とはいえ、主と使用人という身分の違いがあっても、ライルは普段からミラを軽く扱うことなどできなかった。
ミラの母親は叔母付きのメイドであると同時に、この屋敷全体を取り仕切る立場でもあった。
叔母から深く信頼され、それなりの権限を持っている。
「もういい」
ラインは少し鬱陶しそうに、ミラの柔らかな手を払いのけた。
服はとっくに整っている。
ミラがまだ触れていたのは、半分以上ラインの気を引くためだった。
彼女から見れば、ラインの将来は明るい。
上等資質である可能性も高い。
もし将来、ラインの妾にでもなれれば、ただの使用人から一気に主人側の人間になれる。
まさに人生が変わる話だった。
前世のラインは、そんなミラに惑わされた。
一時は、本気で好意すら抱いていた。
だが今は、すべて分かっている。
ラインの心は冷え切っていた。
「どけ」
ミラの顔を見ることもなく、ラインは自分で袖口を整えた。
ミラはわずかに唇を尖らせた。今日のラインがいつも以上に素っ気ないことが、不思議でもあり、少し不満でもあったらしい。
甘えるようなことを何か言おうと口を開く。
だが、ラインから漂う言葉にしにくい圧に押され、何度か口を動かしたあと、結局は小さく答えただけだった。
「……はい」
そして大人しく後ろへ下がった。
ラインはライルへ目を向ける。
「準備はできたか?」
ライルは入口に立ったまま、自分のつま先を見つめていた。
小さく頷く。
「うん……」
実のところ、ライルは夜が明ける前から目を覚ましていた。
緊張で眠れなかったのだ。
誰にも気づかれないよう早々に起きて、もうとっくに支度を済ませていた。
目の下には、うっすらと隈までできている。
ラインは軽く頷いた。
前世の自分は、弟が何を考えていたのかほとんど理解していなかった。
だが今なら分かる。
もっとも、それを今ここで口にする意味はない。
「なら、行くぞ」
淡々とそう告げた。
兄弟は家を出た。
道を歩いていると、同じくらいの年頃の少年少女を何人も見かけた。
二人、三人と連れ立って歩いている。
どうやら目的地は皆同じらしい。
「見ろよ。ラインとライルの兄弟だ」
小声で交わされる会話が耳に入った。
「前を歩いてるのがラインだよ。神童って呼ばれてる、あのライン」
「へえ、あれが。無表情で周りなんか全然気にしてない感じ……噂どおり、ずいぶん偉そうだな」
少し酸っぱい声だった。
羨ましさと嫉妬が、隠しきれずに混じっている。
「ふん。お前だってあれだけ出来たら、同じくらい偉そうにしていいんじゃないか?」
別の少年が鼻を鳴らした。
その声にも、どこか面白くなさそうな響きがあった。
ライルは何も言わずに聞いていた。
こういう話には、もう慣れている。
俯いたまま、兄の後ろを黙って歩く。
空にはすでに朝の光が広がり始めていた。
昇りかけた太陽を背にしたラインの影が、ちょうどライルの顔へ落ちている。
朝日は少しずつ高くなっていく。
それなのに。
ライルには、自分がむしろ暗闇へ向かって歩いているように感じられた。
その暗闇を作っているのは、目の前を歩く兄だった。
もしかすると、自分は一生、この大きな影から抜け出せないのかもしれない。




