2.五百年の記憶
伝説によれば、この世界には一本の「時の矢」が存在するという。
世界そのものが、その矢の向きに沿って進んでいる。
そして『逆矢』の力を使えば、その矢の向きを反転させ、過去へと戻ることができる。
この伝説について、人々の考えはさまざまだった。
まったく信じない者もいれば、半信半疑の者もいる。
本気で信じている者など、ほとんどいなかった。
なぜなら、『逆矢』を一度使うたびに、代償として自らの命を差し出さなければならないからだ。
肉体も、それまで積み上げてきたものも、すべてを捧げて力に変える。
あまりにも大きな代償だった。
そして何より恐ろしいのは、命を差し出したところで、本当に過去へ戻れるのか、その結果を確かめる術がないことだ。
たとえ『逆矢』を手に入れたとしても、好き好んで試そうとする者などいない。
もし伝説そのものが嘘だったら?
もし、すべてがただのまやかしだったら?
ラインも、あそこまで追い詰められていなければ、あんなに早く『逆矢』を使うことはなかっただろう。
だが今では、ラインはその伝説を完全に信じている。
何より確かな事実が、こうして目の前にある。
彼は本当に、五百年前へ戻ってきたのだから。
(惜しいことをしたな。『逆矢』ほど面白い精霊だというのに、ろくに調べる暇もなく使ってしまった)ラインは心の中でため息をついた。
(あれを錬成するのに、どれほど苦労したことか。五十万人もの命を材料にして、世を敵に回してまで、ようやく完成させたというのに……)
重生には成功した。
しかし、あれほど慣れ親しんでいた『逆矢』の気配は、どこを探しても感じられなかった。
人は、万物の中で最も知恵ある存在。
精霊は、天地より生まれた神秘の結晶。
精霊には数え切れないほどの種類があり、その性質もさまざまだ。
一度、あるいは二、三度使っただけで完全に消えてしまう精霊もいれば、無理な使い方さえしなければ何度でも使える精霊もいる。
おそらく『逆矢』は、一度使えば消えてしまう類の精霊だったのだろう。
(まあ、なくなったのなら、また錬成すればいい)
ラインの口元がわずかに上がった。
(前世の俺に作れたものが、今の俺に作れない道理はない)
そう考えると、胸の奥から再び熱いものが湧き上がってくる。
重生できたのだ。
『逆矢』一つを失った程度なら、十分すぎるほど安い代償だった。
それに、今のラインは何も持っていないわけではない。誰にも奪えない、とてつもなく大きな財産がある。
五百年分の記憶と経験だ。
その記憶の中には、まだ誰にも見つけられていない数多くの宝が眠っている。
これから起こる大きな事件も知っている。
歴史がどのように動いていくのか、その流れも知っている。
そして、無数の人間の顔を覚えていた。
人里を離れて暮らしている者。
生まれながらに恐ろしい才能を持つ者。
今の時代には、まだ生まれてすらいない者もいる。
それだけではない。
五百年を生き抜いた経験。
数え切れないほどの戦いで積み上げてきた知識と勘。
これらすべてが、今のラインには残されている。
これだけのものがあれば、歴史の流れを先に読み、誰よりも早く動くことができる。
うまく利用さえすれば、再びこの世を思うままに生き、かつての外道としての力を取り戻すことも難しくない。
いや。
今度こそ、本当に「永生」という果実へ手を伸ばすことさえできるかもしれない。
「さて……どう動くか」
ラインはいったん考えを整理し、窓の外で降り続く夜の雨を眺めた。
そう考え始めると、やるべきことはいくらでも出てくる。
しばらく考えているうちに、ラインの眉間には少しずつ皺が寄っていった。
五百年という時間は、あまりにも長い。
すでに曖昧になり、思い出せなくなった記憶も少なくない。
覚えている宝の在り処や、珍しい人物についての記憶も数多くあるが、そのほとんどは今いる場所からあまりにも遠い。
あるいは、決まった時期にしか手に入らないものだった。
(結局、一番大事なのは精霊を操るための精神力だ)
今のラインは、まだ体内の空界すら開いていない。
精霊使いとして修練を始めてもいない、ただ無力な凡人だった。
(できるだけ早く修練を始めなければならない。前世と同じようにのんびり進んでいたら、二度目の人生を得た意味がない)
宝の在り処を知っていたところで、それを手に入れる力がなければ意味はない。
たとえ運よく手に入れられたとしても、自分の力が足りなければ、持っているだけで他人に狙われる。
今のラインが最初に解決しなければならない問題。
それは、精神力だった。
精霊を養い、錬化し、操る。
そのすべての基礎となるのが精神力だ。
できるだけ早く、それを高めなければならない。
(となれば、しばらくは一族の資源を使うしかないな)
今のラインには、危険だらけの山々を一人で歩き回る力すらない。
ただの山猪一頭に出くわしただけでも、命を落としかねない。
(三環精霊使いほどの精神力があれば、最低限、自分の身は守れる。そうなれば、この世界を自由に動き回ることもできる)
五百年を生きたラインの目から見れば、ヴェルデン山などあまりにも狭い。
ローデン一族もまた、自分を囲う檻のようなものだった。
だが。
檻は自由を奪う。その一方で、頑丈な檻は外からの危険を防いでもくれる。
「ふん。しばらくは、この檻の中を利用させてもらうか」ラインは小さく鼻を鳴らした。
「三環精霊使いまで上がったら、こんな辺鄙な山奥とはさっさとお別れだ。幸い、明日は覚醒の儀。そう遠くないうちに、精霊使いとして正式に修練を始められる」
覚醒の儀。
その言葉を思い浮かべた途端、長い年月の底に沈んでいた記憶が、少しずつ浮かび上がってきた。
「資質、か……」
窓の外を眺めながら、ラインは冷たい笑みを浮かべた。
そのときだった。
部屋の扉が静かに開き、一人の少年が入ってくる。
「兄さん、どうして窓辺で雨に濡れてるの?」
少年は細身で、ラインより少し背が低かった。
顔立ちはラインとよく似ている。
ただ、その瞳だけはまるで怯えた小動物のようで、どこか落ち着きがなかった。
ラインは振り返り、少年を見た。一瞬だけ、その顔に複雑な色が浮かぶ。
「お前か。ライル」
自分の双子の弟。
わずかに眉を上げると、ラインの表情はすぐにいつもの冷たさへ戻った。
ライルは俯き、自分のつま先を見つめた。
昔から変わらない、彼の癖だった。
「兄さんの部屋の窓が開いてたから、こっそり閉めておこうと思って……。明日は覚醒の儀だし、こんな遅くまで起きていたら、叔父さんと叔母さんも心配するよ」
ラインの冷たい態度を見ても、ライルは特に不思議には思わなかった。
物心ついた頃から、兄はずっとこうだったからだ。
時々、ライルは思う。
天才というのは、きっとこういうものなのだろう、と。
同じ顔を持つ双子だというのに、自分はどこにでもいるような凡人にすぎない。
同じ母親の腹から、ほとんど同じ時に生まれた。
それなのに、どうしてここまで違うのだろう。
兄には宝石のような才能が与えられた。
それに比べれば、自分など道端に転がる石ころのようなものだった。
周りの誰もが、ライルを見るたびに言った。
「ラインの弟だ」
叔父も叔母も、何度となく口にした。
「お兄さんを見習いなさい」
時には、鏡に映った自分の顔を見ることさえ嫌になる。
兄とよく似たこの顔を見るたび、自分が兄の出来損ないのように思えてしまうからだ。
そんな思いは、もう何年も前からライルの胸の中に積もり続けていた。
重い石でも抱えているかのように、胸が苦しくなる。
いつからか、ライルは以前よりも深く俯くようになり、口数もますます少なくなっていた。
(心配、か……)
叔父夫婦のことを思い浮かべ、ラインは心の中で冷たく笑った。
よく覚えている。
ラインとライルの両親は、一族から与えられた任務の途中で命を落とした。
二人が三歳の頃には、すでに兄弟そろって孤児になっていた。
その後、叔父夫婦は二人を引き取った。
表向きは、可哀想な甥たちを育てるため。
だが実際には、その立場を利用して両親の遺産を堂々と自分たちのものにし、兄弟への扱いも決して良いものではなかった。
もともと転生者だったラインは、できるだけ目立たずに成長するつもりでいた。
しかし、そんな暮らしの中では、それも難しかった。
生きやすい環境を得るため、ラインは仕方なく、普通の子供にはない「才能」を少しずつ見せることにした。
天才などと呼ばれてはいたが、その正体はたいしたものではない。
中身がすでに成長した人間だったこと。
そして前世の高校時代に身につけた知識や、覚えていた詩や文章。
それだけだった。
それでも幼い子供が少し見せれば、周囲からすれば十分すぎるほど異常だった。
ラインは瞬く間に神童ともてはやされ、一族中から注目を集めた。
そうなれば、今度は別の問題が生まれる。
自分の中身が普通の子供ではないことを悟られるわけにはいかない。
だから幼いラインは、余計なことを口にせず、いつも冷たい表情を浮かべるようになった。
なるべく他人を近づけず、自分を守るための仮面だった。
それを何年も続けているうちに、いつしか冷たい顔そのものがラインの癖になっていた。
そしてラインが一族から注目されるようになると、叔父夫婦も二人の兄弟を露骨に冷遇することができなくなった。
成長するにつれてラインの将来が期待されるようになり、それに合わせて生活も少しずつ良くなっていった。
だが、それは愛情ではない。
ただの投資だった。
それなのに。
この弟は、そのことに気づいていなかった。
叔父夫婦の態度を信じ込み、その一方で、兄であるラインへの不満を少しずつ胸の奥へ溜め込んでいった。
今はこんなに大人しく、素直そうに見える。
だがラインの記憶では、ライルは明日の覚醒の儀で上等資質と判定される。
その後、一族から本格的に育てられるようになると、それまで押し込めていた嫉妬や不満は一気に表へ出た。
実の兄であるラインに対して、何度も嫌がらせをし、邪魔をし、立場を奪おうとしてきた。
では、ライン自身の資質はどうだったのか。
……笑える話だ。
末等資質。
それが、ラインに与えられた答えだった。
運命というものは、本当に悪趣味だ。
同じ日に、同じ母親から生まれた双子。
兄は末等資質でありながら、十年以上も天才の名を独り占めしてきた。
弟はずっと兄の影に隠れていたというのに、その身には上等資質が眠っていた。
覚醒の儀の結果は、一族の誰もが予想していなかったものだった。
そしてその日を境に、兄弟の立場は完全に逆転する。
弟は一気に空へと舞い上がり。
兄は地へと落とされた。
その後に待っていたのは、弟からの度重なる嫌がらせ。
叔父夫婦の冷たい態度。
そして、一族の者たちから向けられる軽蔑だった。
恨んだか?
かつてのラインは、確かに恨んだ。
自分の資質の低さを恨んだ。
一族の冷たさを恨んだ。
自分にこんな運命を与えた世界そのものを恨んだ。
だが今。
五百年の人生を経て、もう一度あの頃を振り返ってみても、ラインの心には何の波も立たなかった。
恨むほどのことでもない。
立場を変えて考えれば、弟の気持ちも分かる。叔父夫婦の考えも分かる。
そして五百年後、自分を取り囲み、殺そうとした正道の強者たちのことさえ理解できる。
強い者が弱い者を食らい、生き残れる者だけが残る。
それが、この世界の姿だ。
誰もが自分の望むものを求め、わずかな好機を奪い合っている。
ならば互いに邪魔をし、争い、時には殺し合うことに、何を不思議がる必要がある?
五百年という歳月は、ラインにその程度のことをとっくに理解させていた。
今の彼の胸にあるのは、ただ一つ。
永生へ至る道。
もし、その道を塞ぐ者がいるのなら。
相手が誰であろうと関係ない。
最後に残るのは、自分か、相手か。
それだけの話だった。
ラインが求めるものは、あまりにも遠い。
その道を選んだ時点で、いつか世界中を敵に回すことも。
最後には一人で歩くことになることも。
その途中で、何度となく血を流すことになることも。
すべて覚悟している。
それが、五百年を生きたラインがたどり着いた答えだった。
(復讐する気はない)ラインは心の中で呟く。
(だが、外道の道に妥協という言葉もない)
そう考えると、思わず小さく笑いが漏れた。
ラインは弟へ振り返り、淡々と一言だけ告げた。「もういい。戻れ」
ライルの胸が、びくりと跳ねた。兄の視線が、氷の刃のように鋭く感じられた。
まるで自分の胸の一番奥まで見透かされているようだった。
その目の前では、雪の中に裸で立たされているかのように、何一つ隠せる気がしない。
「……じゃあ、また明日。兄さん」
それ以上は何も言えなかった。
ライルはそっと扉を閉めると、小さく身を縮めるようにして、その場をあとにした。




