172.黒、白、灰
かつて、ライルにとって、ラインは登ることのできない高峰だった。
その影に、一生覆われるのだと思っていた。
だが、人生は思いがけない転機をもたらした。
ラインが荒んだ姿を見せたことで、兄の弱さを知った。
心の中にそびえていた高峰が、ついに崩れ落ちたのだ。
ところが――
あれは、兄の芝居にすぎなかったのか?
崩れ落ちたはずの高峰は、今や謎めいた霧に包まれているようだった。
(兄さん、いったいどんな人なんだ?)
ライルはようやく、自分が実の兄をまるで見抜けていないことに気づいた。
深い思惑を隠し、腹の底を見せない。
真偽を見分けられないほどの演技も、人を殺すときの残酷さも、ひどく見知らぬものに感じられた。
その中には、自分でも認めたくない恐れが混じっていた。
あの忌々しい感覚が、また戻ってきたのだ。
何とか恐れを振り払おうとし、無意識にアキラの後を追った。
「シュタールさん、ありがとう。真相を教えてくれて、兄さんの別の一面を見せてくれて。あなたを手伝うことは、僕のためにもなる。何でも聞いて。知っていることは、全部話すよ」
ライルは誠実に言った。
アキラは一度うなずき、それから首を横に振った。
「知っておくべきことは、だいたい分かりました。今の問題は、ラインの酒虫が、いったいどこから来たのかです」
「そうだね。確かにおかしい。あの頃、兄さんはまだ両親の遺産を継いでいなかった。下等資質で、修行を始めたばかりだったのに、どこから酒虫を手に入れたんだろう?」
ライルも眉をひそめた。
(可能性は大きく二つです。誰かの援助を受けたか、遺産を得たか。ただ、酒虫は一環の精霊使いにとって、修行のこの上ない助けになります。それほど貴重な精霊を、自分の子や孫に残さず、両親を亡くし、叔父夫婦とも縁を切ったラインにわざわざ譲る人がいるでしょうか?下等資質の彼に、そこまで期待をかける理由が、本当にあるのでしょうか?遺産なら、どんな遺産でしょう?)
そこまで考えて、アキラは思わず足を止めた。
(遺産……遺産……)
その言葉が、何度も頭に浮かんだ。
少女は考え込んだ。
(もし、どこかに遺産があるなら、すべて辻褄が合う。まず、酒虫の出所が説明できる。それに、ルイス・ベルナーを殺す動機も!)
アキラは、たちまち気を奮い立たせた。
これまで彼女を悩ませていた主な問題は、殺人の動機だった。
人を殺すからには、動機があるはずだ。
ラインは酒虫を人前に出し、ルイスはそれを買おうとした。
だが彼女には、酒虫の価値だけで、人を殺す動機になるとは思えなかった。
しかし、損をするのが我慢ならない性分のルイスが、酒虫の購入に固執し、ラインを尾行した末、遺産の在りかを発見したとしたら……
ラインは、どうするだろう?
アキラは笑い声を漏らした。
ライルが怪訝そうな目を向けた。
少女は振り返った。
「ローデン一族の正史を調べたいんです!」
ライルは首を横に振り、両手を広げた。
「正史は一族の禁地に置かれている。部外者が、勝手に見られるものじゃないよ」
「それなら、あなたは入れるんですか?」
「長老でないと入れないんだ」
ライルは再び首を横に振った。
「そうですか……どうすればいいんでしょう?」
アキラは眉をひそめた。
「シュタール嬢、わたくしなら、お力になれるかもしれませんわ」
片腕の老女が、陰から歩み出た。
ほかでもない、メディシンだった。
以前、薬堂長老を退き、ラゼルに取って代わられた。
その後、自ら片腕を断ったこともあり、権勢は大きく損なわれていた。
今は、族長派から徐々に離れ、独自の派閥を立ち上げようと考えている。
だが、それが可能なのは、コア、カルの二大派閥が大きな打撃を受け、族長派にも、ほかの派閥をまとめ上げる力がなかったからだ。
少し前には、権勢への欲望に突き動かされ、ラゼルと手を組み、薬堂長老の座を取り戻した。
だが、それも当座の策にすぎない。
まずコア派閥を倒して呑み込まなければ、新興派閥の首領として地位を固めることはできなかった。
コア派閥を呑み込むには、その希望を潰すだけでよい。
その希望とは、当然、ライン・ローデンだった。
「鉄血探偵殿、シュタール嬢。実を申せば、わたくし、以前からお二方の動向に目を配っておりましたの。どうぞ、ついていらしてください。一族の禁地へご案内いたします。ふふふ、普段は厳重に守られておりますけれど、あいにく、今はわたくしが警備を預かっておりますのよ」
他人の手でラインを葬り去るつもりだった。
たとえラインが無実でも、罪をでっち上げて告発することさえ辞さない。
地下の鍾乳洞にある密室で、アキラはローデン一族の歴史を記した秘典を目にした。
初代による集落の創建から、栄華を極めた時代、そしてやや衰えを見せる現在まで、数百年にわたる大小の出来事が、詳しく記されていた。
アキラは最初の数ページを読み、驚くべきことを口にした。
「この初代目族長は、素性が謎に包まれていて、たった一人でローデンの集落を築いています。組織に属する正道の精霊使いではなかったのですから、特殊な手段を持つ外道だった可能性が、かなり高いです!」
「珍しいことではない。外道精霊使いの中にも、世を渡り歩くことに倦むと、一か所に腰を据え、子をもうけ、一族を興す者がおる。数百年も経って一族が組織として形を成せば、黒から白へと変わり、その子孫は正道になる。よくあることだ。何も不思議ではない」
傍らで、レオンが口を開いた。
「それなら、昔犯した罪は、そのまま帳消しになるんですか?」
アキラは憤りをあらわにした。
「悪事を働いた外道精霊使いが、疲れたら住みついて、安穏と余生を送るなんて。あまりに虫がよすぎませんか?」
レオンはため息をついた。
「アキラ、若い頃の私も、お前と同じであった。黒は黒、白は白だと思っておった。だが、多くを見聞きすれば、この世は実のところ灰色なのだと分かる。ときに黒は白となり、白もまた黒となる。黒であっても、白ほど陰険とは限らぬ。白のほうが、かえって罪深いこともある」
少し間を置き、続けた。
「それに、外道精霊使いにも事情はある。正道の精霊使いは、組織の名の下に修行の資源を握り、支配しておる。外道精霊使いは孤立し、力も乏しいゆえ、過激な手段に頼るしかない。初代目族長のように手を引き、正道へ移ろうというなら、よい結末と言えよう。少なくとも、それ以上の悪事はやめ、正道に力を添えておるのだからな」
レオンは諭したが、少女が納得していないのは明らかだった。
首を横に振り、きっぱりと言った。
「父上、そのように外道精霊使いに同情するのは間違っています。白は白、黒は黒です。過ちを犯したなら、罰を受けるべきです。法を破ったなら、裁かれるべきです。そうでなければ、公正さは、正義は、法は、いったいどこにあるんですか?」
「これは同情ではない。人のいるところには利があり、利のあるところには犯罪が生じる。人が存在する限り、犯罪が絶えることはない。アキラ、お前もやがて気づくであろう。一人の力は、あまりに小さいものなのだ」
レオンの口調には、長い歳月を経た者の重みと、悲しさがあった。
「まあよい。今のお前に、このようなことを話すのはまだ早い。事件の調べに専念するがよい」
「はい、父上」
アキラは唇を尖らせ、父の物悲しい言葉を、さほど気に留めなかった。
人は若い頃、世界を変えられると思うものだ。
だが、成長するにつれ、世界に変えられることなく、自分らしさを保てただけでも、立派な成功なのだと気づいていく。
少女は読み進めていたが、不意に手を止めた。
「四代目族長……酒飲のカイ?酒……酒虫?」
その両目が、ぱっと輝いた。
……
電流がまとわりつき、刃のように鋭い狼の牙が冷たく光っていた。
一頭の轟雷狼が、シオンへ猛然と飛びかかった。
狼の爪が、空中に光の軌跡を描いた。
シオンは微動だにしなかった。
青い瞳の中で、狼の爪がますます大きくなる。
それでも、避けようとはしなかった。
不意に、腹部の空界から、まばゆい白光がほとばしった。
白光は空中で弾け、光の雨となって四方へ散った。
その光の雨の中から、雪のように白い、優美な蛇が姿を現した。
五環の精霊を前に、先ほどまで咆哮して襲いかかっていた轟雷狼は、一気に気勢を失い、逃げ腰になった。
だが、雪衣聖蛇は、すでに口を開いていた。
雲のような霧を、軽く吐き出した。
白霧は緩やかに見えて、実際は速かった。
瞬く間に、轟雷狼を覆い尽くした。
視界を遮られた轟雷狼は、焦って身を翻し、後ろへ跳んだ。
だが、どう動こうとも、白霧は影のように付きまとい、覆い続けた。
振り払うことはできなかった。
この霧こそ、雪衣聖蛇の能力だった。
一度覆われれば、強敵も方向を失い、目の前には白一色の世界が広がる。
雷狼という獣は、もともと視力に優れ、聴力には乏しい。
轟雷狼も同じだった。
最も頼りになる感覚を封じられ、焦って何度も吠えた。
動き回るうちに木々を折り、岩を砕き、ますます凶暴になっていった。
轟雷狼が咆哮した。
不意に口を開き、青く光る電流を吐き出した。
電流は、ちょうどシオンへ向かっていた。
だが、彼はなおも避けなかった。
稲妻が胸を直撃し、その体を貫いた。
シオンは、ゆっくりと見下ろした。
胸には、前から背中まで貫く大穴が開いていた。
だが、すぐに傷口が凍り始めた。
白い氷が幾重にも重なって覆い、やがてその氷霜が解け、血肉へと姿を変えた。
(これが、檀雪の血のほんまの強さなんやな。この身は氷、氷はこの身や。普通の精霊使いには致命傷でも、ほんの数呼吸で治せるんや)
檀雪の血をまったく抑えなくなったことで、氷の肉体も強化されていた。
シオンは心の中で感嘆し、ゆっくりと右腕を持ち上げた。
かつて失った右腕も、今や檀雪の血によって、元どおりになっていた。
「雪衣聖蛇も、檀雪の血の気配を感じ取って、自分から空界へ入ってきたんや。檀雪の血は、水系の精霊のほうから寄ってくるほどのもんなんやな!これほど強うて、それでいて、これほど弱いんやな!」
シオンは天を仰ぎ、長いため息をついた。
この数日、修為を抑えてはいなかった。
檀雪の血はますます強まり、死の時が近づいていることも、いっそうはっきりと感じられた。
「遺産について、泉の主には、まだ動きがないのか?」
ベル一族の族長が歩み寄り、気遣わしげに尋ねた。
シオンは首を横に振った。
「認められたわけやない。檀雪の血の気配に引かれて、住みかを霊泉からこの空界へ移しただけなんや。危ない目に遭うて、命まで脅かされたときだけ、外へ出て守ってくれるんや」
雪衣聖蛇は、シオンに錬化されていなかった。
その守護も、きわめて限定的だった。
先ほど轟雷狼が吐いた電流は、あまりに速かった。
雪衣聖蛇は速さを得意とせず、反応する前に、シオンが撃ち抜かれてしまったのだ。
結局のところ、防御精霊ではなかった。
ラインの前世におけるハンスと水禍蟇も、似た状況だった。
ハンスは五環の水禍蟇に力を借りていたが、最後には精霊使いに暗殺された。
ベル一族の族長はため息をついた。
残念で、惜しくてならなかった。
だが、ほかに手立てはない。
できることは、すでにすべてやった。
「そうだ、三族の話し合いは、もう決着がついた。ロア一族は戦力の大半を温存しており、侮れぬ。最終的に、三族大武闘会を開き、その結果に応じて賠償の内容を決めることになった。参加できるのは、三十歳未満の精霊使いだけだ」
「分かったで」
シオンはうなずいた。
「もう長くはないと感じています。それでも、こうして腕を競う機会があるのは、本当に嬉しいです。ありがとうございます、族長様」
「いや、これも一族のためだからな」
ベル一族の族長は、いくらかきまり悪そうだった。
この武闘大会を提案したのは、彼自身だった。
シオンから、できる限りの価値を搾り取るためだった。
だが、シオンの感謝は、心からのものだった。
雪衣聖蛇が遺産へ導こうとする様子を見せない以上、初代先祖の遺産を継ぐ縁はないのだろう。
だが、生があれば死もある。
それが何だというのか?
すでに自分の道を見つけ、恐れなどとうに捨てていた。
ただ一つ、心に残る再戦の約束だけは、どうしても手放せなかった。
(ライン、三族大武闘会には来るんやろ?がっかりさせんといてや。今はほんまに強いんや。ほんまに、強いんやから……)




