17.酒虫初錬化、思わぬ難題
(私の資質は下等。空界に蓄えられる霊海は、最大でも四割四分だ)
(しかも、精霊が私の精神力を押し出す速さは、自然回復する速さを大きく上回っている。)
(精霊を錬化するには、どうしても外から精神力を補わなければならない。つまり、霊石を消費することになる)
(精霊の意志が弱ければ、それだけ抵抗も小さく、錬化は容易になる。とはいえ、生き物である以上、生きようとする意志は必ずある)
ラインはこれまでの経験から、必要になる霊石の量を計算した。
(月印なら、少なくて五個。抵抗が強ければ八個ほど)
続いて、手に入れたばかりの酒虫について考える。
(酒虫なら……最低でも十一個。多ければ十六個は必要だろう)
酒虫も月印と同じ一環精霊だ、
しかし酒虫のほうが遥かに希少で、その分だけ錬化の難易度も高い。
今のラインが持っている霊石は十七個。
酒虫を錬化するだけで、うまくいっても残り六個。
最悪の場合、残るのはわずか一個だった。
夜空には青白い三日月が浮かび、澄んだ月光が静かに地上へ降り注いでいる。
柔らかな夜風が吹く中、ラインは宿屋へ戻った。
宿屋の入口は、すでに閉まっていた。
ドンドンドン。
ラインが扉を叩く。
「はいはい! 聞こえてますよ!」
「こんな時間に誰だ……」
中から眠そうな声が聞こえ、しばらくして若い店員が扉を開けた。
眠そうで、どこか不機嫌そうな顔をしていたものの、入口に立つラインを見るなり表情が一変する。
「ライン様でしたか!」
慌てて背筋を伸ばし、笑顔を浮かべた。
「どうぞ、お入りください」
ラインは軽く頷き、表情を変えないまま宿屋へ入った。その冷淡な態度を見ても、店員の愛想はむしろ良くなる。
「ライン様、お腹は空いていませんか? ご希望でしたら、厨房に言って夜食を用意させますけど」
「必要ない」
ラインは首を横に振った。
「熱い湯だけ用意してくれ。」
「はい! すぐにお持ちします! 先にお部屋へお戻りください。すぐに届けますので!」
ラインは短く返事をし、階段を上がっていった。
店員はその背中を見送っていた。
灯りを受けた瞳には、はっきりとした羨望が浮かんでいる。
「精霊使いか……俺にも、修練できる資質があったらなあ……」
拳を握り、深くため息をついた。
その声は、階段を上るラインの耳にも届いていた。
ラインは心の中で苦笑する。
精霊使いになれば、普通の人間を遥かに上回る力を得られる、
その力があれば、社会の中でもより高い立場に立てる。
もっとも、そのために必要なものも決して少なくない。
まず、金がかかる。
修練には霊石が必要、
戦うにも霊石が必要、
精霊の錬化にも霊石が必要で、
物を買うにも当然霊石が必要。
霊石がなければ、まともに修練を続けることさえ難しい。
まだ精霊使いではないあの店員には、外から見ているだけでは、そうした苦労までは分からないだろう。
今日の夕方、宿屋で会った一環精霊使いのキバ。
彼が青竹酒を叩き割ったときに口にした言葉も、まさにそれを表していた。
自分は霊石がなくて困っている。
それなのに、ただの狩人たちが霊石二個もする酒を飲んでいる。
それが気に入らなかったのだ。
たった一言だったが、
低い境界の精霊使いが普段どれほど霊石に困っているかを、よく表していた。
精霊使いは普通の人間より多く稼げる。
一方で、それ以上に出ていく金も多い。
場合によっては、霊石一個どころか、小さな欠片一つまで惜しくなる。
特に低い環の精霊使いほど、その傾向は強い。
表面上は立派な格好をしていても、実際には余裕のない暮らしをしている者も珍しくなかった。
(境界が上がれば上がるほど、必要になる資源も増えていく。)
(後ろ盾のない精霊使いが修練を続けるのは、やはり難しい)
部屋へ戻って灯りをつけると、間もなく店員が湯の入った桶を運んできた。
身体を拭くための布も一緒だった。
ラインは店員を下がらせ、扉を閉めて内側から鍵をかける。
温かい湯で身体を拭き、そのままベッドへ上がった。
身体にはさすがに疲れが溜まっていたものの、心の奥にはまだ少し興奮が残っている。
(ようやく酒虫を手に入れた。月印より遥かに価値が高い。)
(ある意味では、精霊使いの資質の差すら埋められる精霊だからな)
ラインはベッドの上にあぐらをかき、酒虫を取り出した。
酒虫はまだ気持ちよさそうに眠っている。
大きさは月印より少し大きく、白く柔らかそうな身体は、まるで丸々と太った蚕の幼虫だった。
灯りの下、その身体には淡い光がまとわりついている。
真珠のような滑らかな輝きだ。
小さな二つの目は、白く丸い頭に埋め込まれた黒胡麻のようで、どこか愛嬌がある。
掌に乗せてもそれほど重くない、
鶏卵の半分ほどの重さだった。
ラインは顔を近づけ、軽く匂いを嗅いだ。
酒虫から、かすかな酒の香りが漂っている。
青竹酒の香りではない。酒虫自身が放っているものだった。
淡く澄んでいて、気を抜けば気づかないほど微かな香り。
ラインが鼻から息を吸い込むと、
その酒の香りがまるで実体を持っているかのように身体の中へ流れ込み、
そのまま空界へ、さらに青銅色の霊海へ落ちていった。
霊海の水面が小さく揺れる。
酒の気配はすぐに精神力の中へ溶け込み、
ごく僅かではあるが、今までとは違う精神力が生まれた。
ラインの霊海を満たす精神力は、本来、青銅特有の金属的な輝きを持っている。
しかし新しく生まれた精神力は、それよりも深い青緑色だった。
しかも明らかに密度が高い。
一環中位の精霊使いが持つ精神力。
ラインはその変化を感じ取ると、満足そうに微笑んだ。
(今の私は一環初位。酒虫で精神力を精錬すれば、一環中位と同等の質まで引き上げられる)
(これが酒虫の価値だ)
単純に一言二言で説明できるほど、小さな差ではなかった。
もっとも、ラインはすぐに笑みを消した。
(今はまだ、酒虫を完全に自分のものにしていない。)
(本源精霊として錬化して、初めて自由に扱えるようになる)
(そうすれば、もっと効率よく精神力を精錬できる)
そこまで考えると、ラインはもう迷わなかった。
霊海から青銅色の精神力を引き出す。
精神力が酒虫を包み込み、そのままラインの掌から離れると、
酒虫の身体が目の前へ浮かび上がった。
少しずつ精神力が内部へ入り込んでいく。
その瞬間、眠っていた酒虫が突然目を覚ました。
身体を激しく捩り、必死に抵抗しながら、ラインの精神力を身体の外へ押し出そうとする。
「……強いな」
ラインの表情が引き締まった。
月印とは比べものにならない。
精神力が減っていく速度は、倍どころではなかった。
(それでも、酒虫は必ず錬化する)
ラインの目に迷いはない。
再び精神力を送り込んだ。
宿屋の一室では、卓の上の一本の蝋燭が静かに燃えていた。
部屋の中央だけを淡く照らし、隅には濃い影が溜まっている。
蝋燭の明かりがラインの顔を照らしていた。
目は閉じられ、意識のすべてが酒虫との戦いへ向けられている。
絶え間なく送り出される青銅色の精神力は、
薄い霧のようにラインの身体から立ち上り、
やがて一つに集まって酒虫へ流れ込んでいった。
酒虫はラインの顔から三十センチほど離れたところで宙に浮かび、
精神力に包まれながら激しく抵抗を続けていた。
時間は静かに流れていく。
蝋燭は少しずつ短くなり、炎も次第に小さくなった。
窓の外では三日月がゆっくりと西へ沈み、やがて新しい朝が訪れる。
朝日が窓の隙間から部屋へ差し込み、細い光が窓枠の縁を明るく染めていた。
ラインが目を開ける。
目の前には、まだ酒虫が浮かんでいる。
白い身体の一部だけが、うっすらと青緑色へ染まっていた。
半晩かけて、ようやく手に入れた成果だった。
ところが、その青緑色の部分は酒虫全体の百分の一にも届いていない。
ラインの表情が重くなる。
(意志が強すぎる。一環精霊の抵抗とは思えないな)
しばらく酒虫を見つめていると、一つの可能性が頭に浮かんだ。
(この酒虫……酒飲のカイの本源精霊だったのかもしれない)
酒飲のカイは、かつて五環に達した精霊使いだった。
もしこの酒虫が彼とともに長い年月を戦い、
五環まで錬成された精霊なら、話は変わる。
酒飲のカイが死んだあと、十分な餌を得られなくなり、
何百年もの間、満足に酒を飲むことすらできなかった。
弱り続けた結果、今では一環まで落ちている。
とはいえ、その中に残る意志まで完全に弱くなったとは限らない。
ラインの推測は、かなり真実に近かった。
この酒虫は、もともと酒飲のカイの本源精霊だった。
生まれつき持っていた精霊自身の意志は、
酒飲のカイによってとっくに消されている。
代わりに、長い年月を酒飲のカイとともに過ごしたことで、
彼の意志の一部が酒虫の中へ深く刻み込まれていた。
酒飲のカイが死んだあとも、その痕跡だけは消えずに残った。
つまり、今ラインが酒虫を錬化するということは、
天然の精霊の意志と争うのではない。
かつて五環にまで到達した酒飲のカイ、
その残された意志と正面からぶつかっているようなものだった。
当然、普通の精霊を錬化するより遥かに難しい。
そもそも人間の意志は、多くの場合、天然の精霊よりも強い。
まして酒飲のカイは、長年外道として生き抜いてきた五環の強者。簡単に折れるような人間ではなかった。
(このままでは、一か月以内に酒虫を錬化するのは不可能だな)
ラインは静かに計算する。
(誰か強い精霊使いの助けがあれば別だ。)
(二環か三環の精霊の力で酒虫を威圧し、中に残っている意志を押さえ込めれば、錬化は一気に楽になる)
そこまで考え、ラインは小さくため息をついた。
とはいえ、そんな助けをいったい誰に頼めるというのか。
両親はもういない、
叔父夫婦は自分から財産を奪おうとしている。
後ろ盾になる人物もいない。
もしラインが上等資質だったなら、話は違ったかもしれない。
一族の誰かが、将来への投資として力を貸してくれただろう。
今のラインは下等資質。
周囲からの期待など、ほとんど残っていない。
そんなラインのために、二環や三環の精霊をわざわざ使い、時間と精神力を消費してくれる者などいない。
それ以上に問題なのは、
酒虫の存在そのものを人に知られるわけにはいかないことだった。
ローデン一族には、酒虫という精霊はいない。
ラインが突然こんな精霊を持っていれば、当然どこで手に入れたのか聞かれる。
説明することはできない。
少し調べられれば、酒飲のカイへ辿り着く可能性も高い。
酒虫と酒飲のカイ。
この二つは、あまりにも結びつきやすかった。
(となると、霊石十七個でも足りない。少なくとも三十個は欲しいな)
「……面倒だ」
思わず声が漏れた。
それでも、ラインの決意は変わらない。
(どれほど難しくても、酒虫を必ず錬化する)
本源精霊は、精霊使いにとって極めて重要だ。
その選択は、今後の修練の方向にさえ大きく影響する。
酒虫がこの世界で最も優れた本源精霊というわけではない。
それでも月印より遥かに優れており、
今のラインが手に入れられる選択肢の中では、間違いなく最良だった。
ぐぅぅ……。
静かな部屋に、妙に間の抜けた音が響いた。
ラインの腹だった。
一晩中眠らず、精神を集中させ続け、酒虫の錬化に全力を使ったのだから、腹が減るのも当然だった。
「まずは食べるか」
ラインは腹へ手を当てた。
「霊石をどう集めるかは、そのあと考えよう」
ベッドから下り、そのまま一階へ向かう。
食堂へ入ると、隅の席を選んで座り、簡単な朝食をいくつか注文した。
食べ始めて間もなく、入口から見覚えのある姿が入ってきた。
ライルだった。
ラインを見つけるなり、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「兄さん」
その声は以前よりも少し強かった。
「どうして宿屋なんかに泊まってるの?」
「昨日の夜も帰ってこなかったよね」
口調には、明らかに問い詰めるような響きが混じっていた。




