167.空界に入る白蛇の謎、父娘が探る集落の実情
夕雲の
晴れて冴えゆく
天の川
まろき月影
音もなくゆく
シオンは窓越しに夜空を見上げていた。
澄みきった月が、夜の帳に白く輝いている。
遠い山々から、ときおり狼の遠吠えが響き、月夜の寂しさをいっそう深めていた。
書斎の傍らでは、ベル一族の族長が呆然と座り込んでいた。
つい先ほど、シオンから檀雪の血について打ち明けられたばかりだった。
「檀雪の血……原初の血……」
ベル一族の族長は、繰り返しつぶやいていた。
「もう長くはないと感じています。空界も、次第に負荷に耐えられなくなってきました。これまで、本当にご迷惑をおかけしました」
シオンは静かにため息をついた。
その表情は穏やかだった。
かつての病的な奔放さや狂気は消え、代わりに、心の底から湧き出る静けさと安らぎがあった。
すでに自分の道を見つけ、生死に惑うこともなくなっていた。
人は成長する。
とりわけ、生と死に直面する経験は、人を成熟させるものだ。
水のような月明かりが降り注ぎ、シオンの白い肌を照らしていた。
その清らかな光の中で、青い瞳はいっそう深みを増して見える。
雪白の髪に白衣をまとった美少年は、絵から抜け出したかのようでもあり、雲上の聖者のようでもあった。
見る者の目を引かずにはおかなかった。
「どうして、こんなことに?当時、お前の資質を調べたときは、上等資質の中でも最高の九割九分だった。十割の檀雪の血ではなかったはずだ」
ベル一族の族長は、いまだ受け入れられずにいた。
「せや。けど、修行を続けとるうちに、ある日突然、資質が上がったんや。一族の典籍を調べたら、こういうこともあると書かれとった。九割九分の上等資質なら、修行中に原初の血に目覚める可能性があるんや」
「十割の資質は、天意が許さぬ。人祖の子でさえ、十割の資質を持った者は、誰一人としてよい末路をたどっていない。ああ、本当に救う手立てはないのか?」
ベル一族の族長は、目の前の少年を見つめ、惜しまずにはいられなかった。
シオンは一族の誇りであり、飛躍への希望だった。
だが今、その命は残り少なく、終わりを迎えようとしている。
輝きはますます強まっているというのに、花火のように、最後の一瞬を彩るだけなのだ。
「根本から解決する方法はあらへん。先延ばしにする方法なら、いくつかある。けど、どれも何年もかけて準備せなあかん。もう、そんな時間は残っとらへんのや」
そこまで言うと、シオンはむしろ小さく笑った。
淡々とした様子は、まるで自分のことではなく、何の関わりもない他人について話しているかのようだった。
「かまへん。誰かて、いつかは死ぬんや。ほんまの永生なんてあらへん!おもろい人生を送れたら、それで十分や」
逆に、族長を慰めた。
「納得できん!どうしても納得できん!くそっ、ベル一族は数百年もの間、ローデン一族に押さえつけられてきた。ようやく希望が見えたというのに、こんな結末とは!いや、まだ一縷の望みはある。まだあるのだ!」
ベル一族の族長は次第に声を荒らげたが、不意に口を閉ざした。
その表情が引き締まり、何かを決意したようだった。
「ついてこい。連れていきたい場所がある……」
そう言って、立ち上がった。
しばらく後。
水のような月明かりが、深い淵を照らしていた。
「ここが、霊泉なんか?」
シオンが尋ねた。
族長の後について長い密道を抜け、ここまでやってきたのだった。
「そうだ。ここは一族の禁地、霊泉のある場所だ。知ってのとおり、どの一族も天然の霊泉を拠り所として成り立っている。そこから産出される霊石が、族人の修行を支えるのだ。ベル一族など、まだ中小規模の一族にすぎん。ローデン一族とロア一族を併呑し、少なくとも三つの泉源を手中に収めて初めて、大規模な一族と呼べる」
ベル一族の族長はため息をついた。
「それで、族長。ここへ連れてきたんは、なんのためや?」
ベル一族の族長は複雑な表情でシオンを振り返った。
なおも、ためらいが残っているようだった。
「本来、お前をここへ連れてくるつもりはなかった。だが、世の中は分からぬものだ。まさか、檀雪の血に目覚めるとはな。お前に残されたただ一つの望みは、この泉源の中にある」
「その泉に、何があるんや?」
「泉の主がおられる!」
ベル一族の族長は重々しく答えた。
「泉の主?」
シオンは少し意外そうだった。
「泉の主とは、あのお方への尊称だ。ベル一族の初代先祖が残された精霊でな。生来、清潔を好み、霊泉の水を糧として、ひそかにこの泉に棲み続けておられる」
ベル一族の族長は説明を続けた。
「初代先祖は亡くなられる前に、継承者のための遺産をひそかに用意し、その手がかりとして、この精霊を残された。泉の主に認められれば、お前を導き、その遺産を継承させてくださる。だが、認められなければ……」
そこで言葉を切った。
「そしたら、どうなるんや?」
ベル一族の族長は、厳しい表情で答えた。
「殺される!」
……
同じ頃、ローデンの集落。
部屋の中で、アキラは偵察精霊を収め、満足げにうなずいた。
「環境は悪くないね。わりと綺麗だ」
ここで言う「綺麗」とは、部屋の掃除が行き届いているという意味ではない。
周囲に仕掛けられた監視の手段が少ないということだった。
もちろん、まったく監視されていないはずはない。
何しろ、レオンは五環精霊使いだ。
その脅威は大きく、ローデン一族としても、何の備えもせずにはいられない。
ただ、その警戒と監視はごく控えめで、加減も絶妙だった。
不快感を抱かせるほどではなく、少々行き届きすぎた、手厚いもてなしだと受け取ることさえできた。
だからこそ、アキラは「わりと」と言ったのだ。
レオンはわずかにうなずいた。
「アキラ、長らく私のそばにいて、お前も確かに多くを学んだ。だが、己の手でやってみねば分からぬこともある。ただ傍らで見ておるだけでは足りぬのだ。ゆえに、此度の事件は、お前の手で解決してもらおう」
「父上、僕は必ず全力を尽くします!」
「うむ、よい。では問おう。まずは何から手をつけるつもりだ?」
レオンは、娘を試すつもりで尋ねた。
アキラは微笑み、窓の外の月へと顔を向けた。
「今夜は月が明るいですね。父上、僕と一緒に、ローデンの集落を散歩してみませんか?」
その答えに、レオンの口元にようやく満足げな笑みが浮かんだ。
事件の調査に取りかかる際、まず急いで事件そのものを知ろうとするものではない。
周辺の環境を調べることこそ、事件を解き明かす第一歩なのだ。
シュタール父娘は、ゆっくりと通りを歩いた。
ウルフウェーブの最も激しい攻勢をしのいだローデンの集落は、荒れ果てていた。
建物は倒壊し、あちこちに血痕が残り、雑多な物が積み上げられている。
ときおり、傷を負った者たちの低いうめき声も聞こえてきた。
二人はかなりの範囲を歩いて回ったが、その間、一言も交わさなかった。
「ライン、この小僧め!とっとと出ていかんか!」
不意に、屋敷の塀の向こうから怒鳴り声が響いた。
シュタール父娘は、思わず足を止めた。
しばらくすると門が開き、ラインが鼻を撫でながら出てきた。
口元には、あるかないかの笑みが浮かんでいた。
「おお、若き長老ではないか」
少し離れたところから、レオンが声をかけた。
ラインは笑みを収め、拳を掌に合わせて一礼した。
「鉄血探偵殿に、ご挨拶申し上げます」
「若き長老よ、私ども二人はこの地に来たばかりで、まだ勝手の分からぬことも多い。少々、教えてはもらえぬかな?」
レオンが、不意に誘いをかけた。
アキラは父を見たが、何も言わなかった。
ラインの目がわずかに細くなった。
ちょうど、この父娘を探ってみたいと思っていたところだ。
思いがけず、機会が向こうからやってきた。
「お二方は遠路はるばるお越しくださり、労を惜しまず事件を調べてくださっています。集落一同、協力するのが当然です。どうぞ、こちらへ」
ラインの受け答えは自然で、後ろ暗さなど微塵も感じさせなかった。
そのまま先に立って歩き出した。
……
霊泉が、煮え湯のように音を立てて湧き返っていた。
不意に、水音を立てて、泉水がせり上がった。
ある高さまで達すると、水の塊は弾け、四方へ飛び散った。
雪白の鱗に全身を覆われた細長い白蛇が、波を踏み、優美な姿を現した。
翡翠のような双眸は、冷ややかだった。
頭の両側からは一対の長いひげが伸び、聖衣に垂れる飾り帯のように、ひらひらと揺れている。
五環――雪衣聖蛇!
「泉の主に、ご挨拶申し上げます!」
ベル一族の族長は、興奮してひざまずいた。
そして、焦ったように促した。
「シオン、お前もひざまずかぬか!」
「精霊にひざまずくことは、絶対にせえへん!」
シオンは鼻を鳴らし、槍のようにまっすぐ立っていた。
雪衣聖蛇の漂わせる気配は、どこか浮世離れして冷たく、その内に鋭い殺気を秘めていた。
だが、シオンはまったく恐れず、青い瞳で蛇の双眸をまっすぐ見据えていた。
時が止まったかのようだった。
霊泉も、ベル一族の族長も、もはや取るに足らぬ背景にすぎなかった。
泉水は淡い光を放っている。
青い瞳の少年は絵のように美しく、銀のひげを持つ白蛇は聖なるもののようだった。
互いに、ただ見つめ合っていた。
長い時が過ぎた。
不意に、白蛇がひと声高く鳴き、白い光となってシオンへ突進した。
シオンの体が震えた。
白光は空界へと入り込み、再び白蛇の姿に戻った。
白蛇は霊海の中央に陣取り、まるで覇者のように、周囲の精霊をすべて脇へ追いやった。
「これは……」
ベル一族の族長は立ち上がり、困惑した顔でつぶやいた。
「一族の秘伝にある記述と、合わぬではないか」
一族の秘伝には、確かに記されていた。
精霊使いが認められれば、雪衣聖蛇はその継承者を背に乗せ、空高く昇っていく。
そして、天空に隠された遺産を手に入れさせるのだ。
だが、目の前の状況は奇妙だった。
雪衣聖蛇はシオンを殺さず、自らその空界に入った。
ならば、彼を認めたということなのだろう。
それなのに、なぜシオンを背に乗せ、そのまま空へ飛び立たなかったのか?
(まさか、秘伝の記載が間違っているのか?)
ベル一族の族長にも、すぐには分からなかった。
……
時は静かに流れていった。
「ローデンの集落は、おおむねこのようなところです。このほかに、地下の鍾乳洞もあります。ただ、そこは一族の禁地ですから、部外者は入れません」
ラインはそう説明した。
夜空の月を見上げ、さらに言った。
「もう遅いですし、お二方とも早めにお休みになってはいかがですか。明日の捜査に備えて、英気を養っておくべきでしょう?」
「うむ、若き長老殿のおっしゃるとおりだ。道中、あれこれと教えていただき、かたじけない。若き長老殿も、どうぞお戻りくだされ」
「では、これで失礼します」
ラインは拳を掌に合わせて一礼し、あっさりと立ち去った。
レオンは興味深そうにその背中を見送っていた。
ラインが街角を曲がってから、ようやく視線を戻した。
「アキラ、あのラインをどう見る?」
不意に尋ねた。
「父上、あの人の名前を覚えておられたんですね……僕、あの人はどうにも好きになれません。第六感では、あの人の背後に何か影が潜んでいるように感じます」
少女は眉をひそめた。
レオンはうなずいた。
「お前の持つ霊勘が、第六感を高める精霊であることは承知しておる。だが、事件を解き明かすには、確かな証拠が要る。第六感だけでは、人を納得させることはできぬ。己の勘に頼りすぎるでない。此度の捜査では、霊勘を使ってはならぬ。」
「はい、父上」




