164.鉄の掌が凶悪な狐を退け、過去の事件が新たな客を招く
ラインはシオンの背を、その姿が遠ざかるまで見送った。
「この世のおもろさを見届ける、それが道や……」
少年の黒い瞳に、かすかな重々しさがよぎった。
迷いを失ったシオンは、以前より危険になる。
もはや生死に囚われず、死に近づけば近づくほど、檀雪の血は比類ない輝きを見せるだろう。
「だが、私と日を改めて戦うつもりか。ふっ」
ラインは不意に小さく笑った。
「その望みは、叶わない……」
冥煙を抜け出した瞬間から、すぐにヴェルデン山を離れると決めていた。
シオンとの戦いは面白いが、何の利益もない。
シオンが人生の彩りをラインに求めるのは、まだ若く、その視野がヴェルデン山に限られているからだ。
ラインは違った。
生まれ変わって成し遂げようとする大計の中では、この山など出発点にすぎない。
大志を抱く者は、視野も広い。
他人との小さな遺恨に囚われたりはしない。
(行くべきだ。借威狐は頭狼より狡猾で、始末も悪い。今のベル一族とローデン一族の力では、防ぐのは難しい。五環の強者が現れて戦況を覆すか、両族が手を結ぶのでなければな)
両族には、長年の怨恨が絡みついていた。
手を結ぶのが時勢の流れだとしても、本当に心を一つにするのは難しい。
ラインは、その先行きを楽観していなかった。
(ヴェルデン山の今後は、この一戦で決まる。二人の族長が借威狐に殺されれば、ここは雷狼の領地になる。族長が一人しか生き残らなければ、両族が手を結んでも、もう一方の一族は使い終われば捨てられる駒となる。借威狐が殺されても、両族は甚大な損害を受け、休養を要するだろう。一族が内部を立て直す余裕を取り戻せば、私への調査は避けられない)
状況がどう変わるか、よく見えていた。
ここは、個人の力が集団を凌ぐことのできる精霊の世界だ。
精霊使いの環階が高いほど、たった一人で局面を覆せる可能性も増していく。
ベル一族、ローデン一族、雷狼の群れ。
どの陣営であれ、さらに四環の強者が一人加われば、戦いの行方を決めるに足りた。
だが、どの結末もラインには不利だった。
(離れるときだ。理想の治療精霊はまだ手に入っていないが、世のすべてが望みどおりになるものか。集落へ戻り、泉母蓮を手に入れ、一族の倉庫から治療精霊を一体持ち出して、すぐに旅立つ!)
最後に、もう一度振り返った。
黒煙の奥では、なお激しい轟音が続いていた。
ラインは背を向け、ローデン集落へ急いだ。
長老の身分があれば、一族の倉庫を強引に開かせ、霊石や精霊を手に入れることはできる。
今は状況が揺れ動き、人々も不安に駆られている。
つけ入る隙があった。
だが、この機を逃せば、戦いがどう終わっても大勢は定まる。
混乱に乗じて動くのは難しくなるだろう。
雷翼は当分使えない。
山林を走るしかなかった。
ウルフウェーブが通り過ぎたことで、かえって、危険だらけだった山道が安全になっていた。
ほどなく、ローデン集落が遠くに見えた。
「ん?何者だ!」
ラインは急に足を止めた。
前方に、見知らぬ二人が現れた。
どちらも精霊使いの装いだった。
年長の男は背が高く、背筋がまっすぐだった。
山のように揺るがず、深淵のように底知れない。
何より目を引くのは、顔を覆う青銅の面だった。
面は素朴な造りで、太古の趣を漂わせていた。
三つの穴が開けられ、両眼と唇だけが見えている。
その眼には長い歳月が刻まれながら、堂々たる正気が宿っていた。
固く結ばれた唇は刃で刻んだようで、鉄にも似た意志の強さを感じさせた。
面でも隠しきれない耳元の白髪が、年齢を物語っていた。
もう一人は、とても若かった。
剣のような眉に、澄み切った明るい目を持っていた。
視線を動かすたび鋭い光が走り、鷹や虎を思わせる。
顔立ちからすれば、ラインと同じ年頃だった。
だが、腰帯には「三」の字を刻んだ銀の板が嵌め込まれていた。
この年で、すでに三環の精霊使い!
明らかに、並外れた修行の才を持つ若き天才だった。
ラインは若いほうへ少し目を留めただけで、年長の男へ視線を移した。
若いほうは浅黒い肌で、同じく唇を固く結んでいた。
全身に無駄がなく、精悍で、侮れない。
だが、わずかに膨らんだ胸と、手足や喉元の細部から、ラインには少女だとわかっていた。
女だからと侮ることはない。
ただ、この凛々しい少女と比べても、傍らの中年男は、無視できないほどの大物だった。
(レオン・シュタール……)
ラインは心の中で驚き、相手を認めた。
青銅の面。
腰帯の四角い紫水晶。
そこに刻まれた「五」の字。
五環の精霊使いにして、天下を巡って法を執行し、神業のように事件を解き明かす。
「鉄血探偵」と呼ばれる、レオン・シュタールだった!
公平無私で、容赦がない。
捕らえ、斬首してきた外道の数は知れなかった。
正道の模範であり、南域を歩いて無数の事件を解決し、その名を広く轟かせていた。
「若者よ、一つ尋ねたい」
レオンは胸の前で拳を掌に合わせ、ラインに一礼した。
名を成して久しい五環の強者でありながら、態度は丁重で穏やかだった。
「その傷と急ぐ様子から察するに、そなたの族長や長老方に、何か難儀が生じたのではないか?」
ラインは自然に表情を切り替えた。
焦りと驚きを浮かべつつ、疑いと警戒もにじませた。
「あなた方は誰だ?なぜそれを知っている?そのとおりだ、頭狼を追っていたが、大変なことになった。借威狐に出くわしたんだ。援軍を求めて戻るところだ」
レオンは、すぐに答えた。
「私の名はレオン・シュタール。敵ではない。味方だ。つい先ほど、ローデンの集落を出てきたところだ。若者よ、援軍を求めに戻るには及ばぬ。ウルフウェーブを前に、人は一つとなり、ともに進み、ともに退くべきであろう。私も微力ながら、助太刀いたそう」
……
「くそっ、このハクが今日ここで死ぬことになろうとは!」
「ふん、死ぬにしても、この借威狐をただでは済ません!」
ハクとベル族長は全身に傷を負い、精神力も尽きかけていた。
濃い死の気配を感じ取っていた。
冥煙はすでに消えていた。
だが、戦場に残った長老たちは全員が命を落とし、生きているのは二人だけだった。
借威狐も重傷を負い、骨まで見える傷口さえあった。
牙を剥き、雷狼の大軍の後ろへ身を引き、狡猾な光を眼に浮かべていた。
自ら前へ出ようとは、決してしなかった。
「来い、この臆病者め!」
ベル族長が吼えた。
借威狐はさらに少し退き、狼の遠吠えを上げた。
普通の雷狼を、二人の四環精霊使いへけしかけた。
「狡猾な奴だ、まったく……」
二人の族長は顔を見合わせ、ため息をついた。
死の間際に強烈な反撃を浴びせようと、まだ手を残していた。
だが、人に劣らぬ知恵を持つ借威狐は、罠にかからなかった。
「もはや、これまでか……」
「無念だ、こんな普通の雷狼どもの牙にかかるとは!」
二人が憤っていたとき、遠くから声が響いた。
「お二方、持ちこたえてくれ!」
声が山林にこだました。
二人は同時にはっとし、振り返った。
高大な男が猛烈な速さで駆けてくる。
狼たちの間を縫い、数呼吸のうちに二人の傍らへ立った。
「あなたは?」
二人が同時に尋ねた。
「レオン・シュタールと申す」
ベル族長は軽く息を呑んだ。
驚きと喜び、そして疑問が入り交じっていた。
なぜこの強者が、ここにいるのか。
ハクは、その理由を知っていた。
たちまち喜色を浮かべた。
「鉄血探偵殿でしたか!」
言い終わらぬうちに、狼の群れが迫っていた。
「畜生どもが!」
レオンは雷鳴のように一喝し、空界の精霊を発動した。
無形の気迫が不意に噴き上がり、四方八方へ広がった。
山が天地を貫いてそびえるように、揺るがない。
高く広がる空のように、人の世を見下ろし、万物を見透かしていた。
威徳!
正義を心に抱く精霊使いだけが、使うことのできる精霊だった。
正義に満ちた気迫があふれ出し、邪な者を震え上がらせる。
その作用範囲内では、敵の意志が弱いほど、大きく力を削がれる。
レオンはかつて、この精霊によって四環精霊使いの闘志を崩し、無様に逃走させたことがあった。
戦わずして勝つことさえできる、強力な手段だった!
迫っていた雷狼たちが、急に足を止めた。
怯えた声を漏らし、後脚を震わせ、それ以上進もうとしなかった。
後方で、借威狐が長く吠えた。
狼たちを動かそうとしていた。
「ふん、人を喰らう悪獣め。なおも歯向かうか!」
レオンは目を見開き、右手を突き出して、相手をつかもうとした。
空気に、幾重もの波紋が広がった。
巨大な黒鉄の掌が宙に現れ、借威狐へつかみかかった。
五環の鉄縛掌!
借威狐は生来狡猾で、雷狼のように何を犠牲にしても敵を殺そうとする執念はなかった。
重傷を負っていることもあり、正面からぶつかるのを避け、すぐに身をかわした。
だが、黒鉄の巨手は相手を捉えて離さず、追い続けた。
逃げきれないと悟ると、借威狐は怒号を上げた。
ついに全力を振り絞り、巨手へ激突した。
巨手が砕け散った。
借威狐も、凄まじい打撃を受けた。
全身の骨が砕け散りそうなほどだった。
うめき声を上げ、もはやレオンを相手にする気もなかった。
最後に彼と二人の族長を恨みのこもった目で見ると、二本の尾を巻き、背を向けて逃げた。
「逃げるぞ!」
「早く止めろ!」
二人の族長が叫んだ。
だが、レオンは立ったまま、次の攻撃を放とうとはしなかった。
「鉄血探偵殿、どうかお力添えを!」
ハクは拳を掌に合わせ、懇願した。
レオンは、わずかに首を振っただけだった。
そのとき、ラインと少女も到着した。
ちょうど借威狐が鉄の掌に退けられるところを見た。
「父上!そんな傷で、どうして戦ったの!」
少女は急いで駆け寄り、腹立たしげに足を踏み鳴らした。
責める言葉の中にも、心配があふれていた。
「アキラ、この借威狐は狡猾この上ない。強く出て退けるのが、最善の策というものだ」
レオンは淡々と言った。
だが、不意に体を震わせ、口から血を吐いた。
その血は、不気味な緑色をしていた。
地面に落ちると、草がたちまち腐食し、悪臭のする煙が立ち上った。
明らかに、ひどい傷を負っていた。
「父上、大丈夫?!」
アキラは急いで両手を上げ、父を治療しようとした。
「そう大げさに騒ぐでない。この傷のことは、お前も知っておろう。少しばかり血を吐けば、よほど楽になるのだ」
レオンは穏やかに笑い、手を振って断った。
それを見て、先ほどまで胸に不満を募らせていた二人の族長は、たちまち恥じ入った。
「鉄血探偵殿は公平無私で、重傷を負われてなお、お救いくださった。このご恩、感謝に堪えませぬ」
「かねてよりご高名は伺っておりましたが、お目にかかれば、まことに噂に違わぬ御方。敬服いたしました。命をお救いいただき、感謝申し上げます!」
二人は順に拳を掌に合わせ、礼を述べた。
「どうか、ベル一族へ客人としてお越しくだされ。命をお救いいただいた恩には、一族を挙げて報いましょう!」
ベル族長が、すぐに招いた。
ハクは、相手に連れていかれるのを黙って見ているわけにはいかなかった。
レオンの来意を知っていたため、得意げに笑った。
「鉄血探偵殿のご来訪の理由は、承知しております。オスカー・ベルナーに頼まれ、あの殺人事件を調べに来られたのでしょう?ローデン一族は、全力で捜査に協力いたします!」
それを聞き、ベル族長の顔色が変わった。
レオンが言った。
「いかにも。ただし、此度の捜査を取り仕切るのは私ではない。我が娘、アキラ・シュタールがその任に当たる」
「ほう?」
皆の視線が、一斉に少女へ集まった。




