154.血月で狼を屠り、宝灯で憂いを払う
地響きを立て、轟雷狼の巨体が地面へ倒れ込んだ。
象にも匹敵するその身体には、もう命がなかった。
口は大きく開かれ、両眼は焦点を失っている。
生命は、すでにそこを去っていた。
全身に無数の傷が刻まれ、鮮やかな赤い血が絶えず流れ出していた。
周囲の地面が、赤く染まっていく。
雨はなおも激しく降り続いていた。
薄まった狼の血が、雨水とともに四方へ広がっていく。
辺りは泥だらけだった。
死骸の傍らに立つ長老たちは、誰もが肩で息をしている。
雨に濡れた身体には狼の血や泥まで跳ねかかり、ひどい有様だった。
「ようやく仕留めたか!」
「この畜生め、防御の精霊を宿しているとは。実に厄介だったな……」
「ライン長老の血月で傷を積み重ねられたのが幸いだった。そうでなければ、もっと苦労しただろう」
長老たちは口々にそう言い、ラインへ目を向けた。
血月を煉成したと聞いたときには、さほど評価していなかった。
だが、轟雷狼を相手にするなら、確かに有効だった。
「皆様、過分なお言葉です。支えていただき、援護していただいたからこそ、私も存分に攻められたのです」
ラインは顔の雨水を拭い、丁寧に答えた。
「いやいや、当然のことだ」
「年を取ったものだな。以前はそうも思わなかったが、ライン長老と肩を並べて戦うと、つくづく思い知らされるよ」
「まったくだな」
長老たちは笑い合った。
先ほどの戦いで、ラインは進退を誤らず、鋭く冷酷な攻めを見せた。
何度も見せた対応の老練さにも、長老たちは目を見張っていた。
しかも、態度は謙虚で、驕ることも浮つくこともない。
噂に聞いたような、孤高で手に負えない若者とは、まるで違う。
その点も、彼らの好感を誘っていた。
「まだまだ、皆様から学ばせていただくことばかりです」
ラインはそう持ち上げた。
ただ、その目には、かすかな陰りがよぎっていた。
血月には、長所も短所もある。
何度も使ううちに、いくらか見えてきたことがあった。
血月は、長期戦に向いている。
作った傷から血が止まらないため、時間が経つほど、相手の傷は重くなる。
ただし、それは相手が治療精霊で対抗してこない場合に限られた。
自然は均衡を保っている。
最強の精霊など存在しない。
強さと弱さは、表裏一体なのだ。
(血月の最大の欠点は、毎月数日間、血を滲ませて戦闘力が激減することだ。主な攻撃手段としては、やはり安定しない。もっとも、百足の洞にいる、あの旋牙百足を手に入れれば、この不足も補える)
このところ、ウルフウェーブが絶えず集落を襲っていた。
長老となったラインは、以前にも増して人目を引く。
岩の裂け目の秘洞へ足を運ぶ機会は、まるでなかった。
「急げ、全力で同族を救え!」
「戦場を片づけろ!精霊は一体も見落とすな!」
轟雷狼が倒れたのを見るや、治療精霊使いたちが駆けつけてきた。
「長老の皆様、お疲れさまでした。薬堂による特別な治療をお受けください」
先頭の精霊使いが、一礼して言った。
「うむ……薬堂のタロウか」
長老たちは相手を認め、ゆっくりと頷いた。
同時に、その表情も変わった。
ラインには笑顔で丁重に接していたが、この男には笑みを収め、上位者らしい傲然とした態度を見せる。
これが、身分の差だった。
タロウ・ローデンは、二環精霊使いにすぎない。
医術だけを比べれば、クスリにも及ばなかった。
「私は無傷ですから、治療は結構です。皆様、またお時間のあるときに」
ラインは長老たちへ頷き、そう告げた。
「ライン長老は、並外れた才の持ち主だ。あれだけ戦って無傷とは、まさに英傑!」
「いやはや、ライン長老に比べれば、年を取ったものだよ」
「ははは、ライン長老、またな」
長老たちは、すぐに笑顔を取り戻した。
「ライン長老、失礼を承知で申し上げます。やはり薬堂の治療精霊使いに、一度お身体を診せてください」
だが、タロウは引き下がらなかった。
彼は薬堂に属し、クスリの親しい友人でもあった。
ラインがメディシンを怒らせて昏倒させた結果、ラゼルという長老が薬堂の代行を務めることになった。
当然、ラインには嫌悪を抱いている。
それでも、薬堂とローデン一族の一員である以上、知らぬ顔はできなかった。
「気遣いには感謝するが、本当に必要ない。では、皆様、これで」
ラインはタロウの肩を叩き、笑顔で一同に別れを告げた。
長老たちも、笑顔や頷きで応じた。
だが、彼が去った後、その顔は次々と重くなっていった。
下等資質でありながら、ラインはここまで育った。
実に稀なことだ。
肩を並べて戦えば、その冷淡さと老練さが分かる。
思い返すだけでも、警戒せずにはいられなかった。
自分たちが十七歳のころ、何を成し遂げていただろうか。
とりわけ、笑顔で薬堂の者の肩を叩いた、あの所作。
そこには、警告と宥めの二つの意味が、同時に込められている。
これほど老練な政治手腕には、肝を冷やさずにはいられなかった。
……
「ライン様、私めを覚えておいででしょうか?」
通りを歩いていると、一人の男が声をかけてきた。
その顔には、恭しさと媚びが浮かんでいる。
「君は……」
ラインは目を細めた。
同じ年に学堂で学んだ者だと分かったが、名前は思い出せない。
覚えているのは、霊石を奪うとき、毎回おとなしく、自分から差し出してきたことだ。
気の弱さの中に、抜け目のなさも隠しているらしかった。
「ロネル・ローデンでございます、ライン様。一年の間、ともに学ばせていただけたことは、私めの誉れでございます。実は、長老に昇進されたと聞いて、多くの同窓が敬服し、憧れを抱いております。ぜひ一度、修行のご経験を伺いたいと話しておりまして。本日の夜は、お時間がございますか?」
ロネルは手を揉み合わせ、目が細い線になるほど笑っていた。
「そういうことか……」
ラインは眉を上げ、軽く頷いた。
「いいだろう。ただ、先に着替えたい。この雨で全身が濡れて、どうにも気持ちが悪い」
「拙宅には、すでに湯と新しい衣を用意しております。美女も何人か、ライン様のお世話をしようと、お待ちしておりますよ!」
ロネルは、にやけた笑みを浮かべた。
ラインは首を振った。
「いや、その前に寄るところがある」
「なるほど、さようでございましたか」
ロネルの表情が変わった。
一族には、長老しか入れない場所が幾つもある。
ラインも、これからそのどこかへ向かうのだろう。
彼はさらに腰を低くし、いっそう卑屈な笑みを浮かべた。
言葉にも、媚びが深まる。
「どうぞ、ご用を優先なさってください。私めの時間など、物の数ではございません。ライン様をお待ちすることも、光栄に存じます」
ラインは頷き、それ以上は何も言わずに歩き出した。
ロネルは慌てて一歩下がり、道を空けた。
腰をかがめたまま、ラインを見送った。
ラインは再び、地下の鍾乳洞へ入った。
希少な精霊を収めた密室は、地上の広場にも匹敵する広さがあった。
だが、置かれている精霊は、それほど多くない。
数十体にすぎなかった。
環階の幅は広く、二環から四環まで揃っている。
二環のものは少なく、その中には愛別離も一体あった。
ローデン一族が知る二環の毒道精霊の中で、最も凶悪な精霊だ。
その毒を一時間以内に排出できなければ、三環の治療精霊でさえ、十分な治療効果を上げられるとは限らない。
これは、かつてビッグ・ジャックがラインの暗殺に使おうとし、最後にはライルに対して使った、あの精霊だった。
ビッグ・ジャックは、自爆させる間もなく殺された。
その後、この精霊はずっとここに大切に保管されていたのである。
最も多いのは、三環精霊だった。
四環も、数は少ない。
ラインは、もともと大きな期待を抱いてはいなかった。
一族に蓄積があるとはいえ、しょせん中規模の一族である。
ほかの二族との競争があり、ウルフウェーブの重圧も受け続けているのだ。
だが、意外にも、かなり望みに近い精霊が見つかった。
宝灯花。
三環精霊で、赤い提灯のような姿をしている。
緑の葉は楕円形で、肉厚にふっくらと膨らんでいた。
葉は全部で三枚あり、互いに等しい角度をなして、それぞれ別の方向へ伸びている。
宝灯花は食料だけでなく、霊石も収められる。
容量も、それなりに大きい。
ラインが求めていた精霊の一つだった。
(ローデン集落に、宝灯花があるとはな。これで、旅の物資に関する不安はなくなる)
ラインは胸の内で喜び、迷わずそれを選んだ。
(実のところ、一族には五環精霊もあるはずだ。ローデン一族の歴史には、五環の強者が二人いた。精霊を遺しているに違いないが、ここに置かれることはない。そのような五環精霊は、たいてい一族の切り札であり、一族が全力で養っている。いや、養っているというより、供物を捧げていると言うべきだろう。あの祖霊堂は、特別な時を除けば、族長しか入れない。もしかすると、あそこに希少な精霊が隠されているのかもしれない)
ラインは洞窟を出た。
雨はやんでいた。
だが、空は相変わらず暗く、空気も清々しいものではない。
血の臭いが漂っていた。
ラインは清潔な衣服に着替え、それから悠然と集まりの場へ向かった。
「ライン長老、ようこそお越しくださいました!拙宅にお運びいただけるとは、光栄の至りでございます!」
ロネルは早くから入り口に立ち、待ちわびた様子で通りを見渡していた。
遠くの街角にラインの姿を見つけるや、愛想笑いを浮かべ、慌てて迎えに駆け寄った。
彼に案内され、ラインは竹造りの建物へ入った。
幾つもの卓には、すでに豪勢な酒食が並べられ、一同が席に着いていた。
ラインを見るなり、全員が慌てて立ち上がった。
すぐに、大げさな称賛が、潮のように押し寄せてくる。
「ライン長老に、ご挨拶申し上げます」
「ライン長老、一日お目にかからなかっただけで、ますますご風格が増しておられます。私め、敬服するばかりでございます!」
「ライン長老と同じ教室で学べたなど、この上ない幸運でございます!今となっては、あの学堂の日々が、まるで夢のように思えます……」
ラインは一同を見渡した。
全員、同じ年に学堂で学んだ者たちだ。
見覚えのある顔ばかりで、誰もが彼に霊石を奪われたことがある。
「どうも」
彼は淡く笑い、上座へ腰を下ろした。
「料理を出せ!上等な酒もだ!」
ロネルが声を張ると、奉公人たちが慌ただしく動き始めた。
さまざまな料理が、次々と運ばれてくる。
どれも味がよかった。
ロネルの家には、多少の蓄えがある。
それでも、ウルフウェーブの襲撃が続く中でこれほどの料理を用意するには、相応の費用がかかった。
それだけの誠意は、見て取れた。
「ライン長老、私めからも、一杯差し上げてもよろしいでしょうか!」
「ライン長老は、どうぞご随意に。飲み干させていただきます!乾杯!」
……
ラインは、本当に気ままだった。
どの杯にも、わずかに口をつけるだけである。
だが、それに異を唱える者はいなかった。
杯が行き交い、酒も三巡したころ。
彼は不意に杯を手にして立ち上がり、笑みを浮かべた。
「若いときは、誰しも向こう見ずになるものだ。以前は未熟で、いろいろとしでかしてしまった。どうか大目に見て、水に流してもらいたい」
彼が立った以上、座っていられる者などいない。
一同は、全員立ち上がった。
ラインが持ち出した昔の話とは、霊石を奪っていた件だ。
誰もが、それを分かっていた。
慌てて、声が上がる。
「とんでもございません!」
「ライン長老は、ご自分の心に正直なお方です。真の英雄でございます!」
「私めの霊石がライン長老のお目に留まったのですから、皆、光栄に思っております!」
「まったくです。ライン長老の雄姿は、今もこの胸に深く刻まれております……」
ラインは、その一杯を飲み干した。
たちまち、一座から一斉に喝采が上がった。




