151.血月を選んで旅に備え、手当とともに供出を求められる
翌日、密室。
ラインは迷うことなく、昨日最後に目にした影留めの精霊を選び取った。
色鮮やかな光が白玉の皿に集まり、一篇の秘方を映し出す。
血月。
二環の月華印と赤髄を合わせて煉成する、三環の精霊だった。
放つ月刃は血のように赤く、洗面器ほどの大きさがある。
敵に傷を負わせれば、その傷口から血が止まらなくなる。
「これだ」
ラインは一行ずつ読み進め、秘方を記憶した。
続いて目を閉じ、内容を頭の中で思い返してから、再び目を開けて照合する。
それを三度から五度ほど繰り返し、ようやく秘方のすべてを誤りなく覚えたと確信した。
長老たちがよく選ぶ金月輪、寒月、幻月に比べ、血月はかなり異色の選択だった。
先の三つの秘方には、煉成の心得や経験が延々と記され、その分量は十万字近くにも及んでいた。
一方、血月についての記述は、数千字にも満たない。
過去にこれを煉成しようとした精霊使いが、いかに少なかったかが分かる。
血月の攻撃力は、どうにか使い物になる程度だ。
射程も十メートルしかない。
敵を傷つけても、出血を止まらなくする効果は、実戦ではさほど優秀とはいえなかった。
一環から五環の精霊使いは、精神力の制約を受ける。
そのため戦闘が長引くことは少なく、たいていは短時間で勝敗が決まる。
出血が止まらなくなったところで、相手を少し困らせる程度にしかならないことが多かった。
治療を得意とする精霊使いなら、それに対処する手段もある。
だが、ラインが何より重視する長所が、血月にはあった。
養いやすいのだ。
金月輪、寒月、幻月よりも、はるかに養いやすい。
必要な餌は、月蘭の花びらではなく、新鮮な血だった。
量こそ多いものの、血の種類は問わない。
西漠の事情はともかく、南域には山々が連なり、深い森には至るところに獣がいる。
獣を殺せば、その場で血を採れる。
血月にとっては、南域のどこにでも餌があるようなものだった。
もっとも、血月には二つの大きな欠点もある。
一つ目は、毎月決まった数日間、絶えず血を滲ませることだ。
その間、攻撃力は普段の三分の一にまで落ちてしまう。
二つ目は、精霊の属する「道」に関わるものだった。
すべての精霊は、いずれかの「道」に属している。
遠い昔、精霊使いたちは、自然界の目に見える要素を基準として、最初の分類体系を築いた。
たとえば、先日の煉成失敗で死んだ水繭は水道に属し、クルの爆炎心は炎道に属する。
やがて精霊への理解が深まると、自然界では生まれ得ない精霊も、数多く煉成されるようになった。
目に見える自然の要素だけでは、分類しきれなくなったのである。
そこで、暮らしの中にありながら、あえて意識しなければ見過ごしてしまう要素も、分類の基準に取り入れられた。
それらが、新たな「道」の名となった。
こうして、酒虫の属する食道、黒イノシシや白イノシシの精霊が属する力道、そして血月の属する血道などが、次々と生まれたのである。
しかし、血道を大成させたのは、天下に名を知られた外道だった。
そのため、「正道」を自称する者は、血道の精霊を見るや、ただちに殺しにかかる。
もちろん、小さなヴェルデン山では、精霊の分類もいまだ整っておらず、血道に関する知識も乏しい。
三族は長年、互いを警戒し続けてきた。
使えるものであれば、正道の精霊であろうと外道の精霊であろうと、ためらわずに使うのだ。
ラインは笑みを浮かべ、勢いよく石卓を叩いた。
「次は、この血月を煉成するとしよう」
迷ったのは、ほんの一瞬だけだった。
彼の決意は、すでに固まっていた。
詳しい手順も注意事項も、すべて頭に入っている。
月華印はすでに手元にあるが、もう一体の素材である赤髄が、少々厄介だった。
赤髄は極めて貴重で、精霊使いの血気を補ってくれる。
これを持つ者は、たいてい活力に満ちていた。
傷を負って大量に失血しても血を補えるため、戦場で生き残る力は、普通の精霊使いより一段上だった。
ラインの不意打ちによって一撃で殺されたグリムも、生前は赤髄を切望していた。
赤髄を屍人鎧と組み合わせれば、後者の後遺症を完全に打ち消せる。
屍人の姿を保てる時間も大幅に延び、後のことを心配せずに済むようになるのだ。
グリムは二環精霊使いの中でも優秀で、決して低い地位にはいなかった。
それでも、戦死するまで、その望みをかなえることはできなかった。
ラインは、密室中央の石卓に並ぶ影留めの精霊へ目を向けた。
今日は、まだ時間に余裕がある。
十五分のうち、使ったのは五分だけだ。
あと十分間は残っていた。
橙色の影留めの精霊には四環の秘方が、紫色のものには五環の秘方が記録されている。
これらは代々、密室長老の所有物であり、餌は一族が用意していた。
精霊は、その中に宿る意志の承認さえ得られれば、借りて使うことができる。
影留めの精霊に宿る意志は、密室長老の意志と一体だ。
ラインは長老へ昇進し、その身分を密室長老に認められた。
だからこそ、一部の影留めの精霊を自由に使えるのである。
しかし、四環や五環の秘方を閲覧する資格までは、認められていない。
橙と紫の精霊に精神力を注いだところで、何の反応も得られなかった。
実際には、野生の天然精霊が、力を借りようとする者を認める場合もある。
獣王たちが、まさにそうだ。
彼らは精霊の力を借りている。
人間にも同様の例はあり、五環の水禍蟇の伝説に登場するハンスが、その一人だった。
ラインなら、逆矢の気配を使い、これらの精霊を瞬時に錬化して、秘方を手に入れることもできる。
だが、今の彼には、その結果を引き受ける力がなかった。
得られる利益も、そこまでして欲しいと思えるほどではない。
(本当に価値が高いのは、ここにある四環や五環の秘方ではない。一環の月印を逆煉成する方法だ。月印は初代族長に始まる。一族はそれを土台として、数百年をかけ、今の規模にまで発展したのだからな)
ラインは、密かに考えた。
煉成とは、低環の精霊を高環へ進めること。
逆煉成とは、高環の精霊を低環へ戻すことだ。
環階を上げ、また下げる。
その過程が異なれば、まったく新しい精霊が生まれることもある。
月印は天然の精霊ではない。
初代族長が、逆煉成によって生み出したものだった。
この世界には、精霊使いが天然精霊を基に作り出した、新たな種が数多く存在する。
五百年の経験があっても、ラインの精霊世界に対する知識が限られているのは、そのためでもあった。
一族はたいてい、一種、あるいは数種の固有の精霊を持っている。
それは希少な天然精霊である場合もあれば、逆煉成によって生まれた新種である場合もある。
精霊使いたちは、それを基に、一族独自の力を築き上げていく。
ありふれた精霊ばかり使っていては、手の内を知られやすい。
弱点を突かれ、対策を講じられてしまうからだ。
一族の基盤となるのは、まず霊石を産出する霊泉。
次に、少なくとも一種類の固有の精霊である。
それがあれば、自分たちの力のすべてを見透かされずに済む。
そして、その次に来るのが血筋だった。
血縁と身内の情は、一族を結びつける重要な絆となる。
だからこそ、月印は一環精霊にすぎなくても、その逆煉成の秘方は、多くの四環、五環秘方より価値が高い。
この秘方は、歴代の族長が自ら保管してきた。
族長のほかには、各代で最も忠実な長老一人だけが、密かにその内容を知らされる。
秘方を記録した影留めの精霊も、別の場所に厳重に隠されていた。
ここで見つかるはずがない。
(価値の高い秘方だ。出立までに手に入れば何よりだが、無理に求める必要はない)
ラインは、その点をはっきりと理解していた。
組織や勢力を立ち上げるつもりはない。
月印の秘方は、彼にとって必需品ではなかった。
(それより、血月のような三環精霊こそ、今の私には必要だ)
ラインは三環へ進み、白銀精神力を手に入れた。
だが、手持ちの精霊まで、すべて三環になったわけではない。
まだ、三環精霊使いの真の戦闘力を発揮できる状態ではなかった。
(今は雷翼と天蓬がある。血月を煉成できれば、三環精霊は三体になる。だが、それでもまったく足りない)
普通の精霊使いは、一族に身を寄せている。
同族との連携も、資源の配給もあるため、通常は三、四体の精霊がいればよかった。
しかし、ラインは南域を渡り歩き、遠い異郷へ向かうつもりだ。
あらゆる状況にどうにか対応するには、少なくとも六体は必要だった。
彼の経験によれば、その六体は、攻撃、防御、治療、収納、偵察、移動を、それぞれ担うべきだった。
攻撃は、血月でどうにか間に合う。
防御は、天蓬に任せられる。
移動を担う雷翼は、精神力の消耗こそ大きいが、短時間の飛行を可能にする。
極めて強力な手段だ。
だが、治療の九葉生気草は、心もとなかった。
二環精霊にすぎず、それ自体の治療能力も優秀ではない。
その先の煉成の方向も、ラインの望みに合わなかった。
九葉生気草の利点は、一環の生気草を生み出せることにある。
生気草を売れば、絶えず霊石を稼げる。
いわば、金のなる木だった。
しかし、今後のラインは、長く人跡のない土地を歩くことになる。
生気草を生み出したところで、霊石と交換してくれる精霊使いが見つからない。
偵察については、地這い耳の探知範囲が広い。
二環ではあるが、どうにか使っていけるだろう。
一方、収納については、何の備えもなかった。
しかも、これこそが最も重要だった。
独りで遠くへ旅するなら、後方支援が何より大切になる。
ほかの五つを支える土台なのだ。
精霊の餌も、自分の食料も、蓄えておかなければならない。
そして、それら以上に重要なのが、霊石だった。
霊石がなければ、修行を続ける支えを失ってしまう。
この点では、ラインはまだ何の進展も得ていない。
望みに合う収納用の精霊を手に入れるまで、集落を離れるつもりはなかった。
(収納を担う精霊には、まず、さまざまな物資を収められることが必要だ。食料も霊石も入れられなければならない。次に、精霊そのものが養いやすいこと。最後に、できれば中身を長持ちさせる機能も欲しい。だが、三族の物資一覧には、望みに合うものがない。やはりカル派閥を利用して、もう少し蓄えを搾り取るしかないか)
十五分が過ぎ、ラインは地下洞窟を出た。
その間も、頭の中では考えを巡らせ続けていた。
「こんにちは、ライン殿」
出口には、中年の男の精霊使いが立っていた。
どうやら、わざわざ彼を待っていたらしい。
「あなたは?」
男は微笑んだ。
「ラゼル・ローデンです。現在、薬堂長老を代行しております」
(なるほど、この男か)
ラインは得心し、相手を見定めた。
ラゼルは整った四角い顔立ちをしており、全身から落ち着いた雰囲気が漂っていた。
ラインと同じ長老だが、環階はすでに三環中位に達している。
メディシンがラインへの怒りで昏倒した後、ラゼルは族長に任命され、薬堂を一時的に統率することになった。
妻も薬堂の重要な一員である。
そのため、この任命は、ハクが両者の争いに均衡を取るための政治的な措置でもあった。
事情はどうあれ、ラゼルがこれを機に、一段上の地位へ進んだことは確かだった。
「こちらは霊石三百個、今週分の長老手当です。ここにいらっしゃると聞いたので、ついでにお持ちしました。勝手をしてしまいましたが、どうかお気を悪くなさらないでください」
ラゼルはそう言って、袋を差し出した。
(この男……)
ラインは目を細め、革袋を受け取った。
長老の手当は、本来、本人が直接受け取るものだ。
それを代わりに受け取ってこられるということは、ある意味、一族内での人脈と地位を示している。
しかも、その示し方が巧みだった。
こちらを認め、歩み寄ろうとする意志があり、押しつけがましさを感じさせない。
「実は、今日はライン殿にお願いがあって参りました」
続いてラゼルは、単刀直入に用件を切り出した。
「ほう、九葉生気草を供出してほしいと?」
ラインは、含みのある表情を浮かべた。




