150.秘方が明かす月影、傷が深める遺産の謎
「ライン様、この先が密室です。どうぞお進みください」
薄暗い地下の通路で、二環の老精霊使いが先に立ち、ラインを案内していた。
一族の煉成秘方を収めた密室は、もうすぐそこだった。
長老への昇進によって、ラインの身分と地位は一変した。
一族が所蔵する煉成秘方も、四環と五環のものを除けば、閲覧する権利がある。
通常の一環、二環精霊使いが閲覧するには、霊石や功績を支払わなければならなかった。
密室は集落の地下深くに隠されている。
たとえ地上の集落が跡形もなく破壊されても、ここを見つけ出すのは容易ではないだろう。
かつて集落の創始者である初代ローデンは、この地下の鍾乳洞で、天然精神力を生み出す霊泉を発見した。
それが、この地に集落を築く決め手となったのである。
歴代族長が手を加えるうちに、地下洞窟はローデン一族の秘密拠点へと姿を変えていった。
普段、出入りを許されているのは、族長、長老、そして警備を担う暗堂の精霊使いだけだ。
一般の精霊使いに、その資格はない。
一生のうち、ただ一度しかここを訪れない者も多かった。
覚醒の儀である。
少年少女たちは月蘭の花が咲く水辺へ赴き、希望の精霊の力を借りて空界を開く。
それ以外では、特別な理由もなく地下洞窟に立ち入ることは許されない。
ここを守る精霊使いさえ、厳しい選考を経て選ばれていた。
洞窟に湧く霊泉は、集落そのものの基盤なのだ。
その湧き口で凝結する大量の霊石が、ローデン一族すべての精霊使いの修行を支えている。
通路には、二人の足音が絶えず響いていた。
時折、かすかに水の流れる音も聞こえてくる。
洞窟を流れる地下河川の音だった。
やがて、老精霊使いは一枚の石扉の前で足を止めた。
腹を軽く叩くと、空界から一体の精霊が飛び出した。
精霊は瞬く間に十数メートルを飛び、石扉に激突する。
水面に小石を落としたように、扉の表面へ波紋が広がった。
続いて光と影が揺らぎ、石扉が徐々に消えていく。
その向こうに、密室が姿を現した。
広さは、およそ六百七十平方メートル。
数歩おきに、人の背丈の半分ほどの高さの石卓が置かれていた。
数十もの石卓には白玉の皿が載り、その多くには一体ずつ精霊が静かに伏せている。
精霊の色はさまざまだが、大きさはどれも拳ほどで、姿は蚕に似ていた。
頭には蜂や蜻蛉を思わせる複眼が二つあり、七宝や瑠璃のように、色鮮やかな光を帯びている。
しかし、胴体は柔らかくない。
鈍く輝く甲殻に覆われ、金属のような光沢を放っていた。
「ライン様、初めてお越しですので、まずはご説明いたします。こちらはすべて、二環の影留めの精霊です。それぞれに、異なる環階の秘方が記録されております。青緑色のものには、一族の一環秘方のほぼすべてが収められています。赤黒いものが二環、白が三環、橙色が四環です」
「五環の秘方は、中央の石台にある紫色の影留めの精霊に収められております」
老精霊使いが、傍らから説明した。
影留めの精霊は映像を記録できるが、音声までは残せない。
それをさらに進めたものが、三環の記録の精霊だった。
記録の精霊へ煉成すれば、映像だけでなく音声も再生できるようになる。
岩の裂け目の秘洞で、酒飲のカイが伝承にまつわる遺言を残したのも、記録の精霊の力によるものだった。
秘方の記録に音声は必要ない。
そのため、影留めの精霊で十分なのである。
煉成秘方は、極めて貴重だ。
普通の竹紙に書き留めて盗まれでもすれば、他族に固有の精霊を煉成されるだけでなく、重要な情報まで読み取られてしまう。
彼を知り己を知れば、百戦危うからず。
経験豊富な精霊使いなら、秘方を読むだけで、煉成される精霊の長所や弱点を見抜くこともできた。
秘方の流出は、一族にとって重大な損失となる。
将来、戦うことになれば、こちらの精霊使いが弱点を突かれ、対策を講じられる恐れがあるからだ。
だからこそ、一族は秘方を厳しく等級分けして管理し、特殊な方法で保存していた。
煉成が容易で費用も安い影留めの精霊は、その最も一般的な手段の一つだった。
「ライン様、これらの影留めの精霊は、すべて密室長老の所有するものです。長老が念じるだけで自爆し、記録された映像も消失いたします。ただし、精神力を注いで閲覧なさる分には、何の支障もございません。現在のお立場では、四環と五環の秘方はご覧になれませんが」
老精霊使いは、さらに続けた。
「ほかに、二点ございます。密室は一族の重要な施設ですので、ここでの一挙一動は、密かに監視されております。また、滞在できるのは一日につき十五分までです。時間になりましたら、ご退出ください」
「うむ、分かった」
ラインは頷いた。
老精霊使いは、身をかがめて一礼する。
「中へ入る権限はございませんので、扉の外でお待ちしております。時間になりましたら、お声をかけます」
ラインが密室へ足を踏み入れると、背後の石扉が再び実体を取り戻した。
室内には、彼一人だけが残された。
辺りは静まり返り、自分の足音だけが耳に響く。
壁には水光の精霊が数体埋め込まれていた。
その光は水面のように揺らぎ、幾重もの陰影を生んでは、明るさを変えていた。
ラインは手近にあった赤黒い影留めの精霊を取り、白銀精神力を注いだ。
二つの複眼から、すぐに一筋ずつ色鮮やかな光が射し出す。
精霊を少し持ち上げ、複眼を石台の白玉の皿へ向けた。
二筋の光が皿の上で交わり、しばらく揺れ動いた後、文字の列を映し出した。
(地球の映写機によく似ているな)
前世では一族から疎まれていたため、この密室を訪れたことはなかった。
映し出されたのは、広月印の煉成秘方だった。
冒頭には、長所と短所が記されている。
広月印の長所は射程で、月印の二倍に達する。
その代わり、攻撃力にはさほど優れていない。
続いて、秘方の具体的な内容。
その後には、注意事項や煉成のこつが並んでいた。
たとえば、煉成の途中で少量の玉石を加えることや、月明かりの豊かな夜に屋外で煉成することが、成功率の向上につながるという。
最後には、歴代の煉成者が残した心得があった。
ここが最も長く、びっしりと記された文章は、一万字を超えていた。
ラインは目を通し、その一部を記憶に刻んだ。
いずれも、無数の人々が試行を重ね、積み上げてきた経験である。
中には、彼でさえ知らないこともあった。
月印は、ローデン一族に固有の精霊なのだ。
時間は限られている。
ラインは急いで読み終えると、影留めの精霊を元に戻し、今度は白いものだけを選んで調べ始めた。
それらに記録されているのは、三環の煉成秘方だった。
だが、その大半は彼に適していない。
月旋や広月印などを基にする必要があったからだ。
時間を節約するため、詳しくは読まず、ざっと目を通すだけにとどめた。
以前、彼は月印と微光蛍を組み合わせ、月華印を煉成している。
その月華印を基にする秘方のうち、目を引いたものは三つしかなかった。
一つ目は、三環精霊の金月輪。
射程は十歩のままだが、攻撃力はさらに高まる。
放たれる黄金色の満月は直径一メートルに達し、金属製の防具さえ容易に切り裂く。
二つ目は、三環の寒月。
放つ月刃は青白く冷え、霜の気を帯びている。
命中すれば、相手の体内へ冷気が侵入し、動きを鈍らせる。
三つ目は、三環の幻月。
こちらは少々特殊で、攻撃に使う精霊ではない。
発動すると幻影を一体生み出し、攻撃を分散させ、敵を惑わせることができる。
中でも幻月は、煉成できれば、さらにそれを基に四環の月影へ進められる。
月影に関する記述は詳しくなかった。
参考として、その作用が簡単に紹介されているだけだ。
「月影。精霊使いの空界に植え込み、精神力の使用を抑制する」
(月影……四代目族長が酒飲のカイに不意打ちを仕掛けたとき、使った精霊ではないか?)
ラインは心を動かされ、かすかに眉をひそめた。
この世に存在する精霊は、膨大で多種多様だ。
五百年の経験があっても、彼が本当に理解しているのは、そのごく一部にすぎない。
月影についても断片的な知識しかなかったが、その具体的な作用を知った今、新たな疑問が生じた。
月影は、相手の空界にある霊海を封じ、精神力を引き出せなくする。
三環精霊使いに対しては、空界の容量の六割に相当する霊海まで封じることができた。
ラインのような下等資質では、霊海は空界の四、五割にとどまる。
月影を受ければ、精神力を一切使えなくなり、戦闘力は激減する。
ほとんど無力化されたも同然だった。
もっとも、ライン本人に使おうものなら、鉄砲玉の使いも同然だ。
月影が彼の空界に入り込めば、逆矢が力を発揮する。
その威圧を受けた月影は、逆に瞬時に錬化され、ラインの精霊となってしまうだろう。
だが、彼が疑問を抱いたのは月影そのものではない。
酒飲のカイについてだった。
(壁に映っていた酒飲のカイは、全身を血に染め、傷だらけだった。四代目や長老たちとの戦いでは、軽傷しか負っていなかったはずだ。あの重傷は月影によるものだと思っていたが、その作用は精神力の使用を封じるだけだったとは。ならば、あの傷はいったい何によるものだ?皮肉なものだ。ローデン一族が独自に煉成してきた月印系の精霊について、私は驚くほど知らない)
用心深いラインは、考えるほどに違和感を覚えた。
あのとき、酒飲のカイが長老たちを倒し、いったん退いた後に、何が起きたのか。
月影が死の主因ではないとすれば、真の原因は何だったのか。
すでに見通せたと思っていた酒飲のカイの遺産が、ラインの目には、再び謎に包まれて見え始めていた。
金月輪、寒月、幻月。
いずれも、彼が本当に求める選択肢ではなかった。
理由は単純だ。
どの精霊も、大量の月蘭の花びらを食べる必要がある。
月蘭の花びらは保存が難しく、数日しかもたない。
しかも、ローデン集落を離れた土地では、月蘭を育てること自体が難しかった。
ラインは集落を離れ、広い世界を渡り歩くつもりでいる。
これらの精霊を煉成しても、餌を見つけられなければ、半年余りで餓死させてしまう。
それなら、初めから煉成しない方がましだった。
ラインは眉間に深く皺を刻み、首を横に振った。
そのとき、何気なく手に取った影留めの精霊が、一行の文字を映し出した。
「血月」
「ライン様、十五分が経ちました。何かしら得るものもあったかと存じますが、本日はここまででございます。続きは、どうぞ明日になさってください」
石扉が再び消え、老精霊使いが入り口から恭しく声をかけた。
「分かった」
ラインは目をわずかに動かすと、手にした影留めの精霊を元の場所へ戻し、密室を出た。




