137.戦場で精霊を奪い、雨の墓前で生を問う
ほどなく、ライルも駆けつけた。
「アオ様!」
顔いっぱいに喜びを浮かべ、危険も知らずに駆け寄った。
だが、すぐに松葉の攻撃で後退を強いられる。
「アオ様、僕だよ!ライルだよ!」
戸惑った声で叫び、初めて異変に気づいた。
しかし、アオからの返事はなかった。
「兄さん、アオ様はどうしちゃったの?」
何が起きているのか分からず、不安に駆られたライルは、ラインに助けを求めるしかなかった。
ラインは取り合わなかった。
中腰になり、右手を伸ばす。
五指を鉤爪のように曲げ、シオンへ向けた。
奪霊!
ひそかに精霊を使った。
シオンの霊海は干上がり、精霊を掌握する力も大幅に弱まっている。
この機に乗じ、存分に奪い取るつもりだった。
やがて、掌にシオンの方へ引かれるような力が伝わった。
深い水の中から、何かを引き上げるような手応えだった。
すかさず引き戻すと、シオンの体から一体の精霊が飛び出した。
赤鉄仏舎利だった!
以前、ベル一族の族長がシオンへ与えた精霊である。
それを使う前に、シオンの環階は三環へ急速に上がっていた。
それが今、ラインのものになったのだ。
シオンの体から赤鉄仏舎利が飛び出し、ラインの手に収まる。
ベル一族の精霊使いたちは血相を変え、口々に叫んだ。
「この野郎、死にたくなければ今すぐ手を止めろ!」
「目の前でベル一族の精霊を奪うとは!」
「しかも、赤鉄仏舎利だぞ……」
ラインは冷笑するだけで、何も答えなかった。
手に入れた途端、逆矢の力を借りて瞬時に錬化する。
だが、空界へ収めず、懐へしまった。
その場ではまだ錬化していないように見せかけたのだ。
続けざまに、もう一度空を掴んだ。
今度は、灰色の甲虫が飛んできた。
「石冠……」
精霊を見分けたラインの目に、複雑な感情が浮かんだ。
これも錬化し、懐へ収める。
「くそっ、また一体!」
「止めろ!これほど好き勝手に奪うとは、ベル一族を何だと思っている!」
「シオンを助けろ!こいつらを殺せ!」
ベル一族の精霊使いたちは怒号を上げ、山道の向こうから駆けてきた。
一族の手厚い支援を受けてきたシオンの精霊は、どれも優れたものばかりだった。
それが目の前で次々と奪われ、誰もが身を切られるような思いだった。
殺されるよりも耐え難いほどだ。
凄まじい勢いで迫る一団に、ライルは驚いて一歩退いた。
ラインは動じなかった。
二人は山道の東側に立ち、ベル一族の精霊使いたちは西端にいた。
その間を、アオとシオンが塞いでいる。
松葉が豪雨のように降り注いだ。
「くそっ……」
ベル一族の精霊使いたちは、青緑の松葉を何本も体に受け、口々に罵った。
だが、すぐにはアオをどうすることもできない。
(アオは、もう長くない。残された時間で奪霊を使えるのは、あと一度だ。今度は何が来る?)
ラインは心を落ち着け、再び奪霊を使った。
この精霊は、使うたびに多くの精神力を消費する。
奪い取る対象が強いほど、過程は困難になり、消耗も大きくなった。
失敗すれば、その力が精霊使い自身へ跳ね返ってくる。
奪霊の能力は強力だったが、失敗する確率も恐ろしく高い。
だが、今のシオンは瀕死で、意識も曖昧になり、ほとんど力を使い果たしていた。
精霊を奪うのは、難しくなかった。
シオンが持っていた精霊の中で、最も価値があったのは、間違いなく氷華姫だった。
木傀にも匹敵する精霊である。
ただし、長く使いすぎれば、精霊使いの命の火を消し、氷の彫像へ変えてしまう。
その精霊はすでに自爆させられ、堅い氷の中で回復する時間へと換えられていた。
次に価値が高いのは、三環精霊の氷葬鳥だった。
今は、シオンの喉に宿っている。
氷葬鳥を奪えれば、最も望ましい。
だが、奪霊は二環精霊にすぎず、狙った精霊を完全に思いどおりに奪えるわけではなかった。
結局、ラインの手に入ったのは水繭だった。
これも悪くない。
シロタマズスキンと組み合わせれば、剛柔兼備の防御になる。
アオが変じたトレントは、ついにベル一族の精霊使いたちの遠距離攻撃で殺された。
知性もない生き物が、精霊使いのチームを相手に十数分も持ちこたえた。
それだけでも、容易なことではなかった。
ローデン一族の二環第一人者、アオは、無数の新人精霊使いが憧れ、信頼を寄せた、優しい兄のような男だった。
その彼が、今は朽木のように地面へ倒されていた。
ベル一族の精霊使いたちは木牢を斬り開き、右腕を失って意識のないシオンを救い出した。
そのままラインとライルへ襲いかかろうとしたとき、ローデン一族の援軍も到着した。
両族の数十体の精霊が、色とりどりの光を放っていた。
アオの遺体を挟み、双方は無言で睨み合う。
だが、ほどなく、誰の指示によるものか、両族は示し合わせたように手を引いた。
アオは死に、シオンも重傷を負った。
ウルフウェーブのさなかに、これだけの損失はあまりに重い。
さらに大規模な殺し合いへ発展すれば、どちらの一族も、生き残るために過大な負担を強いられる。
どの世界でも、人が争う理由の大半は利益にある。
そして、この世で最大の利益は、疑いなく「生存」だった。
アオの遺体と精霊は、ローデン一族の精霊使いたちが持ち帰った。
互いへの警戒を解かぬまま、両族は戦場を去った。
……
空は暗く、雨が降っていた。
集落の裏手にある斜面に、人々が集まっている。
そこは墓地で、少し時がたつと、また幾つかの墓が増えていた。
この世界で、人が生きるのは難しい。
外からの脅威であれ、内に抱えた事情であれ、誰かが犠牲になることは避けられなかった。
長老のかすれた低い声が、人々の耳に響いた。
胸の重苦しさが、ますます深まっていく。
「……同じ姓を名乗り、同じ祖に連なり、同じ血を受け継ぎし我ら。
その身はかくも近くにあれど、生死の隔たりは深く、呼べども、もはや声は返らぬ。
この胸に満つる悲しみ、言の葉には尽くしがたし。
されど、我が身もまた無常のうちにあり。
先に逝きし者よ。しばし、安らかに待ちたまえ。
いつの日か、この世の縁の尽きるとき、我もまた、そなたの傍らに眠らん。
やがてはともに塵となり、土に還り、我らの血を継ぐ命の根を支えん。
願わくは、後に続く者たちの歩む道に、末永く安らぎのあらんことを。」
新しい墓が並ぶ前で、皆が頭を垂れていた。
すすり泣く者もいれば、墓碑に刻まれた名を、悲しみに満ちた目で見つめる者もいる。
生と死の残酷さは、白骨の手のように、一人一人の心を引き裂き、血の滴る傷を残していた。
ただ、痛みにとうに麻痺した心もあれば、まだ幼く柔らかな心もあった。
ライルは人々の中でうつむき、墓碑の「アオ・ローデン」という名を、ぼんやりと見つめていた。
(死んだ?)
瞳には、戸惑いばかりがあった。
昨日の戦いは、今も鮮明に思い出せる。
その一部始終が、深く胸に刻まれていた。
だが、アオの悲壮な覚悟も、その犠牲の意味も、経験の浅い彼には理解できなかった。
現実を突きつけられた今も、すぐには受け入れられない。
(死んだ?いつも優しく笑いかけ、色々なことを教えてくれて、気にかけて、慰めてくれた……本当の兄のように慕っていたアオ様が……本当に死んだの?どうしてこんなことに?なぜ、この世界では、いい人ばかりが死んで、悪い人は生き続けるの?これは夢なんじゃないか?僕はまだ、夢を見ているんじゃないか?)
ライルは無意識に両拳を握り締めた。
その確かな感触が、悲しみをいっそう深くする。
周囲の精霊使いたちの声が、耳に入ってきた。
「まさか、今度はアオ様まで命を落とすとはな……」
「人はいつか死ぬものだ。それにしても、惜しいな。シオンの奴は息が残っていて、結局助かったそうじゃないか」
「どうか安らかに眠り、このウルフウェーブを乗り越えられるよう、見守っていてくれ……」
人々は少しずつ去り、最後にはライルだけが残った。
少年はただ一人、山一面に広がる墓碑と墓に向き合っていた。
「アオ兄さん!」
不意に膝をつき、涙をぽろぽろとこぼした。
迷い、後悔し、無力さに打ちのめされ、深い悲しみに沈んでいた。
暗い雲から大粒の雨が降り注ぐ。
地面を打ち、草や枝を低く垂れさせた。
土の匂いが鼻を突いた。
ライルの痛切な泣き声が、雨音に混じる。
十本の指をぬかるみへ食い込ませ、アオの命を掴み戻そうとする。
だが、握り締められたのは、二つの泥の塊だけだった。
シオンは柔らかな寝台に横たわり、虚ろな目で同じ雨を眺めていた。
右腕を失った傷口には手当てが施され、白い包帯が巻かれている。
瞳は黒に戻っていたが、環階は三環のままで、再び二環へ抑えることはしていなかった。
昏睡から目覚めると、ふいに何もかもがつまらなく感じられた。
何の楽しみも見いだせない。
目を開けたまま、もう十数時間も静かに横たわっていた。
三環の白銀の精神力が空界を鍛えるに任せ、構う気さえ起きなかった。
雨は、心の奥に沈む記憶を呼び起こした。
ベル一族の族長の養子に正式に迎えられた日にも、こんな夏の雨が降っていた。
慈愛と期待に満ちた族長の眼差しが注がれ、周囲の長老たちの祝いの言葉が、波のように押し寄せていた。
幼いシオンは裸足で冷たい床に立ち、窓の外の雨を見つめている。
感じていたのは、戸惑いと孤独だけだった。
(人は、いったい何のために生きとるんやろな?)
二十年以上も彼を悩ませてきた問いが、再び浮かび上がった。
おそらく、自爆して死ぬまで、付きまとい続けるのだろう。
(身内の情や、一族のために生きるっちゅうことか……)
否応なく、アオの姿が浮かんだ。
幼い頃から、こうした犠牲は何度も、何度も見てきた。
どの一族でも、そうした者たちは、最期に想像を絶するほどの熱狂を見せていた。
シオンには、その熱狂が理解できなかった。
自分は生まれつき、冷酷で情のない人間なのだと思えた。
アオの姿に答えは見いだせず、今度はラインの姿が浮かんだ。
初めて会ったとき、ラインは大樹にもたれ、摘んだ野の実を食べながら、麓の戦いを平然と眺めていた。
あのとき、シオンは全身を震わせるほど興奮した。
自分と同じように深い、ラインの黒い瞳に、自分自身を見いだしたからだ。
だが、今振り返ると、その瞳には、自分にはない何かがあったように思える。
その何かこそ、この問いの答えだった。
雨はますます激しくなり、雷鳴が轟き、稲妻が閃いた。
「人は、いったい何のために生きているんでしょうか?」
薄暗い書斎で、ライルも同じ問いを口にしていた。
族長ハクはため息をつき、打ちひしがれた少年へ痛ましげな目を向けた。
それから、窓の外の雨へ視線を移す。
ライルが迷うのも無理はなかった。
避けることのできない死は、往々にして、人に生きることの価値を問い直させる。
長い沈黙の後、ハクがゆっくりと口を開いた。
「知っているか。十数年前にも、お前と同じように、この問いを投げかけてきた少年がいた。その少年が、お前のリーダーであり、養子に迎えたアオだったのだ」
ライルははっとして、顔を上げた。
赤く腫れた両目には、答えを求める切実な思いが浮かんでいた。




