133.腕を捨て氷に活路を求め、形勢を読んで危地を離れる
シオンとは、何者なのか。
ヴェルデン山一の天才であり、たった一人で三族の勢力図を変えた人物だ。
修行を始めた頃から天下無双の才を示し、誇り高い同族の上等資質者たちにさえ、頭を下げさせた。
その名は、ヴェルデン山の隅々にまで知れ渡っている。
将来の大成を疑う者はなく、敵でさえ、それを認めざるを得なかった。
ところが今、その彼が追われ、無様な姿で逃げている。
アオたちには、まったく予想もつかなかった事態だ。
しかも、追う者は同じ一族のライン・ローデンだった。
そのことが、彼らをさらに驚かせた。
彼らの中にあるラインの印象は、以前の試合での姿や、一族のために水禍蟇を追い払った一件で止まっている。
それに加え、バルガスへ自ら降参したことが、彼の本当の力をいっそう低く見積もらせていた。
(ラインは、いつの間にこんなに強くなったんだ?)
皆、すぐには受け入れられなかった。
……
ラインが、角を曲がった。
「アオ!」
アオ組の五人が視界に入り、ラインの心にも驚きが走った。
(どうやら、賭けは私の勝ちだ。シオン、今日がお前の命日だ!)
心の内ではそう考えながら、ラインは声を張り上げた。
「ライル、お前がここにいたとは!よかった、早くシオンを止めてくれ!あいつはバルガスチームの者だけでなく、私たちの一族のガルドたちまで殺したんだ。到底許せることじゃない!」
「何だって?」
「三族は、盟約を結んだはずだぞ!」
「いや、シオンなら、何をやっても不思議じゃない」
「そういうことか!だから、ラインがシオンを追い詰められたのか……」
アオたち五人は驚くと同時に、どこか納得した。
彼らの目には、シオンが見境もなく戦いを重ね、戦力を底まで使い果たしたために、たまたまラインが優位に立ったように映っていた。
(このシオンが、ほんまにここで死ぬんか?いや、まだや。今の精神力でも、氷華姫を自爆させるくらいは何とかなる。まだ勝ち目はある!)
シオンは心の中で叫んだ。
前にはアオ組、後ろにはラインが迫っている。
状況は、彼にとって極めて不利だった。
実際には、ラインとライルの間には溝があり、ライルが兄の言葉に従うはずもなかった。
だが、他族のシオンに、そんな事情は分からない。
よく似た兄弟の顔を見て、迷わず決断した。
突如、右腕を高く掲げた。
空界にようやく回復させて蓄えた精神力を、すべて右の掌に宿る氷華姫へ注ぎ込む。
右腕の血肉が、再び淡い青の堅氷へ変わった。
その中には、白い腕の骨がくっきりと透けて見える。
轟音が響き、シオンの右腕が丸ごと爆ぜ飛んだ。
濃い霧が一気に噴き上がり、凄まじい冷気が四方へ広がった。
真夏の暑さに包まれていた狭い山道を、白い霜が瞬く間に走っていく。
土を覆い、木々を呑み込み、辺りの気温を一気に引き下げた。
「右腕を、丸ごと捨てたのか!」
自分にも容赦のないシオンのやり方に、ライルは呆然とした。
「下がる!」
アオはライルを掴むと、一気に後方へ退いた。
大量の霜が、波のように押し寄せてくる。
凍りつかされれば、厄介なことになる。
ラインも退き続けた。
百歩以上離れたところで、ようやく霜の広がりが収まる。
つい先ほどまで草木が生い茂り、野草の香りが漂っていた山道は、氷霜の世界に変わっていた。
木々はすべて凍りつき、地面は厚い氷と雪に覆われている。
ラインは厚い雪を踏み、山道の中央へ戻った。
シオンは、全身を氷晶に封じられていた。
まるで、琥珀の中に閉じ込められた虫のようだ。
顔には、直前の獰猛さと決意、容赦のなさが、そのまま凍りついている。
アオ組も駆けつけた。
それを見たライルが、小さく尋ねる。
「あの人……自殺したんですか?」
アオは険しい顔で答えた。
「違う!シオンはすでに氷の肉体を手に入れている。この氷晶では死なない。それどころか、身を守る鎧となり、回復する時間を稼いでいるんだ」
ラインはシオンを見据え、手を振って月刃を放った。
月刃は氷晶に当たり、宝石同士を打ち合わせたような、澄んだ音を立てる。
高さ三メートル、縦横各二メートルの氷晶には、浅い刃の跡が一本残るだけだった。
だが、内部から冷気が広がり、その傷を塞いで、すぐに元通りになった。
「ライン、先ほどの話は、すべて本当なのか?」
アオが振り向いて尋ねた。
ラインは頷く。
「もちろん。バルガスチームでは、トルガ・ロアがまだ生きている。彼が証人になれる。ここに長居はできない。詳しい話は後にして、まずは離れよう」
ラインは、すでに撤退を考えていた。
彼には、この氷晶を砕けない。
皆で力を合わせたところで、多くの時間と精神力を費やすことになる。
シオンが氷を破って出てくる頃には、こちらは戦力を落とし、向こうは精神力を満たしている。
そうなれば、戦況は楽観できなかった。
「離れる?どうして離れなきゃいけないんですか?」
ライルが、思わず声を上げた。
「シオンは右腕を失って、何度も戦い続けて、心も体も疲れきっているじゃないですか。氷晶を壊しながら、一族の合図玉で信号を送ればいいんです。一族の者の力を集めて、あいつを倒すんです!千載一遇の機会なんですよ!」
その言葉に、皆の心が動いた。
(ラインでさえシオンを追い詰められたんだ。こちらにできないはずがない)
精霊使いたちは顔を見合わせ、それぞれ思惑を巡らせた。
「シオンを殺せば、ローデン一族の大英雄だ!」
「だが、ベル一族が怒って戦を仕掛けてこないか?今はウルフウェーブの最中だぞ……」
「いや、ウルフウェーブの最中だからこそだ。シオンを殺されても、ベル一族は涙を呑んで受け入れるしかない」
「そのとおり。死んだ天才は、もう天才じゃない!」
メンバーたちは次々と言葉を交わした。
その目には、功名と栄誉への憧れが満ちている。
(愚かだな。檀雪の血がどれほど恐ろしいか、お前たちに想像できるものか)
ラインは目を細め、胸の内で冷笑した。
彼らが死にたいなら、勝手にすればいい。
付き合うつもりなどなかった。
アオも、迷わずにはいられなかった。
シオンのことは、他の者よりはるかによく知っている。
原初の血の秘密までは知らない。
だが、シオンを討って得られる名声にも、大して興味はなかった。
元々、名誉や利益には淡泊な男だ。
ハクは次代の族長候補として育てていたが、アオはライルのために、自らその立場を譲った。
彼が本当に気にかけているのは、いつも一族の利益だった。
(ベル一族が台頭したのは、すべてシオンの存在があったからだ。彼を殺せば、ローデン一族はヴェルデン山の覇者であり続けられる!
彼の環階は三環だが、私には木傀がある。三環精霊使いとも十分に戦える。
しかも、右腕を失ったばかりだ。すぐには慣れないはずだ。生死を懸けた戦いでは、それこそが最大の隙になる!)
そう考え、アオの眼差しが定まった。
その表情を観察していたラインには、彼の選択が分かった。
(アオが後先を考えず木傀を使えば、普通の三環精霊使いをはるかに上回る。格上にも挑めるだろう。
だが、檀雪の血を持つシオンを相手にするのは、そう簡単ではない。
精神力を薄めて環階を抑えられるなら、三環の力に戻すこともできるはずだ。
今は氷晶に隠れ、抑制を解く時間も十分にある。氷を破って出てきたときには、すでに三環の力を取り戻している可能性が高い)
シオンは、資質に恵まれている。
環階を抑え、二環の力しか使わない状態でも、ラインは外の力を借りてようやく対抗できた。
三環の力を取り戻せば、その戦闘力は数倍に跳ね上がる。
しかも、右腕を失わせた元凶は、ラインだ。
好き放題に振る舞うシオンのことだ。
戦いになれば、真っ先にラインを狙うに違いない。
アオの前では警戒も必要で、本当の戦闘力をさらすわけにもいかなかった。
ラインは即座に、去る意思を告げた。
他の者が引き留めても譲らず、きっぱりと戦場を離れる。
「本当に行ったのか。やっぱり臆病者だな」
「ふん、行かせておけばいい。加わられても、連携を乱されるだけだ」
「ははは、シオンを追ってきたのを見たときは、さすがに驚いたがな。やっぱりラインはラインだ。決闘大会で自分から降参した腰抜けさ!」
「そのくらいにしておこう。人にはそれぞれの考えがある。少なくとも彼は、立ち去る前にシオンの新しい情報をいくつも教えてくれた。それに、集落へ知らせに戻れば、こちらも後援には困らない」
アオはラインの背中を見送り、僅かに眉を寄せていた。
「リーダーは人がよすぎますよ。どうしてラインみたいな臆病者を庇うんですか?」
「まったくです。ライルはあいつの弟ですが、あの二人は天と地ほど違いますよ」
「ぼ、僕はもう、兄さんとはほとんど話してません」
ライルは顔を赤くした。
戦いを前に逃げた兄を、恥ずかしく思っていた。
「ライル、君もここを離れるんだ」
アオが不意に言った。
「えっ?!」
ライルは、たちまち目を見開いた。
「君は一族でただ一人の上等資質の天才だ。失うわけにはいかない。シオンは片腕を失っても、この先の戦いは間違いなく厳しいものになる。
一族のためなら、私たちは皆、死ぬこともできる。だが、ライル、君は駄目だ」
その言葉に、他の四人は一様に胸を打たれた。
「よく言った!」
朗らかな笑い声とともに、年老いた精霊使いが姿を現した。
「長老様」
ライルは、すぐに一礼した。
その長老のことは知っている。
一族の中でも、特に古参の長老だった。
長老は近づき、アオへ賞賛の眼差しを向けた。
「ハクは、よい養子を迎えたものだ。一族のために命を懸けて戦う。その覚悟さえあれば、ローデン一族が栄えぬはずはない!」
ライルは、まだ十分に成長していない。
ビッグ・ジャックによる暗殺未遂以来、一族は長老を一人つけ、常に陰から護衛させていた。
「だが、ライル、戦う必要もなければ、帰る必要もない。ここに残り、後方に控えておれ。
たかがシオン一人ではないか。どれほど凄いだの、もう長老に匹敵するだのと、よく聞かされたものだが……ふん、見ればただの青二才だ。どれほどの戦闘経験があるというのだ?すぐに己の体を傷つけるなど、まだまだ青い!」
老者は、見下すように鼻を鳴らした。
アオは、なおもライルを帰したかった。
だが、長老へ面と向かって反論するわけにもいかない。
年長者を敬い、幼い者をいたわるのは、後輩たる者の当然の心得だ。
むやみに年長者へ反論し、疑問を突きつけてよいはずがないのだから。




