132.精霊を捨てて時を稼ぎ、出会う者に逆転を賭ける
(ははは、ここまで追い詰められたんは初めてや!ライン、お前……ほんまおもろいわ。傷が治ったら、絶対に殺したる!)
シオンは逃げながら、心の中で吼えていた。
ラインの殺気が背後に迫り、息が詰まりそうになる。
今まで経験したことのない感覚だった。
濃密な死の気配に全身が震え、それとともに病的な興奮が湧き上がる。
背後では、ラインがますます距離を詰めていた。
「これでも食らえや!」
シオンが不意に手を振り、黒い精霊を投げた。
ラインは足を緩め、身構える。
だが、飛んでくる精霊が近づくと、それがバラ・ロアの奪霊だと分かった。
ラインは、その精霊を手で受け止めた。
奪霊は黒い甲虫で、大きさはありふれた甲虫と変わらない。
頭の先には鉄のような一対の大顎があり、背の甲殻には、小さな白い斑点が散っていた。
ラインは逆矢の気配を奪霊に浴びせ、精神力を注ぎ込んだ。
瞬く間に錬化を終えて空界へ収めると、再び追いかける。
シオンがこんな手段まで使うのは、傷が重く、追い詰められている証拠だ。
だが、わずかに足を止めたことで、ようやく縮めた距離を、また少し広げられてしまった。
(惜しいな。私には、いまだに移動を補助する精霊がない。風切草さえあれば、とっくにシオンに追いついている)
ラインは心の中でため息をついた。
(ラインの奴、一瞬で奪霊を錬化しよったんか?)
シオンは驚き、戸惑っていた。
奪霊を手に入れてから、幾日もかけて錬化を進めてきた。
多少の進展はあったが、ひどく難航し、最後まで成功しなかったのだ。
バラの死には、シオンも間接的に関わっている。
奪霊に宿る意志は元々バラのものだったため、シオンへの憎悪と嫌悪がいっそう強く、錬化をさらに難しくしていた。
それを、ラインは一瞬で終わらせた。
その光景を目の端に捉え、シオンは驚くと同時に、背筋が冷えるのを感じた。
確かに、それを可能にする特殊な精霊は存在する。
だが、シオンは一度も手にしたことがなかった。
(ラインは、それを持っとるんか?)
シオンは、ますますラインを警戒した。
彼の中で、ラインはさらに危険で、得体の知れない存在になっていった。
だが、時間が経つにつれ、ラインの胸中も重く沈んでいた。
長引くほど、シオンの精神力は回復し、傷も軽くなる。
それだけ、ラインの優位は失われていくのだ。
(このままでは、今回は殺しきれない!)
ラインは、ひそかに嘆息した。
この調子では、そう遠くないうちに、シオンの傷も精神力も相当な程度まで回復してしまう。
ラインは月華印を使い続け、新たな傷を負わせている。
それでも、檀雪の血が持つ資質は、まさに天に恵まれたものだった。
その回復速度は、ラインが霊石から精神力を吸収する速ささえ、僅かに上回っていた。
(この先で狼の群れに出くわし、あいつが足止めされるなら別だ。あるいは精霊使いのチームが現れて、少しでも足を止めてくれれば……。だが、ベル一族のチームなら、危ういのは私の方になる)
ラインは思案を重ね、撤退も考え始めていた。
二人は、かなりの距離を走ってきた。
だが、その間、巨雷狼が率いる群れにも、精霊使いのチームにも、一度も出くわしていない。
逃げる方向を選べるシオンも、偵察精霊を持ち、前もって避けているということだ。
ヴェルデン山は広く、逃げ道は四方にある。
ラインには、シオンを一つの方向にだけ走らせることはできなかった。
……
アオは移動しながら、隣のライルに言い聞かせていた。
「ウルフウェーブで何より大切なのは、まとまって行動し、狼の群れに分断されないことだ。散り散りになれば危険だからね。
巨雷狼率いる群れなら、地の利を活かして守りを固め、正面から撃破できる。
だが、轟雷狼率いる群れに出会ったら、まずは撤退だ。それから合図玉で信号を送り、近くのチームが合流してくれるのを待つ。
少なくとも三つのチームで力を合わせなければ、轟雷狼率いる群れには勝ちを見込めない。
もちろん、ウルフウェーブで相手にするのは、雷狼だけではない。精霊使いもいる」
アオはここで、いったん言葉を切った。
他の四人には、誰のことを言っているのか分かっていた。
シオン。
このところ、シオンはあちこちで戦いを仕掛けていた。
わざと環階を抑え、二環の赤鉄精神力だけを使い、バルガスやクルたちにも次々と挑んでいる。
次の標的はアオだと、公言もしていた。
アオは話を続けた。
「もしシオンに遭遇したら……戦わずに済むなら、それに越したことはない」
聞いていたライルは、どこか納得のいかない思いを抱いた。
アオは外見こそ温和だが、芯が強く、筋を通す人だと思っている。
彼と接していると、深い家族の情を感じる。
敬い、慕っているからこそ、シオンに後れを取るところなど見たくなかった。
「みんなシオンの話をしてますけど、いったいどんな人なんですか?」
ライルが眉を寄せて尋ねた。
組の他の三人も、口を閉ざす。
アオは穏やかに微笑んだ。
「ヴェルデン山一の天才だよ!ライル、よく聞いておくんだ。
君はまだ若く、上等資質を持っている。いずれ彼を超えることだって、できるかもしれない。
だから、成長しきるまでは、正面からぶつからない方がいい。
前に話した物語を覚えているかい?頭を下げることと、頭を上げること――人には、頭を下げなければならないときもあるんだ」
ライルはアオの温かな眼差しを見つめ、思わず頷いた。
「分かりました。アオ兄さん、心配しないでください」
「それならいい……」
アオが言いかけたとき、組の偵察精霊使いが不意に口を開いた。
「この先、そう遠くないところを、精霊使いが一人、かなりの速さで走っています」
皆の表情が、僅かに変わった。
赤髪の治療精霊使い、ベニが険しい顔をする。
「どこかのチームが、狼の群れに分断されたんでしょう。急いで救援に向かいましょう」
ところが、ライルは思わず口にした。
「シオンかもしれませんよ?あの人、いつも一人なんですよね?」
「彼かどうかは、まだ分からない。だが、本当に仲間とはぐれた精霊使いなら、どの集落の者でも、今は私たちの盟友だ。助けに行くべきだよ」
アオはそう言い、率先して進路を変えた。
他の四人も、その後に続く。
ほどなく、偵察精霊使いが再び告げた。
「一人ではありません。先ほどの精霊使いの少し後ろに、もう一人います」
「二人だったんですね。それなら、ベニ姉さんの言うとおり、狼の群れにチームを分断されたんでしょうね」
ライルは思わずほっとした。
アオの表情は変わらないが、他の三人も、いくらか緊張を解いた。
上空から見下ろせば、険しい山道を進むアオ組と、ライン、シオンの二人が、刻々と近づいているのが見えただろう。
「ん?」
シオンの顔色が、僅かに変わった。
偵察精霊が、五人のチームが正面から近づいてくるのを捉えたのだ。
シオンは即座に進路を変えた。
偵察精霊はあっても、相手の素性までは正確に分からない。
精霊の能力は一体につき一つであり、どれにも長所と限界がある。
ラインの地這い耳も同じだ。
音を聞き取ることができ、とりわけ足音には敏感だが、そこから相手の性別などの詳細を判別することはできない。
誰かが忍足を使って足音を消せば、ラインには、その動きを察知できなくなる。
相手が誰なのか分からない以上、シオンが安全を優先して避けるのは当然だった。
だが、今度は勝手が違う。
アオ組は全員が精鋭であり、偵察精霊使いにも相応の腕があった。
「人がいる!」
少し遅れて、ラインもアオ組の存在に気づいた。
走る彼の右耳から伸びた根が、空中で揺れている。
地面に根を張っていないため、偵察範囲は最大時の半分にも届かなかった。
シオンがまた逃走の方向を変えると、アオ組も進路を変えた。
これで、シオンとラインの表情が、揃って引き締まる。
二人とも、頭が切れる。
正体不明のチームこそ最大の変数であり、この戦いの結末を左右すると、即座に悟った。
(ベル一族なら、即座に隠鱗虫で退く。だが、他の二族なら……ふっ)
ラインの目に、冷たい光が走った。
この選択に危険が伴うことは、分かっている。
ベル一族のチームで、しかも姿を消した相手を見破る手段まで持っていたら、絶体絶命になる。
だが、この機会を逃せば、シオンを殺す好機は、もう訪れないかもしれない。
単純に数学的な確率だけを見れば、ラインの勝率は三分の二、シオンは三分の一だ。
賭けない理由はなかった。
走るうちに、双方の距離はさらに縮まった。
「もうすぐ姿が見えます。あの曲がり角の向こうです」
偵察精霊使いが、山道の曲がり角を指した。
一行は足を緩め、相手との合流を待つ。
白い人影が、不意に角を曲がって現れた。
「シオン!」
ライルが思わず叫んだ。
彼もシオンの肖像画は見たことがある。
アオを含む他の四人も、揃って顔を曇らせた。
「シオンがあれほど無様な姿になるとは。轟雷狼の群れにでも遭遇したんだろう」
「ふん、いい気味だ。ウルフウェーブの中で、一人で何を粋がってるんだ」
誰も、自分から迎えに出ようとはしなかった。
シオンの様子も動きも、明らかに命からがら逃げている者のそれだ。
アオたち五人はそれを見て、どこか痛快な気分になっていた。
そのとき、曲がり角の向こうから、ラインの怒号が響いた。
「シオン、逃げるな!今日こそ、必ずお前を殺す!」
これは、探りを入れるための言葉だった。
地這い耳によって、正体不明の五人が曲がり角の向こうにいることは把握している。
ベル一族なら、この言葉に激しく反発するはずだ。
ところが、アオたちは聞いた途端、目を丸くした。
「どういうことだ?」
「シオンを追って、殺そうとしてる奴がいるのか?!」
「冗談だろう。そんなことがあるのか?」
「シオンをあそこまで追い詰めるなんて、いったい誰なんだ?」
ベニたちは顔を見合わせた。
どの顔にも、同じ驚きが浮かんでいる。
ライルも驚き、戸惑いながら呟いた。
「この声……どこかで聞いたことがあるような……」
声の主を思い出すより先に、ラインが角を曲がって姿を見せた。
「ん?!」
アオの険しい表情が、一瞬、凍りついた。
他の四人は、ただでさえ丸くしていた目を、飛び出さんばかりに見開く。
「こ、こ、これは……」
ベニは、卵が一つ入りそうなほど、口を大きく開けていた。
「兄さん!」
ライルは、呆気に取られて立ち尽くした。
「彼が……?」
アオほど落ち着きのある男でさえ、この瞬間ばかりは驚きを隠せなかった。




