131.刃を隠し、影を借りて
バルガスの拳が、今にもシオンを捉えようとしていた。
トルガとグリムの顔に、思わず喜びが浮かぶ。
遠くに立つラインだけは、目の奥に底知れぬ光を宿していた。
ラインの知るシオンが、こんな初歩的な失敗をするはずがない。
果たして、次の瞬間、シオンが突如として跳ね起きた。
右手と前腕の血肉が、透明な淡い青の氷へと変わる。
その中には、一本一本の骨がくっきりと透けて見えていた。
シオンは五指を揃えて手刀を作り、稲妻のように突き出した。
その一撃が、バルガスの心臓を貫く!
「ぐ――っ!」
飛びかかっていたバルガスの体が、ぴたりと止まった。
目を見開き、ゆっくりと俯いて、信じられないという顔で自分の胸を見る。
「どうして、こんな……」
「バルガス様!」
突然の事態を、グリムとトルガは受け入れられなかった。
「あの一発で、ほんまに右腕の骨が折れた思うとったんか?甘いなあ!
三環の氷躯で、とうに氷の肉体を手に入れとるんや。
その防御力は並やないで!ずっと怪我したふりをしとったんは、誰かさんを驚かせたかっただけや」
シオンはゆっくりと立ち上がり、目に侮蔑の笑みを浮かべた。
最後の言葉とともに、ラインへちらりと視線を向ける。
ラインも平然と、その目を見返していた。
「シ……オン……」
バルガスは口を開き、最後の声を絞り出した。
シオンの氷の手から冷気が放たれ、心臓を完全に凍りつかせる。
その命は、そこで断たれた。
「この卑怯者!刺し違えてでも、お前を殺す!」
バルガスの死を目の当たりにし、トルガはあまりの悲しみに怒りを爆発させた。
後先も考えず、シオンへ突っ込んでいく。
「トルガ、落ち着け!」
グリムが素早く手を出し、彼を止めた。
悲しみをこらえ、低く言い聞かせる。
「リーダーは死んだ。もう私たちでは敵わない。お前は逃げろ。私が殿を務める!」
「グリム兄さん……」
トルガは目を赤くし、その場で動けなくなった。
グリムは腕を振って彼を背後へ放り投げると、一歩前へ出てシオンの前を塞ぐ。
共命影!
足元の影が、突如として命を得たように動き出した。
歪みながら伸びていき、シオンの影へ繋がる。
「私には共命影がある。私が傷つけば、シオンも傷つく。そう簡単には殺されない!
トルガ、お前はまだ若い。資質も、私やリーダーより優れている。早く行け!」
グリムはシオンを睨み据え、大声で急かした。
「グリム兄さん!」
トルガの目に、涙が滲んだ。
共命影の欠点を、知らないはずがない。
先ほどの戦いでも、グリムは何度もこの精霊を使っていた。
だが、シオンが十分な距離を取れば、二人を繋ぐ影は途切れてしまう。
グリムは、トルガを安心させるために、そう言っているだけなのだ。
しかも、その精神力はすでに消耗し、ほとんど残っていない。
屍人鎧の発動さえ、止めていた。
トルガの足は、根が生えたように動かなかった。
振り向いてラインを睨み、怒鳴る。
「ライン、援軍が来るんじゃなかったのか?!」
ラインは答えず、シオンを見据えていた。
シオンは右手を軽く動かしている。
その手はすでに、普通の血肉へ戻っていた。
彼は冷笑し、口を開く。
「援軍?ははは、来るんやったら、とっくに来とるわ。そんなもん、嘘に決まっとるやろ。ほんま、どっちも負けず劣らず甘いなあ。共命影程度の小細工で、動きを封じられる思うとんのか?」
足元の影を蔑むように一瞥し、まるで意に介さなかった。
「ライン、本当なのか?!」
トルガは拳を握り締めた。
目から火が噴き出しそうな勢いで、怒鳴りつける。
ラインは、やはり取り合わない。
シオンだけを見つめ、すべてを見透かしたような笑みを口元に浮かべた。
「さっきの一撃で、ずいぶん精神力を使ったんだろう?ここまで戦って、お前の空界には、あとどれほど残っている?」
バルガスの精霊による防御は、ラインのシロタマズスキンより僅かに劣る程度だった。
それを、シオンは一撃で貫いた。
明らかに、二環精霊では出せない攻撃力だ。
先ほどの様子から、ラインは、シオンが三環の氷華姫を使ったのではないかと推測していた。
強大な力を持ち、三環精霊の中でもよく知られた精霊だ。
氷雪を用いる攻撃を、大幅に強化できる。
ただし、使いすぎれば自分の体も傷つける。
軽ければ関節を患い、重ければ筋肉まで凍傷を負うため、他の精霊と組み合わせる必要があった。
シオンは先ほど、すでに氷の肉体を手に入れていると言った。
その体なら、氷霜の冷気にも耐えられる。
氷華姫との相性は、まさに理想的だった。
だが、二環精神力で無理に三環精霊を使えば、消耗は甚大になる。
それでも膠着した状況を破るには、強力な手段を使わざるを得なかったのだ。
シオンの表情が、わずかに変わった。
先ほどの一撃で大量の精神力を使ったことを、ラインに見抜かれた。
だからこそ、バルガスを殺した後も攻撃を続けず、言葉で回復の時間を稼いでいたのである。
シオンは声を上げて笑い、あっさりと頷いた。
「せや、精神力はもう大して残ってへん。ずっと右腕を使わんと我慢しとったんは、お前に仕掛けさせるためや。せやけど、引っかかってくれへんかったなあ。
ははは、ほんまの戦いは、まだこれからやろ?」
ラインは、わずかに目を細めた。
シオンが否定していれば、思いきって攻められた。
だが、こうして正直に認めながら、なおも余裕を崩さないとなると……。
死期が近く、生死を気にしていないだけではあるまい。
これほど自信を持てるのは、まだ強力な切り札があるからだろう。
普通の精霊使いが持つ精霊は、三体から五体ほどだ。
アオやクルでも、それは変わらない。
だが、何事にも例外はある。
例えばラインは、月華印、シロタマズスキン、隠鱗虫、四味酒虫、逆矢、地這い耳、九葉生気草と、実に七体もの精霊を持っている。
シオンはベル一族全体の希望であり、檀雪の血を持つ、並外れた天才だ。
修行を始めたときから、一族を挙げて育てられている。
その財力は、間違いなくラインを上回っていた。
ここまでの激戦で、すでに少なくとも六種類の精霊を見せている。
まだ他にも精霊を持っていると、ラインはほぼ確信していた。
精神力が乏しくても落ち着いていられるのは、そうした精霊があるからだ。
シオンのような相手が、最も厄介だった。
資質に優れ、死を恐れず、そのうえ多くの精霊を持つ。
この三つは、いずれも精霊使いの勝敗を左右する重要な要素だ。
とりわけ精霊の影響は大きい。
強力な精霊、あるいは奇妙な能力を持つ精霊が一体いるだけで、絶体絶命の状況からでも逆転できることがある。
氷華姫は三環精霊だ。
その力で強化された攻撃は、シロタマズスキンでも防げない。
ラインがシオンとの正面衝突を避けてきたのも、そのためだった。
ガルドやバルガスたちを順に利用し、シオンの手の内を探ってきた。
彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず。
資質を比べれば、下等のラインとシオンでは、天と地ほどの差がある。
シオンの方が早く修行を始め、一族からも全力で育てられてきた。
持っている精霊も、ラインより優れている。
精神面を見ても、死を恐れないシオンには、ほとんど付け入る隙がなかった。
二人を比べれば、シオンが強く、ラインが弱い。
それが事実であり、見極め、受け入れなければならない。
だが、戦いの妙は、強者が必ず勝つわけでも、弱者が必ず倒れるわけでもないことにある。
ラインにも、弱い立場から勝つ可能性は残されていた。
ただし、あらゆる手段を駆使し、利用できる力はすべて利用しなければならない。
(ガルド・ローデンは、始まりにすぎない。バルガスチームで終わりというわけでもない)
ラインが、突如として動いた。
月刃が飛び、血が迸り、一つの首が宙へ舞う!
シオンの瞳孔が針の先ほどに縮み、顔色が一変した。
ラインの一撃は、シオンへ向けられたものではない。
グリムの首を斬り飛ばしたのだ。
グリムは、ラインが突然裏切るなど、思ってもみなかった。
シオンからの重圧が大きすぎて、意識をすべてそちらへ向けていた。
精神力もほとんど残っておらず、消耗を抑えるため屍人鎧を維持していない。
それが、ラインの一撃に命を奪われる隙となった。
シオンの顔が急に蒼白になり、激しく血を吐いた。
両耳と鼻、さらには目元からも血が流れ出す。
激戦が始まって以来、これほどの重傷を負ったのは初めてだった。
共命影!
この精霊は、傷を繋ぐ。
使用者が受けた傷の十分の一は、影で繋がれた相手にも伝わるのだ。
今、グリムは死んだ。
その致命傷も、影の繋がりを通して、シオンへ伝わっていた。
この傷は、体へ直接作用する。
シオンが水繭を張っても、有効に防ぐのは難しかった。
「ライン、何をやってるんだ?!」
一秒遅れて、トルガはようやく呆然とした状態から我に返った。
目を剥き、悲痛な怒号を上げる。
ラインは取り合わず、シロタマズスキンの光を全身に纏い、真っすぐシオンへ襲いかかった。
重傷を負ったシオンは、今にも倒れそうだった。
頭は朦朧とし、戦闘力は大きく落ちている。
ラインが迫るのを見ると、慌てて退いた。
「シオン、私と命懸けで戦いたかったんじゃないのか?」
ラインが、その後を追う。
シオンは歯を食いしばり、よろめきながら一心に逃げた。
気力を振り絞り、ラインがどれほど挑発しても、取り合わない。
自分の死期が近いことは知っているし、死を恐れてもいない。
だからといって、愚かではなかった。
危機に陥ると、むしろ彼は一層冷静になった。
トルガはその場に立ち尽くし、ラインとともにシオンを追おうとはしなかった。
胸の中は、悲しみと怒りでいっぱいだ。
シオンだけでなく、ラインも憎かった。
追う側と追われる側は、先ほどと完全に逆転していた。
ラインがシオンの後を追い、道中で近づく雷狼は、シオンがすぐさま仕留めていく。
時間が経つにつれ、シオンの傷は少しずつ癒えていった。
鼻や目元からの出血が止まり、足取りも、まだ頼りないものの、よろめくことはなくなっていた。
ただ逃げ続けていたわけではない。
道中、密かに精霊を使い、傷を治していたのだ。
追うラインは、ひそかに驚いていた。
(先ほどまで、シオンの精神力はほとんど尽きていたはずだ。逃げて稼いだわずかな時間で、傷を治せるほどまで回復したのか。檀雪の血は、これほどの速さで精神力を取り戻せるのか!)
知れば知るほど、ラインはシオンを殺す決意を強めた。
月華印!
ラインは手を振り、月刃を放った。
たらいほどの大きさの暗青色の月刃が、唸りを上げて空を裂く。
シオンは音を聞き、必死に身をかわした。
だが、それでも腕を削られる。
傷口から鮮血が溢れたが、すぐに薄い霜が覆い、出血を止めた。
シオンは、すでに氷の肉体を作り上げていた。
一度この体を得れば、白イノシシの精霊や黒イノシシの精霊によって増した力と同じく、維持のための精神力は必要ない。
だが、シオンの胸中は、ますます重く沈んでいった。
古い傷が癒えぬうちに、新たな傷が増えていく。
ラインは明らかに、消耗を重ねさせ、シオンを死に追いやるつもりだった!




