13.月下の竹林、一点の白
今から三百年以上前。
ローデン一族には、一人の天才がいた。
若くして五環精霊使いにまで到達し、さらにその先へ進む可能性すらあると期待された人物。
その名はヴェルデン山一帯に知られ、一族の者たちから大きな期待と責任を背負っていた。
ローデン一族の歴史の中でも、今なお最も名高い人物の一人。
四代目族長である。
だが、その最期は悲劇だった。
一族を守るため、四代目族長は同じく五環精霊使いだった外道、酒飲のカイと戦った。
激しい戦いの末、四代目族長は酒飲のカイを打ち破り、ついには地面へ膝をつかせ、命乞いまでさせたという。
ところが。
四代目族長が油断した隙を突き、酒飲のカイは卑劣な不意打ちを仕掛けた。
四代目族長はその場で酒飲のカイを討ち取ったものの、自身も致命傷を負った。
そしてほどなくして、その若い命を落とした。
この悲劇の物語は、数百年が過ぎた今もローデン一族に語り継がれている。
だが。
ラインは、この話をそのまま信じてはいなかった。
なぜなら。
一つ、大きな疑問が残るからだ。
前世では、今から一か月ほど後。
恋人に振られ、やけ酒を飲んだ一人の精霊使いが、村の外で酔いつぶれていた。
その酒の匂いに引き寄せられ、偶然、一体の酒虫が姿を現す。
男は酒虫を追いかけた。
そして地下に隠された洞窟を発見し、その奥で酒飲のカイの遺骨と、彼が残した遺産を見つけた。
男はすぐに村へ戻り、一族へ報告した。
その知らせは一族中を揺るがす大騒ぎとなった。
やがて騒ぎが落ち着いたあと、その精霊使い自身も発見者として大きな恩恵を受けた。
酒虫を手に入れ、修練も順調に進むようになった。
さらには、一度は彼を捨てた恋人まで、今度は向こうから復縁を求めてきたという。
しばらくの間、村で最も話題になる人物の一人だった。
昔の話など、何世代も語り継がれるうちに少しずつ形が変わる。
それ自体は珍しくない。
だがラインの記憶にある限り、その精霊使いが語った発見の経緯はかなり具体的で、いかにも本当らしかった。
だからこそ逆に。
ラインは、その裏にまだ何か隠されているのではないかと疑っていた。
(最初は気づかなかったが……)
夜が深まりつつある中、ラインは村の外に広がる竹林を歩いていた。
頭の中では、これまで得た情報を一つずつ組み直している。
(この数日、探しながら考えていて分かった)
(この話には、どうにも妙なところがある)
自分がその精霊使いだったと仮定する。
もし酒飲のカイの遺産を偶然見つけたなら。
なぜ独り占めしなかった?
なぜ一族へ報告した?
家族への忠誠心。
一族への誇り。
そんな綺麗な理由だけで説明する気は、ラインにはなかった。
人には欲がある。
目の前に大きな利益が転がっているなら、手を伸ばしたくなるのが普通だ。
では。
その男はなぜ、自分の欲を抑え、利益のすべてを手放してまで、一族の上層部へ発見を報告したのか。
(何が、そうさせた?)
歴史の真相は、いつも時間の向こう側に隠れている。
ラインは考え続けた。
だが答えは出ない。
そもそも手がかりが少なすぎる。
しかも、今持っている二つの情報ですら、どこまで本当なのか分からない。
ラインは歩きながら、今度は自分の状況へ意識を戻した。
(どうであれ、この青竹酒を買ったせいで、手元の霊石は残り二個)
(もし今回も遺産を見つけられなければ、かなり面倒になる)
(今夜は……少し賭けに出た形だな)
もっとも。
月印を錬化するにしても、今の霊石では足りない。
ならば中途半端に残しておくより、酒に使って酒虫を見つける可能性を上げる。
ラインはそう判断した。
普通なら。
少しずつ霊石を貯め、安全に修練を進める者のほうが多いだろう。
だがラインにとっては、それでは遅すぎる。
多少の危険を承知で、より大きな利益を狙う。
そのほうが自分には合っていた。
(外道なんてものは、このくらいでいい)
その頃。
夜はさらに深くなっていた。
春の月は細く弧を描き、空に浮かんでいる。
流れる雲が月明かりを隠し、三日月には薄い布がかけられたようだった。
三日三晩も続いた雨が、山の空気をすっかり洗い流していた。
土埃も。
濁った匂いも。
すべて雨に流され。
残っているのは、澄み切った夜の空気だけだった。
まるで白紙のように、余計な匂いがない。
酒の香りを遠くまで運ぶには、むしろ好都合だった。
それが。
ラインが今夜に期待している理由の一つだった。
(残っているのは、この辺りだけか)
竹林の一角で、ラインは足を止めた。
この一週間以上の探索も、まったく無駄だったわけではない。
少なくとも。
これまで探した場所に、酒飲のカイの遺体はない。
その可能性を一つずつ消すことができた。
それが、二つ目の理由。
竹林の足元には柔らかな草が茂り、小さな白い花がそこかしこに咲いている。
ラインは持ってきた青竹酒の酒瓶を取り出した。
口の封を開く。
途端に。
濃く澄んだ酒の香りが、夜気の中へ溶け出した。
青竹酒。
ローデンの村で手に入る酒の中では、間違いなく最高級の一つだった。
これが三つ目の理由だ。
(空気は澄んでいる)
(探していない場所も、もうほとんど残っていない)
(そして酒も、この村で一番香りが強い)
ラインは酒瓶をゆっくり傾けた。
(これで駄目なら……今夜はもう仕方がないな)
細い酒の流れが岩の上へ落ちる。
酒が石を濡らし。
濃い香りをさらに周囲へ広げていった。
あの宿屋にいた狩人たちが見ていたら、悲鳴の一つでも上げていただろう。
霊石二個もした酒だ。
それをラインは、ためらいもなく地面へ流している。
だが本人はまったく気にしていなかった。
酒の香りはすぐに夜風へ乗った。
柔らかな風が竹の間を抜ける。
そのたびに甘い酒香が揺れ、少しずつ遠くまで広がっていった。
ラインはその場に立ち、静かに待つ。
だが。
何も起こらない。
聞こえるのは、少し離れたところから響く鳥の声だけだった。
澄んだ鳴き声が、銀の鈴を転がすように夜の竹林へ響いている。
ラインの表情は変わらなかった。
最初から、一度で見つかるとは思っていない。
歩き出し。
数百メートル離れた別の場所へ向かう。
そこでまた酒を少し地面へ流し。
待つ。
何も起きない。
さらに移動する。
酒を流す。
待つ。
それを何度も繰り返した。
そして。
気づけば、酒瓶の中にはほとんど酒が残っていなかった。
(これで最後か)
ラインは心の中で息を吐いた。
酒瓶を完全に逆さにする。
最後に残っていた青竹酒が、細い流れとなってすべて地面へ落ちた。
酒は草むらへ染み込んでいく。
青緑の草がわずかに揺れ。
白い野花の花びらには酒の雫が付き、その重みで少しだけ頭を垂れた。
ラインはその場に立つ。
最後の期待を胸に残したまま。
周囲を見つめた。
夜はすでに深かった。
ちょうどその場所へ、厚い雲が流れてくる。
月が隠れた。
月明かりを失った竹林に、黒い影が一気に広がる。
まるで巨大な幕が下りたようだった。
音もない。
一本一本の矛竹が、暗闇の中に真っ直ぐ立っている。
ラインの目には、それが細長い黒い影となって並んで見えた。
静かだった。
あまりにも静かで。
自分の呼吸の音さえ、はっきりと聞こえる。
ラインは待った。
胸の中に残っていたわずかな期待が。
時間とともに。
少しずつ消えていく。
やがて。
ほとんど何も残らなくなった。
(……駄目だったか)
ラインは心の中で呟く。
(これだけ条件が揃っていても、酒虫は現れなかった)
(なら、次から見つかる可能性はさらに下がる)
(手元の霊石も、あと二個)
(これ以上は危険だ)
月印の錬化にも霊石は必要になる。
これ以上、酒虫探しへ金を注ぎ込む余裕はない。
危険を冒せば。
当然、失敗することもある。
むしろ、失敗することのほうが多い。
だからこそ。
成功したときの見返りは大きい。
ラインは危険を恐れない。
だが。
賭けに熱くなる人間でもなかった。
負けを取り返そうとして、残ったものまで全部つぎ込む。
そんな真似はしない。
自分がどこまで失えるのか。
どこで止めるべきなのか。
その線だけは、いつも分かっている。
五百年の経験が。
今は引き際だと告げていた。
人生には。
どうしても欲しくなるものがある。
手を伸ばせば届きそうで。
すぐそこにあるように見える。
だが。
どれだけ追っても。
どれだけ手を伸ばしても。
なぜか届かない。
寝ても覚めても頭から離れず。
それでも結局、手には入らない。
そんなものがある。
(それもまた……人生か)
ラインは苦笑した。
(思いどおりにならないからこそ、面白いとも言える)
小さく首を振り。
踵を返す。
その瞬間だった。
一陣の風が吹いた。
柔らかな手が夜空を撫でるように。
月を隠していた雲が、ゆっくりと流れていく。
そして。
細い三日月が、再び姿を現した。
白い杯のような月が、夜空に浮かんでいる。
そこから澄んだ月光が、静かに地上へ降り注いだ。
竹林へ。
岩へ。
細い小川へ。
そして。
ラインの身体へ。
質素な服を着た少年の姿が、淡い月光の中に浮かび上がる。
若い顔は白い光に照らされ、いつもよりさらに色を失って見えた。
先ほどまで竹林を覆っていた闇は、一瞬で薄れていた。
代わりに。
地面一面へ、白い霜のような月明かりが広がる。
それに呼応したのか。
静かになっていた鳥たちが、再び鳴き始めた。
一羽。
二羽。
やがて竹林のあちこちから、澄んだ声が返ってくる。
月明かりを受けた竹林は。
まるで底まで透き通った水の中のようだった。
緑色の矛竹の表面が、白い光を受けて滑らかに輝いている。
先ほどまで暗く沈んでいた景色が、一転して別世界のように姿を変えていた。
ラインは無意識に足を止めた。
ほんの一瞬。目の前の景色に見入ってしまう。
すでに帰るつもりだった。
だが。
なぜかもう一度だけ、振り返った。
最後の青竹酒を流した草むら。
白い花が風に小さく揺れている。
そこには。
何もない。
ラインは自嘲するように笑った。
そして視線を戻そうとした。
そのとき。
視界の端に。
小さな白いものが映った。
ラインの動きが止まる。
少し離れた一本の矛竹。
その幹に。
白い影が張り付いていた。
月光を受け。
丸く。
白く。
まるで一粒の真珠を吊るしたように輝いている。
ラインの瞳孔が、一気に開いた。
身体がわずかに震える。
心臓が。
どくん、と大きく鳴った。
次の瞬間。
さらに速く。
激しく脈打ち始める。
酒虫
見つけた!




