12.青竹酒の香り、精霊使いの威
(今抱えている問題は、結局すべて酒飲のカイの遺産に行き着く)
ラインは眉を寄せた。
(あれさえ見つけられれば、今の問題はすべて解決する。だが見つからなければ、修練の速度は大きく落ちる。修練を始めたばかりだというのに、同年代の連中に一気に差をつけられることになる)
(それにしても妙だな。一週間以上、酒虫を誘い出そうとしているのに、どうしてまったく姿を見せない?)
ラインは考え込んだ。
口へ運んでいる料理の味すら、ほとんど分からない。
そのとき。
突然、騒がしい声が上がり、ラインの思考を遮った。
声のするほうへ目を向ける。
騒いでいるのは、中央の卓に座る六人の狩人たちだった。
すでにかなり酒が回っているらしい。
全員が顔を真っ赤にし、酒臭い息を吐きながら、大いに盛り上がっていた。
「兄貴、ほら、もう一杯!」
「そうだそうだ! 兄貴の腕には俺たちも感服したよ。一人で黒皮猪を仕留めるなんて、大したもんだ! この一杯は絶対飲んでもらうぜ。断ったら俺たちの顔を潰すってもんだ!」
「気持ちはありがたいが、もう本当に入らんよ」
「兄貴が飲めないってのは、この酒がまずいからか? おい、店の奴! もっといい酒を持ってこい!」
声は次第に大きくなっていく。
どう見ても、何人かは完全に酔っ払っていた。
若い店員が慌てて駆け寄る。
「お客さん方、いい酒ならございますけど……ちょっとお高いですよ」
「何だと? 俺たちが金を払えねえとでも思ってんのか!」
その言葉を聞いた途端、狩人たちのうち何人かが立ち上がり、店員を睨みつけた。
がっしりとした大男もいれば、日に焼けた黒い肌に、無駄なく引き締まった身体をした男もいる。
誰も彼も、山で生きる者特有の荒々しい雰囲気をまとっていた。
店員は慌てて両手を振った。
「と、とんでもない! 皆さんを馬鹿にするつもりなんてありませんよ。ただ、本当に高い酒なんです。一瓶で霊石二個もするんですよ!」
「二個?」
狩人たちは一斉に固まった。
霊石二個。
決して安い金額ではない。
普通の家族なら、二か月ほど暮らしていける額だ。
狩人は普通の人間よりも稼ぎがいい。
運がよければ、黒皮猪一頭で霊石半個ほどになることもある。
だが狩りには常に危険がつきまとう。
一歩間違えれば、獲物になるのは自分たちのほうだ。
酒一瓶に霊石二個。
狩人たちにとっては、あまりにも贅沢だった。
「そんなに高い酒、本当にあるのか?」
「お前、俺たちを騙そうとしてるんじゃないだろうな?」
狩人たちは口々に叫ぶ。
だが先ほどまでの勢いはなく、どこか声が弱い。
店員は何度も首を横に振った。
そこで、兄貴と呼ばれていた狩人が空気を察し、すぐに取りなした。
「まあまあ、お前ら。今日はもう十分飲んだだろ。無理して金を使うこともねえ。そんないい酒は、また今度にしようや」
「兄貴、何言ってんだ!」
「それじゃ格好がつかねえだろ……」
ほかの狩人たちも口ではそう言ったが、その声は次第に小さくなっていった。
一人、また一人と席へ戻る。
店員も商売にならないと悟ったらしい。
もっとも、こういう客には慣れているのだろう。
何事もなかったように下がろうとした。
そのとき。
店の隅にある卓から、若い声が聞こえてきた。
「ははっ、笑えるな」
「さっきからでかい声で騒いでるけど、酒も買えないなら大人しく黙って、隅で縮こまってればいいだろ」
「何だと!?」
狩人の一人が一気に頭へ血を上らせた。
「誰が買えねえって言った!」
そして店員へ怒鳴る。
「おい! その酒を持ってこい! 霊石くらい払ってやるよ! 二個だろうが!」
「はいっ! 少々お待ちを!」
店員は、まさか本当に売れるとは思っていなかったらしい。
すぐさま返事をすると、奥へ走っていった。
しばらくして。
店員が、小ぶりの陶器の酒瓶を抱えて戻ってきた。
普通の酒瓶よりも一回り小さい。
だが、口を覆っていた封を切った瞬間。
ふわり。
澄んだ酒の香りが広がった。
あっという間に、食堂全体が芳醇な香りに包まれる。
窓際で一人静かに酒を飲んでいた老人まで、思わず顔を向けた。
その視線が酒瓶へ吸い寄せられる。
間違いなく、いい酒だった。
「お客さん方、小さいからって侮っちゃいけませんよ!」
店員は得意げに言った。
「これは上等な青竹酒です。この村で出しているのは、うちの宿だけなんですから!」
「ほら、この香り! たまりませんよ!」
そう言いながら、店員自身も大きく息を吸い込み、満足そうな顔をする。
その言葉を聞いて、ラインの心がわずかに動いた。
店員の言っていることは、大げさではない。
ローデンの村には酒屋が三軒ある。
どこで売っているのも、普通の米酒や濁り酒ばかり。
品揃えも大差ない。
ラインは酒虫を誘い出すため、この一週間、毎日のように酒を買っていた。
当然、村でどんな酒が売られているかはよく知っている。
目の前の酒瓶を見つめ、狩人たちは一斉に鼻をひくつかせた。
喉がごくりと動く。
酒好きにはたまらない香りらしい。
一方。
勢いで酒を注文してしまった狩人の表情は、かなり複雑だった。
後悔がじわじわと顔に滲んでいる。
霊石二個。
この小さな酒瓶一本が、それだけするのだ。
(勢いで買っちまった……)
(この店員の野郎、仕事が早すぎるだろ。もう封まで切りやがった)
(これじゃ今さら、いらないなんて言えねえ……)
考えれば考えるほど、胸が痛くなる。
だが仲間の前で格好をつけた以上、今さら引っ込めることもできなかった。
最後には卓を思い切り叩き、無理やり笑う。
「くそっ、いい酒じゃねえか!」
「ほら、お前ら! 遠慮せず飲め! 今日は俺のおごりだ!」
ちょうどそのとき。
先ほどの隅の卓から、また若者の笑い声が聞こえた。
「たったそれだけ?」
「六人で飲むには少なすぎるだろ。男なら、あと何本か頼んでみろよ」
「てめえ……!」
狩人の額に青筋が浮かぶ。
勢いよく立ち上がり、声を上げた若者を睨みつけた。
「さっきから口の減らねえガキだな!」
「そこから出てこい! 俺がちょっと相手してやる!」
「へえ?」
若者の声が笑った。
「じゃあ、本当に出ていこうかな」
椅子が動く音。
そして若者が、ゆっくりと卓の陰から姿を現した。
背が高く、細身。
顔色は青白い。
濃い青色の動きやすい服に身を包み、全体的にすっきりとした格好をしている。
頭には鮮やかな青い鉢巻き。
上半身は丈の短い服で、細い肩が見えていた。
下は長いズボン。
足元には竹で編んだ草履を履き、脛には脚絆を巻いている。
だが。
何より重要なのは、腰だった。
青い布の帯。
その中央には、光沢のある銅の札が取り付けられていた。
銅札には、黒く大きな文字が一つ刻まれている。
『一』
「い、一環精霊使い……!」
先ほどまで威勢よく叫んでいた狩人が、息を呑んだ。
顔から怒りが一瞬で消える。
代わりに浮かんだのは、明らかな恐怖だった。
まさか自分が。
精霊使いに喧嘩を売っていたとは。
「どうした?」
若い精霊使いが、からかうような笑みを浮かべながら近づいてくる。
「俺とやり合いたかったんだろ?」
「ほら。来いよ」
狩人は動かなかった。
まるで、その場で石像にでもなったようだった。
「なんなら、六人まとめてでもいいぞ?」
青年はゆっくりと狩人たちの卓まで歩いていく。
口調はあまりにも気軽だった。
六人の顔色が一斉に変わった。
酒で真っ赤になっていた者まで、一気に青ざめる。
額から冷や汗を流し、誰も口を開かない。
息をする音すら立てまいとしているようだった。
青年の精霊使いは手を伸ばし、青竹酒の酒瓶を持ち上げた。
鼻の近くへ寄せ、軽く香りを嗅ぐ。
「へえ」
笑みを浮かべる。
「本当にいい香りだな」
「精霊使い様がお気に召したのでしたら、どうぞお持ちください!」
先ほど喧嘩を売った狩人が、慌てて頭を下げた。
顔には必死な笑みを浮かべている。
「先ほどの無礼のお詫びです。どうか受け取ってください!」
ところが。
青年の表情が突然変わった。
ガシャン!
手にしていた酒瓶を、そのまま床へ叩きつけた。
陶器が砕け、青竹酒が床へ飛び散る。
青年の顔は氷のように冷たかった。
鋭い目で狩人を睨み、低い声で吐き捨てる。
「お前程度が、俺に詫びだと?」
「ずいぶん金持ちなんだな、お前ら狩人は」
「俺より金があるじゃねえか。酒なんかに霊石二個も使いやがって」
「こっちは今、霊石がなくて困ってるってのによ」
青年の声がさらに低くなる。
「その俺の目の前で、金持ち自慢か?」
「精霊使いでもないくせに?」
「そ、そんなつもりは!」
「申し訳ありません!」
「精霊使い様に逆らうつもりなんてございません!」
狩人たちは弾かれたように立ち上がった。
懐を探り、持っていた霊石を次々と取り出す。
だが、普通の狩人だ。
大した財産など持ち歩いていない。
出てくるのは細かな霊石の欠片ばかり。
もっとも大きいものでも、四分の一程度だった。
「こちら、俺たちの持っている霊石です!」
「どうかお納めください!」
しかし青年は受け取らなかった。
ただ冷笑を浮かべたまま、鷹のような鋭い目で食堂全体を見回す。
その視線を向けられた狩人たちは、揃って頭を下げた。
窓際で様子を見ていた老人も、慌てて顔を背ける。
精霊使いとは目を合わせようともしない。
ただ一人。
ラインだけは静かに青年を見ていた。
何の遠慮もない。
青年が身につけている服装は、正式な精霊使いだけに許されているものだった。
今のラインですら、まだ身につける資格はない。
学堂を卒業したあと、初めて一族から与えられる装束だ。
そして腰の銅札に刻まれた『一』。
それが、一環精霊使いであることを示している。
青年の年齢は、すでに二十代半ばほどに見えた。
身体から漏れ出している精神力の気配を見る限り、境界は一環上位。
十五歳から修練を始めて。
二十代半ばになっても、一環上位。
それだけで、青年の資質もほぼ推測できる。
末等資質。
今のラインよりも、一段低い。
おそらく一族の中でも後方の仕事を任されている精霊使いで、戦闘を専門にする者ですらないのだろう。
それでも。
目の前の屈強な狩人六人を相手にする程度なら、十分すぎるほどだった。
それが。
精霊使いと、ただの人間の間にある力の差だった。
(力さえあれば、上から他人を見下ろせる)
ラインは静かにその光景を眺めた。
(それが、この世界の本質だ)
(いや……どの世界でも同じか)
(大きな魚が小さな魚を食い、小さな魚はさらに小さなものを食う)
(ただ、この世界ではそれが少し露骨なだけだ)
「もういいでしょう、キバ」
そのとき。
隅の卓に座ったままだった、もう一人の若者が口を開いた。
「少し懲らしめたなら十分よ。ただの狩人相手にいつまでも絡んでいたら、あなたは恥ずかしくなくても、私は恥ずかしいわ」
その声を聞いて。
初めて周囲の者たちは、もう一人の若者が女だと気づいた。
キバと呼ばれた青年は、女の言葉に興を削がれたらしい。
冷笑を止めた。
狩人たちが差し出している霊石にも、目すら向けない。
全部合わせても霊石二個には届かない。
当然、興味もなかった。
袖を払うような仕草をして、元の席へ戻る。
その途中。
捨て台詞のように言った。
「飲みたきゃ好きに飲めよ」
「青竹酒をな」
「誰がまだ飲む度胸があるのか、見ててやるよ」
狩人たちは全員、俯いたままだった。
先ほどまでの威勢は跡形もない。
六人揃って、叱られた子供のように黙り込んでいる。
砕けた酒瓶から流れ出した青竹酒の香りは、まだ食堂いっぱいに残っていた。
酒を買った狩人は、その香りを嗅ぐたびに顔を引きつらせている。
霊石二個。
それだけ払った酒を一口も飲めなかった。
ラインは箸を置いた。
すでに腹は満たされている。
漂ってくる濃い酒の香りを嗅ぎながら、その瞳がわずかに動いた。
そして。
袋から霊石を二個取り出す。
卓の上へ置いた。
「青竹酒を一本くれ」
食堂が静まり返った。
全員が一瞬、何を聞いたのか理解できなかった。
その中で。
元の席へ戻ろうとしていたキバの足が、ぴたりと止まった。
口元が引きつる。
「……っ」
小さく息を吸う音。
つい先ほど。
誰がこの酒を飲む度胸があるのか見てやる。
そう言ったばかりだ。
その直後にラインが青竹酒を注文した。
これではまるで。
わざわざ自分の言葉を踏みつけ、真正面から顔を叩いたようなものだった。
キバがゆっくりと振り返る。
目を細めた。
冷たい視線がラインへ突き刺さる。
だがラインは平然とその視線を受け止めた。
表情一つ変えない。
恐れる様子もない。
キバの瞳がわずかに揺れた。
そして。
ラインの身体から感じ取れる精神力の気配に気づく。
その瞬間。
先ほどまでの冷たさが少しずつ消えていった。
やがて、春風のような笑みを浮かべる。
「なんだ」
「学堂の後輩だったのか」
周囲の人々も、そこでようやく理解した。
ラインを見る目が一斉に変わる。
なるほど。
この少年が精霊使いを前にしても平然としていた理由。
彼自身もまた、精霊使いだったのだ。
まだ学堂に通う身とはいえ。
精霊使いではない者とは、すでに立場そのものが違う。
「お待たせしました! 青竹酒です!」
店員が笑みを浮かべ、小走りで新しい酒瓶を持ってきた。
ラインはそれを受け取る。
そしてキバへ軽く頷いた。
それだけだった。
青竹酒を手にしたまま。
ラインは宿を出ていった。




