11.ただの色仕掛けか
ラインはわずかに眉をひそめた。
直感。
そして五百年を生きてきた経験。
その二つが、目の前に何か裏があると告げていた。
だが、その冷たい光は一瞬で瞳の奥へ消えた。
ラインはすぐにいつもの表情へ戻る。
「ちょうど腹が減っていた。入ってこい」
扉の外。
酒と食事を持っていたミラは、その言葉を聞くと、ほんの一瞬だけ口元に冷たい笑みを浮かべた。
だが扉を開けたときには、もう従順な使用人の顔に戻っていた。
「ライン様。とてもいい匂いですよ。箱の外まで香ってくるくらいです」
甘い声でそう言いながら、ミラは食事の入った箱を小さな机へ置いた。
料理を一皿ずつ取り出し、丁寧に並べていく。
どれも見た目も香りも悪くない。
続いて酒杯を二つ用意し、それぞれに酒を注いだ。
「さあ、ライン様。今日はわたくしも、ご一緒してよろしいでしょうか?」
笑顔のまま、ミラはラインの手に触れた。
そして妙に距離を詰めてくる。
普段の使用人としての態度とは、明らかに違っていた。
「ライン様。わたくしは、ずっとあなた様のおそばにいたいと思っております」
「資質なんて関係ありません」
「今夜は……少しくらい、わたくしに甘えてくださってもいいのですよ?」
言葉。
表情。
距離。
どれも分かりやすすぎるほど分かりやすかった。
ラインは無表情のまま、ミラを見ていた。
まるで、目の前にいるのが人間ではないかのように。
その視線に、ミラは一瞬だけ不安を覚えた。
それでもすぐに、
(まだ格好をつけているだけね)
と考え直す。
その瞬間だった。
ラインが小さく笑った。
「なるほど」
声には、はっきりとした軽蔑が混じっていた。
「ただの色仕掛けか」
ミラの表情が固まった。
「ラ、ライン様? 何をおっしゃっているんです?」
とぼけるように笑う。
だがラインの瞳は笑っていなかった。
暗く。
静かに。
まっすぐミラを見ている。
次の瞬間。
ラインの右手が、ミラの首を掴んだ。
「……っ!」
ミラの目が大きく見開かれる。
「ライン様、痛いです……!」
ラインは答えない。
指に込める力だけを、少しずつ強めていく。
「や、やめて……ください……」
ミラの顔から余裕が完全に消えた。
両手でラインの腕を掴み、どうにか離そうとする。
だがびくともしない。
「叔父と叔母に言われたんだろう」
ラインが淡々と言った。
「私を誘って、問題を起こさせろと」
ミラの瞳が揺れた。
その反応だけで十分だった。
ラインは薄く笑う。
「ということは、この近くにも人を待たせているな」
「私が何かしたところへ踏み込む。そういう筋書きか」
ミラの顔が青ざめていく。
図星だった。
ラインの指が、さらに少しだけ締まった。
「お前程度で、私を嵌められると思ったのか?」
「……っ、う……!」
ミラは必死に抵抗した。
しかし、まともに声も出せない。
息が苦しくなり、目元には涙が浮かんでくる。
そのとき。
ラインは突然、力を抜いた。
「げほっ……げほっ……!」
ミラは大きく息を吸い込み、そのまま激しく咳き込んだ。
ラインはそんな彼女を静かに見下ろしていた。
そして、穏やかな声で尋ねる。
「ミラ」
「私がお前を殺せると思うか?」
怒鳴り声ではなかった。
脅すような大声でもない。
むしろ、ひどく静かな声だった。
だからこそ。
ミラは心の底から恐怖した。
ゆっくり顔を上げる。
そこには笑みを浮かべた少年がいた。
だが、その瞳には何の感情もない。
怒りも。
欲も。
迷いも。
ただ深く、暗い。
底の見えない古い淵のようだった。
その視線を受けた瞬間、ミラは身体の深いところまで冷えたような感覚に襲われた。
この人は。
本当にやる。
必要だと思えば、ためらわず自分を殺す。
そう確信した。
(なんで……)
(なんで私、こんな人を相手にしようとしたの……?)
後悔が一気に押し寄せる。
今すぐ逃げ出したかった。
だが身体が動かなかった。
少しでも妙な動きをすれば、次は本当に殺される。
そう思えてならない。
ラインはしばらくミラを眺めたあと、表情を消した。
「長い間、私の身の回りの世話をしてきた」
「その分だけ、今回は見逃してやる」
それから、軽くミラの肩を叩いた。
「奴隷の身分を抜けて、ローデン姓が欲しいんだろう?」
「なら、私ではなくライルのところへ行け」
「今のあいつなら、お前にも扱いやすい」
言い終えると、ラインは興味を失ったように視線を外した。
「行け」
ミラはしばらく立ち尽くしていた。
やがて、夢遊病者のような足取りで部屋を出ていく。
どうやって廊下を歩いたのか。
どうやってラインの前から離れたのか。
自分でもよく分からなかった。
物陰で待っていた者たちは、青ざめた顔で出てきたミラを見て、互いに顔を見合わせる。
予定とはまるで違っていた。
部屋の中。
ラインは一人、冷たく笑った。
(色仕掛けとはな)
(前世とは少しやり方を変えてきたか)
(叔父さん、叔母さん)
(この借りは、よく覚えておこう)
ミラが出ていってから間もなく、ラインも立ち上がった。
そして部屋を出る。
いずれにせよ。
もうこの家に留まるべきではない。
危険だと分かっている場所に、わざわざ居続ける理由はない。
まして今のラインには、すべてを力で押し通せるだけの実力もなかった。
力がないのに危険の中へ居座る。
そんなことをするのは、ただの馬鹿だ。
「部屋は空いているか?」
ラインは村で唯一の宿屋へ入り、店主に尋ねた。
「ありますとも!」
店主はすぐに笑顔を浮かべた。
「二階と三階にいい部屋が空いております。値段もお安いですし、どの部屋も綺麗にしてありますよ」
「一階はこちらの食堂になっております。ここで召し上がってもいいですし、部屋まで運ばせることもできます」
村で宿屋と呼べる場所は、ここ一軒だけだった。
普段は客も少なく、どこか寂しい。
一年に一度、商隊がヴェルデン山を訪れる時期だけは大勢の客で賑わうという。
ラインは確かに腹が減っていた。
店主へ霊石を二個投げる。
「部屋を一つ」
「それから酒を徳利二本。料理を三、四品頼む」
「はい、かしこまりました!」
店主は霊石を受け取り、さらに尋ねる。
「お食事はお部屋へお持ちしますか? それとも、こちらで?」
ラインは外を見た。
雨はすでに止んでいた。
時刻も、もう夕方に近い。
ここで食事を済ませ、そのまま村を出て酒飲のカイの遺産を探したほうがいい。
「ここで食べる」
「承知しました!」
一階の食堂には、十数脚の四角い卓が並んでいた。
それぞれの卓を囲むように、細長い木の長椅子が四つずつ置かれている。
卓の間には太い柱が立ち、上の階を支えていた。
床には石板が敷かれていたが、ところどころ湿っている。
山の湿気までは、どうにも隠せないらしい。
食堂には、三組の客がいた。
窓際。
老人が一人、酒を飲みながら山に沈んでいく夕日を眺めている。
中央には五、六人の狩人。
大きな声で狩りの話をしながら酒を酌み交わしていた。
足元には、獲ってきた鳥や野兎などが積まれている。
そして隅の卓。
若い二人組が、声を潜めて何か話していた。
身体の大半が影に隠れており、男なのか女なのかもよく分からない。
ラインは入口に近い席を選んだ。
しばらくすると、料理と酒が運ばれてくる。
徳利を手に取りながら、ラインは考えた。
(私の下等資質で月印を錬化するなら、霊石の力を借りる必要がある)
(月印の意志が弱ければ、五個ほどで済むだろう)
(だが抵抗が強ければ、八個以上必要になる)
精霊も生き物だ。
当然、自ら生きようとする意志を持っている。
意志の強い精霊は、最後まで激しく錬化に抵抗する。
逆に弱い精霊なら、途中で抵抗そのものを諦めることもある。
一度抵抗する意志を失えば、そこから先の錬化はかなり楽になる。
(今、手元にある霊石は六個)
ラインは頭の中で計算した。
(そのうち二個は宿に払った)
(残りは四個)
(……足りないな)
この世界では、霊石は非常に価値の高い通貨だった。
普通の三人家族なら、一か月の生活費は霊石一個もあれば十分足りる。
だが。
精霊使いとなれば話は別だ。
錬化には、とにかく霊石を使う。
ラインの場合、月印一体を錬化するだけでも、平均して七個前後は必要になる。
それでもまだ月印だから、この程度で済む。
もし酒虫を発見したとして。
ラインの資質であれを錬化するなら、さらに十数個は必要になるだろう。
(つまり今の私は……)
(たとえ酒虫を見つけても、錬化するための霊石が足りない可能性が高い)
ラインは杯を傾けた。
(それでも、探す価値はある)
(酒飲のカイの遺産そのものに、大量の霊石が残されている可能性が高いからな)
その推測は難しくない。
酒飲のカイは五環精霊使い。
しかも、かつて名を知られた外道の強者だ。
そんな男が。
精霊使いにとって必需品とも言える霊石を、ほとんど持っていなかったとは考えにくかった。




