123.子鹿が探る道、姿を現す百足
ラインが目を覚ましたときには、翌日の正午になっていた。
頭痛は消え、昨夜の激痛もすっかりなくなっている。
何気なく右耳に触れると、その感触は以前と少しも変わらなかった。
昨夜、耳を切り落としたことなど、なかったかのようだ。
起き上がると、まず鏡を探し、自分の姿を確かめた。
映っていたのは、美少年というほどではない、平凡な少年の顔だった。
だが、漆黒の深い瞳には尋常ならぬ冷酷さが宿り、その顔立ちに独特の魅力を与えている。
両耳は同じ大きさで、違いは見当たらない。
昨夜、地這い耳を植え込んだ直後は、右耳だけが大きく膨れ、耳たぶが顎に届きそうなほどだった。
今は普通の耳に戻っており、外見から異常を察することはできなかった。
身体と地這い耳が、すでに互いに馴染んだのだ。
ラインは意識を動かし、空界からわずかな赤鉄精神力を引き出した。
精神力は体内を上へ流れ、右耳へ注がれる。
途端に聴力が数倍に高まり、入り乱れた足音が次々と聞こえてきた。
二階にいるにもかかわらず、身をかがめて地面に耳を押し当てているような感覚だった。
耳を澄ませながらさらに精神力を注ぐと、聴力も増していく。
鏡の中では、右耳の縁から少しずつ根が伸び出していた。
大根の細根にも高麗人参の根にも似たそれらは、まばらに垂れ下がり、長くなり続ける。
それにつれて、右耳も大きく膨らんでいった。
試しに発動を止めてみると、一秒後には根がすべて引っ込み、右耳も元の形に戻った。
聴力も低下し、以前と同じ状態に戻る。
「これで私にも、偵察用の精霊ができた」
ラインは服を着ると、ベッドの下から洗面器を取り出した。
昨夜、真っ赤だった血の混じった水は、入れておいた石炭の塊によって、黒々とした汚水に変わっていた。
浸しておいた布も同じで、血の赤も元の白さも黒灰色に覆われ、台所の油まみれの雑巾のように見える。
これなら、人前で捨てても不審に思われることはない。
夏が近づけば、冬の間使い続けた炉を掃除する者も多い。
その際に出る汚水も、たいていこれと似た見た目になる。
ラインは間を置かず、再び岩の裂け目の秘洞へ入った。
今回は手ぶらではない。
野外で子鹿を一頭捕まえ、四本の脚を麻縄で縛り、口には鉄製の覆いをつけておいた。
隠鱗虫で姿を隠し、その子鹿を石扉の前まで運んできたのだ。
ラインはすぐに扉を開けようとはせず、まず地這い耳を発動した。
耳の縁から根が伸び出すと、聴力がたちまち数倍に高まる。
ドク、ドク、ドク……
最初に聞こえたのは、かすかでゆっくりとした鼓動だった。
根が伸びるにつれて音は鮮明になり、聞き取れる鼓動の数も増えていく。
背後の石林にいる宝石猿のものだと、考えるまでもなく分かった。
目を閉じると、あの奇妙な生き物たちが、それぞれの石穴で身体を丸め、深く眠っている光景が脳裏に浮かんだ。
だが、聞きたいのはその音ではない。
さらに精霊を使い続けると、右耳は肥大し、縁から伸びた根は半メートルほどになった。
根はまるで意志を持つかのように石扉へ向かい、浅く食い込んだ。
その瞬間、聴力が一気に跳ね上がる。
ラインを中心に三百歩の範囲から、無数の音が押し寄せてきた。
これこそ、地這い耳の本来の使い方だった。
集落では、ほんの少し試したにすぎない。
根を地面に接触させなければ、その偵察範囲は二環精霊として平凡なものだ。
だが、地中に根を張れば、偵察能力は格段に高まる。
理由は難しくない。
高校で習った通り、音の伝わり方は媒質によって変わる。
土や水の中では、空気中よりもずっと速く音が伝わるのだ。
根が石扉に入り込むと、向こう側の音もはっきり聞き取れるようになった。
かすかな擦れ合う音が、細かく複雑に重なっている。
それに比べれば、宝石猿の鼓動など、大太鼓を叩く音も同然だった。
地這い耳を初めて使う者なら、その正体を知るためにあれこれ考えを巡らせたはずだ。
だが、ラインにはすでに予想があった。
ただ、しばらく耳を澄ませているうちに、眉間に皺が寄っていく。
ラインは手を伸ばし、そのまま石扉を押し開けた。
扉は重かったが、今の彼にはイノシシ二頭の力がある。
さほど苦労することもなかった。
扉の向こうには、暗く奥深い通路がまっすぐ続いていた。
その先がどこへ通じているのかは分からない。
ラインは子鹿を縛っていた縄を解き、通路へ放り込んだ。
子鹿は暗闇に潜む危険を感じ取ったのか、なかなか先へ進もうとしない。
大きな目でラインを見上げるその眼差しには、怯えと懇願の色があるように見えた。
ラインは鼻を鳴らし、手を振って月刃を放った。
あえて威力を抑えた月刃が斜めにかすめ、子鹿の身体に浅い傷をつける。
傷口から血が滲み出した。
痛みのために、ラインへの恐怖が、前方の暗闇への恐怖を上回った。
子鹿は慌てて四本の脚を動かし、通路の奥へと駆けていく。
たちまち、その姿は闇に呑まれた。
ラインは再び地這い耳を使った。
今度は、そばの壁へ根を差し込む。
聴力が高まり、子鹿のせわしない足音と鼓動が聞こえた。
続いて、何かが擦れ合う音が一斉に湧き上がり、音の波となって押し寄せてきた。
百足の洞に死は潜む。命惜しくば、地耳を頼れ。
ラインには分かっていた。
その音の波は、無数のムカデが這い回る音なのだ。
ふいに、怯えきった子鹿の鳴き声が耳に届いた。
どうやら虫の巣に踏み込み、ムカデの群れに遭遇したらしい。
ラインの脳裏に、一つの光景が浮かんだ。
子鹿が慌てふためき、四方から潮のように押し寄せるムカデに取り囲まれる。
その場でぐるぐると向きを変え、四本の脚で必死に踏みつけながら、迫りくる死を感じて悲鳴を上げている。
密集したムカデたちが、その身体を這い上がる。
子鹿は倒れ、転がりながら激しく身をよじる。
やがて鼓動が止まり、全身を覆ったムカデたちが血肉を食らい始める。
ラインの眼差しが、ふいに鋭くなった。
他とは明らかに違う音を聞き取ったのだ。
ブゥゥン……
地球の電動ノコギリを動かしたような、荒々しく乱暴な音だった。
初心者なら戸惑うばかりだろう。
だが、経験豊かなラインは、すぐにその正体を見抜いた。
三環の野生精霊、旋牙百足!
ムカデの群れを率いる虫王であり、百足の洞に潜む真の脅威だった。
その姿を、ラインは容易に思い描けた。
長さは一メートルを超え、幅は拳二つ分ほど。
じっと身を伏せていた金色の巨大なムカデが目覚め、うねるように這い進む。
身体の両側には銀色に縁取られた鋭い鋸歯が並び、移動とともに高速で回転する。
まるで電動ノコギリだ。
旋牙百足が現れた途端、ムカデの群れは静まり返る。
虫王が荒々しく近づくと、進路にいたムカデたちは四方へ散り、食べかけの子鹿の死骸が姿を現す。
虫王は死骸に這い上がり、禍々しい口器を開いて血を吸い、肉を呑み込んでいく。
骨にぶつかれば身体を丸め、両側の銀縁の鋸歯で軽く切り刻む。
それだけで、骨はたやすく粉々になってしまう。
(シロタマズスキンがあっても、旋牙百足の連続攻撃には耐えられない。
酒飲のカイは、地這い耳を使ってこの虫王を避けさせるつもりだったのだろう。
だが、私には逆矢がある。こいつを従えることも、不可能ではない)
一つの考えが、ラインの中に芽生えた。
試してみたいという気持ちが湧いてくる。
旋牙百足も、かなり優秀な精霊だ。
手に入れられれば、必ず大きな力になる。
ただ、地下でこうした精霊を生け捕りにするには、四環精霊使いでさえ苦労するはずだった。
捕まえることと、取り囲んで殺すことはまったく違う。
前者の方が、遥かに難しい。
野生精霊の多くは狡猾で、旋牙百足も不利を察すれば地中へ潜って逃げる。
地中を移動する手段がなければ、どうやって追えばいいのか。
だが、ラインには逆矢がある。
旋牙百足を掴みさえすれば、逆矢の気配をわずかに放つだけで相手を怯ませ、動けなくできる。
六環の逆矢の気配は、一環から四環までの精霊には強い威圧となる。
だが、五環にはさほど効かず、同じ六環に至っては何の威圧にもならない。
地球の会社員も、係長に叱られる程度なら、へらへら笑って受け流せるかもしれない。
だが、部長や社長に直々に叱られれば、さすがに怖くなる。
会社を辞めようかと考えるか、びくびくしながら働き続けるかになる。
(ただ、今の私はまだ二環中位だ。三環の旋牙百足を従えることはできなくもないが、少し時期が早い)
ラインは考え込んだ。
二環精霊使いには、やはり二環精霊が最も適し、使いこなしやすい。
もちろん、それより上の環階の精霊を持つこともできる。
例えばアオは、三環精霊の木傀を持っていた。
ただし、それは一般的なことではない。
まず、精霊の環階が高いほど、餌にかかる費用も大きくなる。
さらに、高環の精霊ほど扱いにくく、使うために別の代償を求められることも多い。
赤ん坊に大きな鉄槌を振るわせるようなものだ。
無理に振り回せば筋を傷めるばかりか、自分の足にぶつけかねない。
(子鹿を送り込んだことで、虫の群れ全体を騒がせてしまった。
すっかり落ち着くには、十日か半月はかかるだろう。
今回の試しで予想は確かめられたが、今は奥へ進むべきではない。ひとまず引き、少し待とう。焦っても仕方のないことだ)
ラインはそう考え、石扉を閉じ直した。
隠鱗虫で姿を隠し、秘洞をあとにした。




