122.捨てざる者、精霊を得るべからず
山腹の石林は、今も薄暗い赤光に包まれていた。
天井から垂れ下がる石柱は、逆さに生えた巨木のようにそびえ、壮観な眺めを作り出している。
「前に来てから、もう一か月以上になるか」
ラインは胸の内で呟き、少しばかりやるせなさを覚えた。
三家が結盟してから、精霊使いたちは周辺の狼群を絶えず掃討していた。
岩の裂け目の秘洞付近にも、頻繁に人が出入りしている。
そんな状況では、隠鱗虫で姿を消しても、見つかる危険があった。
ラインは慎重に行動する。
五百年の生涯で、十分な忍耐も身につけていた。
この間は、ここへ来たい気持ちを抑え続けていたのだ。
冬が去り、春になって、周辺の棄狼が掃討されると、行き交う精霊使いも次第に減っていった。
そこでようやく、ラインは外で大きく遠回りをし、隠鱗虫を使って姿を消したまま、ここへ辿り着いた。
一か月余りの間に、以前切り開いた道には、またいくつかの宝石猿の群れが移り住んでいた。
幸い、数は多くない。
多少の手間をかけて猿群を斬り伏せ、ラインは再び石林の中央へ到達した。
巨大な石柱の陰に、明らかに人の手で掘られた穴が口を開けていた。
その奥では、粗雑な石段が下へと続き、闇に呑まれている。
ラインがシロタマズスキンを発動すると、淡い防御の光が全身を覆った。
左手には松明を高く掲げ、右の掌には月光を灯す。
月華印をいつでも放てる状態にして、慎重に石段を下り始めた。
周囲は真っ暗で、松明の光も五歩ほど先までしか届かない。
照明用の精霊がいれば、探索はずっと楽になるだろう。
残念ながら、そこまで揃えられるほどの余裕はなかった。
一歩ずつ様子を確かめながら進み、しばらくして、ようやく石段の終わりへ着いた。
目の前には、粗雑な造りの石扉が立ちはだかっていた。
松明を高く掲げると、その表面に一行の文字が刻まれているのが見えた。
「百足の洞に死は潜む、命惜しくば、地耳を頼れ」
ラインは目を細めた。
その眼差しがわずかに動き、胸の内に一つの推測が浮かぶ。
「見当違いでなければ……」
しゃがみ込み、手で地面を探った。
ほどなく、石扉の前に、小さな湿った土の一角を見つける。
「あった」
胸の内で喜び、土を掘り返した。
予想どおり、一輪の地蔵花が現れた。
ラインは慎重に花弁を開き、花心から一体の精霊を取り出した。
奇妙な精霊だった。
人の耳に似ているが、一回り小さく、全体がくすんだ土色をしていた。
干からびた体を指でつまむと、梅干しのような感触があり、かすかな温もりも伝わってくる。
耳の縁からは、数十本の細い根が伸びていた。
大根の側根を思わせる形だった。
二環の植物系精霊、地這い耳である。
掌の精霊を見つめ、ラインの目がわずかに動いた。
まさに、必要としていたものだった。
地這い耳は偵察に使え、今の彼に欠けている能力を補ってくれる。
最大の長所は、偵察範囲が三百歩に達することだ。
二環の偵察精霊としては、際立った距離だった。
そのうえ、養うのも容易である。
餌は、大根の側根だった。
この世界の南域には、農業はそれほど発達していないけれど、山や森が多く、大根も地球よりずっとありふれている。
側根は保存もしやすい。
十分に乾燥させて密封すれば、常温でも長く保つことができた。
月蘭の花びらは、数日で萎れてしまう。
だが、側根なら長期間保存しておける。
「精霊を養い、使い、煉成する。その三つには、それぞれ奥深いものがある。地這い耳は養いやすいが、使うには少し手間がかかるな」
ラインは考えながら、精霊をつまんだまま精神力を送り込んだ。
錬化は、瞬く間に終わった。
その偵察距離は、多くの三環精霊にも匹敵する。
だが、天は公平だった。
使うためには、錬化するだけでは足りない。
相応の代償を払う必要があった。
屍人鎧や木傀も、他の精霊と組み合わせて使わなければならない。
単独で長く使い続ければ、体が侵食され、最後には本物の屍人やトレントになってしまうのだ。
「錬化に成功しても、すぐには使えず、特別な条件を満たさなければならない精霊は多い。地這い耳もその一つだ。
だが、これを使えれば、周囲の状況を探り、ウルフウェーブの中でも、本当に余裕を持って動ける。
さらに、この災厄を利用して、いくつかの目的を果たすことも……」
しばらく考え、ラインは決断した。
得るものは、失うものより大きい。
先のことを考えれば、あの代償を払うにも、ためらう理由はなかった。
「どの世界でも、何も払わずに、何が手に入るというのか」
胸の内で冷笑し、地這い耳を空界へ収めた。
それから石扉をじっと見つめ、踵を返した。
判断が正しければ、扉の向こうには危険がある。
それを避けるには、まず地這い耳を使えるようにしなければならなかった。
秘洞を出ても、すぐには集落へ戻らなかった。
外をしばらく歩き回り、数頭の孤狼を狩り、狼の眼球を何対か手に入れてから帰った。
功績順位表では、相変わらず最下位だった。
街を歩けば、彼を知る精霊使いたちが、嘲りや軽蔑を含んだ目を向けてくる。
ラインは気にせず、いつもどおり、自分のやり方を貫いた。
それから数日、わずかな功績で側根を交換し、地這い耳を丁寧に養った。
精霊は少しずつ生気を取り戻していく。
干からびていた表皮にも潤いが戻り、ふっくらと膨らんできた。
一族の関心は、その大半がウルフウェーブへ向いていた。
ラインを気にかける者はいない。
以前なら、叔父夫婦が絡んできたかもしれない。
だが、家産を売って以来、あちらからは何の動きもなかった。
事は密なるを以て成り、語は泄るるを以て敗る。
ほどなく、ラインは誰にも知られずに準備を整えた。
その夜は月が明るく、星はまばらだった。
玉の皿のような月が空高く浮かび、薄絹のような夜の闇が、ヴェルデン山を覆っている。
遠くからは、時折、かすかな狼の遠吠えが聞こえた。
ラインは戸と窓をしっかり閉め、借家の床に裸で立っていた。
目の前の小卓には、ぬるま湯を満たした洗面器が置かれている。
その傍らには白い綿布が敷かれ、鋭い短剣が一本載っていた。
足元にも、厚い綿布をあらかじめ敷いてある。
窓の隙間から差し込む月光が、卓上に落ちていた。
ラインは淡々とした顔で、短剣を取った。
磨かれた刃は冷たい光を帯び、人影を映すほど滑らかだった。
薄明かりの中、刃に映った少年の目元にも、冷たさが滲んでいる。
速やかに力を得るには、必ず何かを捨て、何かを払わなければならない。
残酷とさえ言える決断と割り切りなくして、どうして野望を遂げ、覇業を成せるというのか。
何も払わずに得られるというのは、子供を騙すおとぎ話にすぎなかった。
今の自分が、地這い耳を使うために払う代償。
その程度のものが、何だというのか。
そう考え、ラインはふと冷笑した。
指の腹で冷たい刃をそっと撫で、低い声で歌を吟じる。
「月冴えて
刃に宿る
霜の色
枯らさぬ冬は
春を呼ばめや」
吟じ終えた瞬間、彼の手が閃いた。
刃が振り下ろされ、血が飛び散る。
卓上に落ちた肉片は、彼自身の右耳だった。
鮮血が噴き出した。
初めに感じたのは、耳の脇を走る冷たさだった。
次いで、温かな液体が首を伝い、胴へ流れていく。
直後、激しい痛みが襲いかかった。
ラインは歯を食いしばり、わずかに息を呑んだ。
痛みを堪え、空界から地這い耳を呼び出す。
数日間養ったそれは、取り出したばかりの頃とは、すっかり姿を変えていた。
初めはくすんで干からびていたが、今は潤いを帯び、肉厚になっている。
大きさも、成人の掌ほどに育っていた。
指でつまむと弾力があり、地球の仏像の、厚く垂れ下がった耳を思わせた。
ラインは頭の側面にできた傷へ、それを押し当てた。
深紅の精神力を送り込む。
地這い耳の根が、たちまち動き始めた。
目に見える速さで伸び、傷口へ潜り込んでいく。
再び、激痛が走った。
数十本の針金が、傷口から頭の中へ入り込んでくるようだった。
痛いだけではない。
吐き気を催すほど、不快な感覚でもあった。
普通なら、この段階では、他の精霊を使って神経を麻痺させる。
ラインには、そんな手段はなかった。
鋼のような意志だけで、耐え抜くしかない。
所詮、体はまだ少年のものだった。
激痛の中で、その身も思わず揺らいだ。
さらに多くの根が、傷口へ入り込んでいく。
地這い耳は、次第に血まみれの傷へ密着し、新たな右耳となった。
最後には出血も止まり、傷痕さえ残らなかった。
それでも、ラインの顔は真っ青だった。
わずかに和らいだだけの痛みが、なおも彼を苛んでいる。
額には青筋が浮き、心臓が激しく脈打っていた。
ここまで来れば、大半は成功したも同然だった。
だが、体が地這い耳に馴染むには、まだ時間が必要である。
鏡を取り出し、かすかな月光を頼りに、自分の姿を確かめた。
鏡の中の少年は顔色が悪く、眉をわずかに寄せている。
左耳は小さいが、右耳はその二倍以上も大きく、ひどくいびつに見えた。
ラインに驚きはなかった。
しばらく丁寧に見て、問題がないと確かめる。
むしろ、満足していた。
鏡を置くと、布をぬるま湯に浸し、体についた血を拭った。
衣服を汚していないため、後始末は容易だった。
足元へ流れた血も、あらかじめ敷いた綿布に吸い取られている。
血を拭き終えると、卓上にある元の右耳を手に取った。
冷たく鼻を鳴らし、掌の月華印を発動する。
切り落とした耳を細かな肉片へと刻み、痕跡を消した。
続いて、血水の溜まった洗面器を寝台の下へ置き、その中へ石炭を一塊投じた。
すべてを終えてから、ようやく寝台へ倒れ込んだ。
痛みは大幅に和らいでいたが、まだ消えてはいなかった。
頭が繰り返し疼き、心臓が脈打つたび、傷口を引き裂かれるように感じる。
どれほど時間が経ったのか分からない。
やがて彼は、深い眠りに落ちた。
もし精霊に満ちたこの世界へ来ていなければ、短歌や詩を好むラインは、文学に定評のある私立大学に通っていたのかもしれません。
卒業後は、ごく普通の中小企業に就職し、十五年間こつこつと働いて、課長になる。
やがてささやかな家庭を築き、少しずつ年を重ね、最後は妻や子どもたちに見守られながら、穏やかに息を引き取る。
この異世界への転生が、ラインにとって幸せだったのか、不幸だったのか、私にも分かりません。
もともとのラインも、実は文学好きなライルにすぎなかったのです。




