120.虚名という鎖、熊を縛る青蔓
降参……
ラインの言葉は、なお人々の耳に響いていた。
楼台の下にいるほとんどすべての二環精霊使いが、驚きの目を彼へ向けている。
ラインはそれらを意にも介さず、平然と腕を組んで立っていた。
「降参?いきなり降参したのか?聞き間違いじゃないよな?」
「あれがライン・ローデンか。戦う度胸すらないとはな、ハハッ」
「バルガスの気迫は確かにすごい。だが、勝てなくても、形だけは戦ってみせるべきだろう。いきなり降参するなんて、自分が臆病者だと示すだけじゃない。一族の顔にまで泥を塗っている」
……
囁き声が、静かな湖面に広がる波紋のように、少しずつ周囲へ伝わっていった。
最初の驚きが薄れると、人々の目には、軽蔑や侮り、他人の失態を喜ぶ色が浮かび始めた。
ローデン一族の精霊使いたちも、次第に落ち着かなくなった。
ロア一族とベル一族の視線が、目に見えない針のように、自尊心へ突き刺さる。
ラインはローデン一族の者だ。その降参によって、自分たちまで面目を失ったように感じていた。
「どうして降参するんだ!ライン、お前はローデン一族の精霊使いだろう!前へ出て、堂々とバルガス・ロアと戦え!」
「戦う勇気すらない方が、よほど恥だぞ!」
堪えきれなくなった者たちが、ラインをけしかけるように叫び始めた。
だが、彼の顔色は変わらない。
その言葉も、犬の群れが吠えているのと何ら違わなかった。
名誉も面目も栄光も、上に立つ者がちらつかせる餌にすぎない。
同時に、それは組織に属する者たちの首に掛けられた枷でもある。
この精霊使いたちもまた、縄につながれた犬にすぎなかった。
バルガスはラインをじっと見つめ、ふいに笑った。
「がっかりだな。ローデン一族の武勇というのは、こういうものだったのか?」
その言葉に、ローデン一族の顔色はいっそう険しくなった。
ロア一族からは笑い声が上がり、ベル一族の精霊使いたちまで、嘲るような目を向けてきた。
ラインの周りにいた者たちが、次々と彼から離れていった。
同じ場所にいることさえ恥じるような顔をしている。
ほどなく、彼から五歩以内には、誰も残っていなかった。
ラインは、周囲から浮いたまま、一人で立っていた。
それでも、表情は変わらない。
皆が大切にする武勇の名誉を、彼は鼻で笑っていた。その態度が、嫌悪を招くのも当然だった。
彼が否定しているのは、単なる肩書きではない。
皆が信奉する価値観そのものだ。
その価値観を否定することは、これまでの彼らの生き方まで否定することになる。
人は、自分の価値観が間違っていたとは認めたくない。
まして、自分の生き方そのものが誤っていたなどと思いたくはない。
だからこそ、無意識にラインへ反発し、彼を排斥するのだった。
意志の弱い者なら、こうした排斥に心が揺らぎ、自分を変えて人の輪へ戻ろうとするだろう。
だが、この孤立こそ、ラインには必要だった。
抱える秘密は、ますます増えている。
一人で行動できる方が都合はよい。
そもそも、この者たちと親しくなる価値もなかった。
前世の記憶では、ヴェルデン山の三大集落は、苦労の末にウルフウェーブを乗り切る。
だが、二年後のある事故ですべて滅び、山全体が氷に閉ざされた死地へと変わってしまう。
それまでに、可能な限り成長する。
そして一族を離れ、命を奪う災厄を避ける。
ラインにとって、必要なのはそれだけだった。
ローデン一族にとって、状況はますます不利になっていた。
一族の二環精霊使いで最強のアオも、進み出ざるを得なかった。
「バルガス・ロア、私と手合わせをしないか」
「へへ、どんな勝負だ?」
バルガスは笑っていたが、表情には幾分かの緊張が加わった。
アオは彼と目を合わせず、手のひらをわずかに持ち上げた。
ひそかに精神力を動かし、掌でゆっくりと伸びる青蔓へ目を落とす。
「君の力を試してみよう。青蔓の拘束を振りほどければ、私の負けだ。どうかな?」
「へへ、いい提案だ。やってくれ」
バルガスは歯を見せて笑い、その目には鋭い光が閃いた。
胸の内では、すでに計算を済ませている。
自分には、熊一頭の力がある。
豪熊紋の増幅を加えれば、熊二頭の力になる。
青蔓がいかに丈夫でも、その力を抑え込めるはずはなかった。
グリムは、すでにエリアスを破っている。
自分がアオにも勝てば、バルガスチームの名声は、一気に高まるだろう。
アオは穏やかに微笑み、それ以上は何も言わず、両方の手のひらを広げた。
二本の青蔓が掌から伸び続け、しなやかな緑の大蛇のように、バルガスの体へ這い上がった。
バルガスは、両手を腰の横へ下ろしていた。
青蔓は両腕へ十数回も巻きつき、両手と腰、背をまとめて固く縛り上げた。
周囲の精霊使いたちは、その勝負から目を離さなかった。
「どうぞ」
アオが促した。
バルガスは目を見開き、両拳を握り締め、一気に力を込めた。
全身の筋肉が、硬い岩のように盛り上がる。
熊一頭の力!
ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ!
その巨力に耐えきれず、体に巻きついた青蔓が、次々に引きちぎれた。
「ははは、アオ殿、どうやらこの勝負は俺の勝ちだな!」
バルガスには、力を込めながら話すだけの余裕があった。
「アオ先輩……」
傍らのライルは、緊張で両手に汗を滲ませていた。
ほかのローデン一族の精霊使いたちも、神経を張り詰めている。
アオは、二環で一族最強の男だ。
彼まで敗れれば、今回のローデン一族の面目は、完全に潰れてしまう。
「それは、まだ分からないよ」
アオは微笑み、その目には自信が宿っていた。
言葉が終わると同時に、手の青蔓が変化した。
鮮やかな緑色が深い暗緑色へと変わり、蔓は急速に太くなって、大きな葉が次々と生えてくる。
バルガスの顔色が変わった。
青蔓が締めつける力は、一瞬にして十倍以上にも増していた。
さらに驚くべきことに、引きちぎった蔓までもが、凄まじい速さで再生している。
断面がつながり直し、再び彼を固く縛り上げた。
豪熊紋!
危険を察したバルガスは、すぐさま空界の精霊を発動させた。
胸の熊をかたどった紋章が、光を放った。
髪は鋼の針のように逆立ち、全身の筋肉が膨れ上がる。
体そのものがひと回り大きくなったようで、その姿はいっそう雄大になった。
熊二頭の力!
青蔓が、ぎしぎしと軋んだ。
だが、その驚異的な力を受けても、蔓は切れず、バルガスを固く拘束し続けた。
バルガスは顔を真っ赤にし、力の限り青蔓を引きちぎろうとした。
しかし、結局は一本の蔓を切っただけで、それ以上は続かなかった。
「俺の負けだ」
豪熊紋の増幅を自ら解き、息を切らしながら告げた。
「お手合わせ、ありがとう」
アオは礼を取り、青蔓を引き戻した。
「アオ様、さすがです!」
ローデン一族から、たちまち歓声が上がった。
「やっぱりアオ先輩はすごい。兄さんとは、比べものにならない」
ライルはアオの傍らに立ち、憧れに満ちた輝く目で、彼を見つめていた。
一方、バルガスは複雑な顔でアオを見ている。
自分は月輪クマの精霊を手に入れ、以前より強くなった。
だが、アオもまた成長していたのだ。
どんな手段を使ったのかは分からない。それでも、こういう男こそ、自分の相手にふさわしい。
あのラインなど、臆病な新人にすぎない。
気にかけるだけの価値もなかった。
「やはり、木傀か」
ラインは離れた場所からアオを見つめ、胸の内で呟いた。
正面で力を競ったバルガスは気づかなかったが、アオの髪の間には、一、二枚の瑞々しい緑の葉が生えていた。
木傀を使った証である。
木傀は三環精霊で、木霊を使用者の体内へ憑依させることができる。
木霊は樹木に棲む奇妙な生き物で、肉眼では捉えにくく、森林の豊かな南域ではごくありふれた存在だった。
その優れた能力の一つが、天地に漂う天然精神力の吸収である。
植物系の精霊との相性も、極めてよかった。
普通の精霊使いが吸収できるのは、霊石に凝縮された精神力だけだ。
戦いながら霊石から精神力を吸い上げるほど、意識を分ける余裕はない。
だが、木霊にとって、精神力の吸収は本能であり、意識を割く必要もなかった。
だからこそ、木傀を使う精霊使いは、持久戦に強い。
精神力が無尽蔵になるわけではないが、戦闘中も補い続けられる。
そのため、戦い続けられる時間は三倍にまで延びるのだ。
さらに、木霊の力によって、青蔓や松葉といった精霊も強化される。
ラインの脳裏に、関連する知識が次々と浮かんだ。
「木傀の煉成経路は、この世で最も贅沢なものの一つだ。
三環の木傀を百年寿の精霊と煉成すれば、四環の百年木傀になる。
さらに千年寿の精霊と煉成すれば、五環の千年木傀へ進める。
この秘方は広く知られ、ほとんど誰もが知っている。だが、実際に使った者はごく少ない。
寿の精霊が、あまりにも貴重だからだ。普通の精霊使いなら、手に入れ次第、自分の寿命を延ばすために使うだろう。
寿命の尽きかけた聖使が、六環の聖霊を差し出して、一体の寿の精霊と交換した例さえある」
この世界では、病にも災難にも遭わずに生きたとしても、人の寿命は八十年が限界だった。
だが、寿の精霊なら、その限界を超えることができる。
百年寿の精霊は、寿命を百年延ばす。
千年寿の精霊なら、さらに千年を生きられる。
極めて希少であり、誰もが欲しがる精霊だった。
ラインが前世で五百年以上生きられたのも、五体の百年寿の精霊を使い、寿命を合計五百年延ばしたためである。
元の八十年を合わせれば、五百八十歳まで生きられたはずだった。
だが、寿命が尽きる前に正道の者たちに包囲され、逆矢を使わざるを得なかった。
寿の精霊がもたらすのは、「不老」である。
長く生きられるようになっても、「不死」になれるわけではない。
ラインが求めるのは、真の「永生」だった。
「木傀は強力だが、欠点もはっきりしている。一度に長く使い続けることはできない。力が体を侵食し、筋肉を木質化させ、最後には自我を失ったトレントへ変えてしまう。前世のアオも、そうして死んだ」
そこまで考え、ラインの瞳に微かな光が閃いた。
強い精霊ほど、深刻な欠点を伴うことが多い。
他の精霊と組み合わせて使わなければ、その力が持ち主自身を傷つけることもある。
例えば、グリムの屍人鎧は、新しい血液を生み出す赤髄と組み合わせるのが望ましい。
血を補わずに使いすぎれば、体内の血液は減り続け、最後には本物の屍人と化してしまう。
バルガスチームは戻っていった。
エリアスに勝ち、アオには敗れた。
それでも、彼らには多くの拍手と称賛が送られた。
「リリア・ローデン、この日をずっと待っていたぞ!」
「リネット先輩、お手合わせをお願いします!」
バルガスチームに続いて、会場は一気に活気づいた。
多くの精霊使いが進み出て、強敵と見なす相手に挑み、自らの武勇を示していく。
会談の丘は熱気と喧騒に包まれ、見応えのある手合わせが次々と繰り広げられた。
決闘大会は、ようやく本番を迎えたのだった。




