117.雪に染まる集落、天地を独り行く
「何の用だ?」
ラインはクルを見た。
冬だというのに、クルは相変わらず上半身を露わにしている。
赤い肌からは熱気が立ち上り、隣に立つだけで、暖炉のそばにいるようだった。
肩に落ちた雪も、たちまち溶けてしまう。
その体内には、爆炎心が宿っていた。
二環の精霊だが、厄介な性質を持ち、錬化した瞬間、持ち主の心臓に取りついて離れなくなる。
錬化すると決める前に、生涯を共にする覚悟が必要なのだ。
それだけに、二環精霊の中でも能力は際立っていた。
平時には周囲の熱を吸収し続け、戦闘時には、八百度を超える炎を一瞬で放つことができる。
寒さを防ぐのは、あくまで副次的な効果にすぎない。
クルは複雑な眼差しでラインを見つめ、低い声で尋ねた。
「このところ、ロア一族のバルガス・ロアがお前に力比べを挑もうとしている。知っているか?」
「知っている」
ラインは頷いた。
クルは深く息を吐いた。
「これは、ただの勝負じゃない。
三家の同盟で、利益をどう分けるかに関わっている。
ウルフウェーブは目前だ。三家が手を組まなければ、滅びるしかない。
だが、同盟を結んだ後の取り分となると、話は簡単にはまとまらない。
ここ数日、三家の交渉はずっと行き詰まっている」
ラインはクルを一瞥し、わざわざ声をかけてきた理由を悟った。
利益の絡む交渉ほど、難しいものはない。
三家とも一歩も譲ろうとせず、僅かな取り分まで争い、交渉の席はすでに戦場と化していた。
この世界で重んじられるのは、第一に力、次に血縁の情である。
ヴェルデン山の三大家族は、それぞれ別の一族だ。
長年の衝突で恨みも積もっており、身内の情で折り合いをつけることはできない。
行き詰まりを破るには、力に訴えるしかなかった。
地球では、軍事演習によって自国の実力を示すことがある。
この世界にも、それに似た手段があった。
手合わせや勝負を通じて優位を示し、より大きな利益を勝ち取るのである。
バルガス・ロアがライン・ローデンに挑もうとしているのも、そのためだった。
やはり、クルはこう続けた。
「私はバルガスと戦ったことがある。
あいつは月輪クマの精霊を持っていて、熊一頭の力が、すでにその体に永久に刻み込まれている。
さらに豪熊紋を使えば、短い間だけ、もう一頭分の熊の力が加わる。
その二つを合わせられては、私など到底かなわない。
認めたくはないが、ヴェルデン山一の力士という名に、偽りはない」
少し間を置き、クルは続けた。
「力だけを比べれば、お前と私に大きな差はない。
だから、お前もあいつには勝てない。だが、負けることも許されないんだ。
お前は水禍蟇を押して目覚めさせ、ヴェルデン山を救った英雄だ。
お前が負ければ、ローデン一族の利益まで損なわれる。
だから、一族を第一に考えてほしい。
個人の名誉は捨てて、勝負を避けてくれ」
ラインは何も言わず、ただ静かにクルを見ていた。
クルは目を伏せた。
「お前にとって、辛い話なのは分かっている。
戦いを避ければ、勇名は地に落ちるだろう。
だが、一族の利益のほうが大事だ。
お前が負ければ、交渉でもっと譲歩を迫られるかもしれない。
私たちは一族に育ててもらった。なら、一族に尽くすのも当然だろう。
今、一族がお前を必要としているんだ。
個人の名誉を少し犠牲にするくらい、当たり前のことじゃないか。
とはいえ、もとは私が引き起こしたことだ。
私個人から、多少の埋め合わせはさせてもらう。
気持ちだけだが、受け取ってくれ」
そう言って、クルは大きな革袋を差し出した。
ラインは受け取り、軽く重さを量ると、鼻で笑った。
「なるほど。私の名誉は、霊石二百個分というわけか」
皮肉を聞き取ったクルの目に鋭い光が走り、顔つきが一気に厳しくなった。
「ライン、不満を抱くな!
穏やかに話してはいたが、私は任務でここに来ている。
勝負を避けろというのは、一族上層部からの密命だ。
お前に拒む余地はない。よく心得ておけ」
言い終えると、クルは背を向けた。
雪の上に深い足跡を残し、歩き去っていく。
その背を見送りながら、ラインの目に理解の色が浮かんだ。
(より多くの利益を得るため、一族は私が水禍蟇を追い払ったことを、すでに交渉の切り札にしているのだろう。
あの水禍蟇が居座っていれば、ヴェルデン山全体が危険にさらされる。ロア一族は、その切り札を潰すため、裏でバルガスをけしかけたわけだ。
一族にとって、私はただの駒だ。バルガスも、クルも同じこと……それなのに、自ら進んで他人の言いなりになり、誇りにすら思っている者がいる。
すべて自分の務めだと信じ込んでいるのだから、実に滑稽だ。
もっとも、私は初めからバルガス・ロアと勝負するつもりなどなかった。名誉といっても、他人からの称賛にすぎない。古今東西、どれほどの英雄豪傑が、その鎖につながれてきたことか。
だが私には、捨てても惜しむ理由などない……
ふっ、クルには礼を言うべきか。霊石二百個を、ただで届けてくれたのだからな)
ラインは心の中で冷笑した。
バルガス・ロアがラインに挑むのは、集落を救ったという名声があるからだ。
クルがバルガス・ロアに挑むのは、ヴェルデン山一の力士という名を欲しているからだ。
名声とは、虚栄心を満たすためにぶら下げられた餌にすぎない。
その餌に釣られ、縛られ、生涯そこから抜け出せない者が、どれほどいることか。
哀れなものだ。
実に、哀れなものだ。
雪は、なおも静かに降り続いていた。
ローデンの集落は白雪の中に佇み、人々は衣をかき合わせ、足早に通り過ぎていく。
「滑稽なことだ。こんな幻に、誰も彼も縛られている」
ラインは目を伏せた。
漆黒の瞳が、睫毛の下へ半ば隠れる。
雪に反射した光が顔を照らし、少年の面差しを、冷たく青白く浮かび上がらせていた。
頭に雪が舞い降りる中、ラインは低い声で吟じた。
「白雪の 天地をゆく 影ひとつ 行くも帰るも 心のままに」
吟じ終えると、再び歩き始めた。
行き交う人々の中を、ラインは一人で進んでいく。
一族の者も、白雪も、集落も。
今この瞬間、彼にとっては、ただ曖昧な背景にすぎなかった。
ほどなく、住まいへ戻った。
竹造りの家も酒場も、すでに売り払っている。
今の住まいは簡素な借家だったが、ラインは何も求めなかった。
身を置く場所があれば、それで十分だ。
ラインは寝台の上にあぐらをかき、修練を始めた。
精霊使いが二環から三環へ、大きな環階の壁を越えるには、天賦の資質と才覚が要る。
しかし、中位から上位へ進むような、同じ環階の中での突破に求められるのは、忍耐と根気だった。
十分な時間をかけ、空界の壁を養い続ければ、少しずつ上へ進んでいける。
資質の良し悪しは、そのために必要な時間の長さを左右するのだ。
夕方になると、約束どおりキバが訪ねてきた。
「ライン様、こちらが今回分の霊石です。どうぞお確かめください」
キバは部屋へ入り、恭しく五つの革袋を差し出した。
どの袋にも霊石が詰まっており、その総数は四百個を大きく超えていた。
ウルフウェーブが近づくにつれ、精霊使いたちの生気草への需要も増している。
ラインの売値も、それに伴って上がっていた。
生気草を九枚渡すと、ラインは何気なく尋ねた。
「前に買い付けを頼んだものは、揃ったか?」
キバは申し訳なさそうに首を横に振った。
「ライン様、あいにく時期が悪うございます。
ウルフウェーブを前に、一族が物資の統制を始めております。
ほかの品は何とかなりますが、巨鱗魚は、ヒスイズスキンに僅かに劣る程度の価値がある精霊です。
私なりに手を尽くしたのですが、今すぐ手に入れるのは、難しそうです」
ラインは眉をひそめた。
巨鱗魚は一環精霊であり、使い手の体に魚の鱗を生やして、身を守ることができる。
だが、ラインが買おうとしているのは、薄影虫と共に煉成し、隠鱗虫を得るためだった。
巨鱗魚がなければ、煉成は始められない。
「物資が統制されているからといって、手に入れる道が完全に閉ざされたわけではない。
結局、キバの力が足りないということだ。
隠鱗虫の煉成も、しばらく先送りするしかないか」
ラインは内心でため息をついたが、落胆はしなかった。
人生は、十のうち八つ九つが思いどおりにいかないものだ。
それこそが常であり、「順風満帆」など、ただの美しい願いにすぎない。
「巨鱗魚を多く産するのは、ベル一族だ。
うちにもあるが、数が少ない。
三家が正式に同盟を結ぶまで、待つしかなさそうだ」
ラインは焦らなかった。
三家が正式に手を結べば、功績順位表が設けられ、精霊使いたちに積極的な狼狩りが奨励される。
そのときには、戦功を使って三家の物資と交換できるのだ。
もちろん、ローデン一族の月印、ロア一族の熊力指、ベル一族の白水環は、交換の対象にならない。
いずれも、各家が誇る秘伝の精霊である。
だが、巨鱗魚は必ずその中に入るはずだった。
危機には、機会も伴う。
精霊使いにとって、ウルフウェーブは厳しい試練であると同時に、身を起こす好機でもあった。
長年名を馳せた者が次々と命を落とす一方、それを機に名を上げる者も数多く現れる。
一族の既存勢力が衰え、新たな派閥が台頭し、政治の舞台へ上がることもあるのだ。
夜には、思いがけない客が訪ねてきた。
アオとライルだった。
アオは単刀直入に話を切り出し、以前と同じく、ラインの酒虫を買い取りたいと言った。
今回は黒イノシシの精霊も、さらには九葉生気草まで譲り受けたいらしい。
九葉生気草を売るつもりは、毛頭なかった。
酒虫も、すでに四味酒虫へ煉成している。
売る気があったところで、元の酒虫はもう手元にない。
ラインは、その二つを断った。
ただ、黒イノシシの精霊なら、交渉の余地はある。
「すでに、もう一頭分のイノシシの力を得た。
黒イノシシの精霊は、私にとって、さほど価値がなくなっている。
最も有望な煉成先は、鎧毛だ。
攻守に優れてはいるが、シロタマズスキンのある私には、それほど必要ない。
それなら、巨鱗魚と交換したほうがいい」
そう考え、ラインは交換を持ちかけた。
「巨鱗魚か?」
アオは僅かに眉をひそめたが、すぐに頷いた。
「なるほど。君には防御精霊が足りないからな。
巨鱗魚は、二環の鎧鱗へ煉成できる。
防御力も悪くない」
巨鱗魚と薄影虫を合わせ、隠鱗虫へ煉成するのは、なかなか優れた秘方だった。
しかし、ラインの前世の記憶によれば、それが偶然発見されるのは、今から二百年も後のことだ。
アオが知らないのも、当然である。
ラインは訂正せず、ただ条件を告げた。
「黒イノシシの精霊は、巨鱗魚よりずっと高い。
交換するなら、差額は払ってもらう」
「もちろんだ」
アオは頷き、再び尋ねた。
「九葉生気草の件は分かった。
だが、酒虫まで本当に手放さないのか?
もう君の役には立たないだろう。
養い続ければ、無駄に霊石を費やすだけだ」
ラインは首を横に振った。
「酒虫の話は、もういい。あれは非売品だ」
アオは鼻に手をやり、困ったように笑った。
「ライン、この話は、君が思っているより複雑なんだ。
クスリ・ローデンは知っているだろう?薬堂長老メディシン様の孫娘だ。今年学堂へ入った新入生で、中等の資質を持っている。メディシン様は、その孫娘をたいそう可愛がっておられる。
先日も樹屋で酒虫に入札したが、惜しくも買い逃してしまった。
君も酒虫を使っていたから、その恩恵は誰よりよく知っているはずだ。
私から説明するまでもないだろう。メディシン様は、その精霊を孫のために買いたいとお考えだ。可愛い孫を思うお気持ちは、誰にでも分かる。
それで私に、君との仲介を頼まれたんだ。買い取りたいというお気持ちは本物だし、提示された金額もかなり高い。
それに、君がウルフウェーブで負傷した場合、薬堂を挙げて手当てするとまで約束してくださっている」
「ライン、もう一度、よく考えてみてはどうだろう」




