116.初雪に狼影、阻まれる継承
洗面器ほどの大きさをした月刃が、続けざまに三枚飛んだ。
青い光が、空中に幾筋もの軌跡を描く。
瞬く間に、十六、七匹の宝石猿が斬り殺された。
ラインを追っていた群れは、一気に半分近くを失った。
ラインはその場から動かず、退く気配も見せない。
再び右手を上げ、三度、空を切った。
さらに三枚の月刃が、真っすぐ猿の群れへ突き刺さる。
青い光が通り抜けるたび、宝石猿が次々と倒れた。
死骸は地面へ落ち、石の破片となって砕け散る。
眼球から変じた玉珠も転がり出て、赤い地面の上で跳ねていた。
空界を確かめると、深紅色の精神力はまだ半分以上残っている。
月華印で月刃を一枚放つには、初位の淡紅色の精神力で、空界の一割に相当する量が必要だ。
二環初位なら、連続して放てるのは四枚まで。
中位では八枚、上位ならさらに倍の十六枚になる。
ラインは、まだ二環上位へ進んでいない。
それでも、四味酒虫によって、上位の深紅色の精神力を精錬できる。
いわば、上位へ半歩踏み込んだ状態だった。
戦闘力も、それに伴って大きく伸びている。
以前なら、七、八十匹の宝石猿に追われると、戦いながら退くしかなかった。
今は月刃だけで、その大半を短時間のうちに殲滅できる。
十数匹まで減れば、残った猿たちもたいていは逃げ出した。
(わずか二日で、三本の石柱に棲む群れを片づけた。
以前の何倍もの速さだ。
この調子なら、あと一か月半で、石林の中央まで再び道を開けるだろう)
ラインは、胸の内で算段をつけていた。
(酒飲のカイのやり方からすれば、中央の地洞が次の関門になるはずだ。
その手前には、地蔵花が植えられている可能性も高い。
ただ、ここまで来れば、この力の継承も終わりに近いだろうな)
最初に壁へ映し出された光景を思い出す。
酒飲のカイは全身を血に染め、今にも息絶えそうだった。
重傷を負ったまま、慌ただしくこの継承を用意したのだろう。
前世の経験と照らし合わせても、残る関門は、多くて一つか二つと見てよかった。
カイに残された時間は短すぎた。
できることにも、限りがあったはずだ。
もっとも、こうした継承は例外である。
通常、精霊使いは何年も、時には何十年も費やして、継承の仕組みを考え、入念に整えていく。
規模の大きなものもあれば、十数年に一度しか開かないものもある。
一か所に留まらず、遥かに離れた各地へ関門を分散させるものさえあった。
後から継承を求める者は、十数年、あるいは数十年をかけ、各地を巡りながら一つずつ試練を越えなければならない。
一生を費やしても探索しきれず、志半ばの仕事を後の世代へ託すこともある。
(酒飲のカイが残したのは、ごく小規模な継承だ。
手に入る物は少ないが、関門の大半は地形を生かしたもので、比較的易しい。
これまでに、白イノシシの精霊、ヒスイズスキン、酒虫を得た。
薄影虫も、継承の収穫に数えていいだろう。
後は、地蔵花が一つか二つ残っている程度か。
中に、偵察か移動を助ける精霊が眠っていればよいのだが)
秋はいぬ 風に木の葉は 散りはてて
山さびしかる 冬は来にけり
初冬、最初の雪が降った。
空は暗く曇り、雪片が絶え間なく舞い落ちて、ヴェルデン山を覆っていく。
ラインは一人、雪の中を歩いていた。
岩の裂け目の秘洞を出て、集落へ戻る途中である。
「もう二か月余りか。それなのに、石林の探索は思うように進んでいない」
その目元には、暗い影が差していた。
努力を怠ったわけではない。
ウルフウェーブの前触れが、すでに山中へ現れ始めていたのだ。
冬に入ると、山林の食べ物は日ごとに減っていく。
数を増やし続けていた狼たちは、腹を満たすため、広い範囲で獲物を狩り始めた。
狼の巣の周辺では、ほかの獣の群れが次々と一掃され、山林全体が混乱へ陥っていく。
小規模なビーストウェーブが頻発していた。
棄狼が集まった、ごく小さなウルフウェーブも、各地を渡り歩くようになっている。
棄狼とは、巣の群れから追い出された、老いた狼や、弱り、病み、傷ついた狼たちだった。
生き延びるために群れを作り、集落の周囲にも頻繁に現れていた。
まだ集落を直接襲うほどではない。
それでも、凡人の狩人たちは、もはや山へ入れなくなっていた。
近隣の村でも、住民が狼にさらわれ、命を落とすことがある。
ローデン集落は、多くの精霊使いを山へ送り、討伐を進めていた。
行き交う者が増え、その中には偵察に長けた精霊使いも少なくない。
ラインは秘洞へ通う回数を大幅に減らさざるを得ず、石林での歩みも遅くなっていた。
寒風が唸り、吹きつける勢いを増していく。
雪も次第に激しくなった。
吹雪の向こうから、低い獣の唸り声が届いた。
ラインは、ぴたりと足を止めた。
警戒しながら周囲へ目を向ける。
ほどなく、二十頭余りの雷狼が視界に入ってきた。
「またか……」
低く呟いた。
今月、棄狼の群れと出くわすのは、これで八度目だった。
だが、今回はいつもと違う。
「集落のこんな近くにまで、群れが来ているのか。
これからは、一族が討伐に出る回数も増えるだろう。
秘洞もこの近くだ。しばらく、あそこへは行けなくなりそうだな」
そう考えると、胸の内が重くなった。
道を行くのは難しい。
この世には、人の歩みをしばし留める風雪がある。
狼たちは素早く散らばり、ラインを中央に取り囲んだ。
グルルルッ!
低く唸りながら、次々と飛びかかってくる。
「月華印」
ラインは念を動かし、手を振って月刃を放った。
青い光が吹雪を切り裂き、続けざまに三頭の棄狼を斬り殺す。
四頭目は、とっさに地面を転がり、際どいところで月刃をかわした。
脚のないもの、片目を失ったもの、尾の欠けたもの。
棄狼の大半は、どこかしら体を損なっていた。
だが、戦いの経験は豊富で、どれも狡猾である。
普通の二環中位の精霊使いなら、この群れに囲まれるだけで命に関わっただろう。
ラインは、少しも慌てなかった。
前世で積み重ねた戦闘経験と、四味酒虫が精錬した深紅色の精神力。
その二つが、彼を支えていた。
殺す…
群れの攻撃をかわして立ち位置を変え、冷静に、ためらいなく手を下す。
棄狼が一頭、また一頭と倒れ、ほどなく群れの数は半分にまで減った。
アオォ――!
棄狼頭狼が、甲高い遠吠えを放った。
残った狼たちはすぐに攻撃を止め、退き始める。
これも、棄狼の狡猾さだった。
ラインには歯が立たないと悟るや、狩りを諦め、未練もなく引き上げたのだ。
老い、病み、傷を負っていても、今日まで生き延びてきた狼たちである。
それぞれに、生き残る術を身につけていた。
ラインはその場に立ち、狼たちが吹雪の中へ消えるのを見送った。
追うつもりはない。
危険は去ったのだから、これ以上、自分の力を晒す必要もなかった。
群れが完全に遠ざかったことを確かめてから、腰を下ろし、死骸から戦利品を取り始めた。
狼の皮も、牙も、霊石に換えられる。
一つずつでは大した値はつかないが、数が揃えば、それなりの金になる。
この一、二か月、棄狼を狩って得た戦利品は、ちょっとした収入になっていた。
雪の上に流れた狼の血には、まだ温もりが残っている。
倒れた棄狼の中には、息のあるものもいた。
その目には、微かな光が残っていた。
「天地の間にあるものは、すべて生きようとし、抗っている。
人も、その一つにすぎない。
この天地は、生と死によって物語を織りなす、大きな舞台なのだ」
ラインはそう思いながら、手を緩めることなく、瀕死の棄狼へとどめを刺した。
棄狼一頭の戦闘力は、宝石猿二匹を合わせたものより高い。
互いに連携すれば、群れとしての戦闘力はさらに倍にもなる。
ラインは、少なからぬ圧力を感じていた。
「こうした小さな棄狼の群れなら、まだ楽に対処できる。
だが、大きな群れや、健康な雷狼ばかりの小さな群れが相手なら、そうはいかない。
ウルフウェーブが本格的に始まれば、一族全体が動員される。
私も無関係ではいられない。
野外で一人、雷狼を狩るつもりなら、偵察か移動を助ける精霊が必要だ。
それがなければ、私でさえ、このウルフウェーブで命を落としかねない」
経験を積んでいるからこそ、自分の不足もはっきりと分かる。
四味酒虫によって、戦闘力は大きく伸びた。
月華印で攻め、シロタマズスキンで守る。
前世の経験も合わせれば、アオ、クル、リリアたちとも渡り合えるようになっていた。
今のラインは、どうにか一族の二環精霊使いの中で、一流に数えられる。
どうにか、と言わざるを得ないのには、理由があった。
環階はまだ上位に届いておらず、資質も下等で、蓄えられる精神力の総量に限りがある。
現段階で手の届く限界まで、戦闘力は引き上げていた。
しかし、ウルフウェーブを生き延びるには、戦闘力だけでは足りない。
「偵察精霊があれば、群れの接近を早く察し、迂回して避けられる。
移動を助ける精霊があれば、走る速度を上げて包囲を抜け、追手を振り切ることもできる」
どちらか一つでも手に入れば、生き残れる可能性は大きく高まる。
両方揃えば、狼の群れにも、もっと余裕を持って対処できるだろう。
「酒飲のカイの継承に、そうした精霊が残っていればよいのだが……なくても、手はある」
ラインは考えを巡らせながら、手際よく戦利品をまとめていた。
「前世の記憶では、ウルフウェーブのたびに、三族が共同で功績順位表を設け、蓄えていた精霊を売りに出していた。
普段は手に入らない珍しい精霊も、少なくなかった。
そのときなら、戦功でベル一族やロア一族の精霊を手に入れることさえできる」
戦利品を袋に収め、背負うと、ラインは立ち上がって歩き出した。
降り続く雪が、少しずつ狼の死骸を覆っていく。
雪の上へ流れた血も、ゆっくりと凍り始めていた。
「見ろ、ラインが帰ってきたぞ」
「また袋を背負っている。棄狼を狩りに出ていたのか?」
「あいつが、俺たちの集落を救った奴なのか?」
「ふん、運がよかっただけだろ。どうやって追い払ったかは、皆知っている。
俺にもあれだけの力があれば、同じことはできる。何が偉いんだ」
集落へ入ったラインへ、道行く人々が次々と目を向けた。
感心する者も、興味を示す者も、嫉妬を抱く者もいる。
「ライン!」
曲がり角から、ふいにクルが姿を現した。
その声が、ラインの足を止めた。




