113.不心得な若者、鍛え直すべし
「ライン・ローデン?」
その名を聞き、長老たちは顔を見合わせた。
覚醒の儀以来、何かと騒ぎを起こしては、その名が耳に入ってくる少年だ。
彼を知らぬ者はいなかった。
「ああ、思い出した。少し前に両親の遺産を売り払い、赤鉄仏舎利を買った小僧だな?」
一人の長老が、得心したように言った。
その言葉に、カルとコアの顔が曇った。
あの赤鉄仏舎利がクルかリリアの手に渡っていれば、どちらかが二環頂位へ進んでいた。
環階では、アオと肩を並べることになる。
カル派閥にとっても、コア派閥にとっても、それは政治的な勝利となるはずだった。
まさか、あの散財好きの小僧に、横からさらわれるとは。
大事な好機を、台無しにされてしまった。
「だが、あの子に並外れた力があるのは確かだ」
別の長老が、記憶を辿るように言った。
「年末の試験では、拳を二度振るっただけでヒスイズスキンの防御を破った。
ライルを倒し、今年の首位を取ったのだったな」
今度は、族長ハクの表情がわずかに強張った。
ライルは、彼が自ら育てている弟子である。
その敗北は、ある意味で族長派の敗北でもあった。
体制の中にいる限り、誰もがいずれかの陣営に属する者として見られる。
政治の世界には中間派があっても、真に派閥の外へ立つ者はいない。
「だが、力だけなら、まだお前には及ばぬのではないか?」
カルが、訝しげにクルを見た。
クルは恭しく答えた。
「長老の皆様は、ご存じないかもしれません。
ラインは赤鉄仏舎利だけでなく、黒イノシシの精霊も買っています。
この数か月、イノシシの肉を買い続け、精霊を養って力を増やしていました。
一度、山の斜面で巨石を動かし、自分の力を試しているところを見かけたのです。
どこまで力が増したのか、正確には分かりません。
ですが、そのとき見た限りでも、すでに私に劣らぬ力を持っていると断言できます」
「なるほど」
ハクは、ゆっくりと頷いた。
「ラインも、そこまで成長していたか……ならば、ラインのチームに、もう一度試させよう」
すると、内務院長老が気まずそうな顔をして、席を立った。
「族長様、ラインは今も一人で行動しており、どのチームにも属しておりません」
ハクは、眉を寄せた。
「どういうことだ?」
「最初の小規模ビーストウェーブで、所属していたチームがほぼ全滅しました。
生き残ったのは、ライン一人です」
「それは分かっている」
一人の長老が、問いかけた。
「だが、その後、チームを再編したとき、なぜ組み入れなかった?」
内務院長老は、深いため息をついた。
「私からも、わざわざ念を押したのです。
ですが、本人に加入する気がまったくありません。
正直に申し上げれば、私はあの小僧が気に入りません。
要領よく手を抜くことにかけては、実に巧みです。
遺産を相続したことで、一族のために働く必要はないとでも思っているのでしょう」
「手を抜く?」
別の長老が、首を傾げた。
「チームにも入らず、毎月義務づけられている任務を、どうこなしているのだ?」
内務院長老の顔が、ますます険しくなった。
「毎月、義務づけられた任務は受けています。
ですが、そのたびに失敗しているのです。
任務の履歴は、私が見た中でも最悪です。
ごく一部を除けば、ほとんどすべてが失敗の記録です。
そのことで何度も話をしましたが、相変わらず好き勝手に振る舞っています。
改める気配すらありません。
それでいて、族規には違反していない。処罰することもできぬのです!」
長老たちは、また顔を見合わせた。
これほど向上心のない若者など、見たことがなかった。
任務の失敗が重なるほど、一族からの評価は下がる。
族内での将来も、それだけ遠のいていくというのに。
「あの小僧、何を考えているのだ……ふん、まったく、不心得にもほどがある!
自分で将来を潰しているではないか!
こんな怠け者が身内にいたら、とうに一撃で叩き殺している!」
「もうよい」
ハクが手を上げ、議論を止めた。
その顔からは、喜怒のどちらも読み取れなかった。
一同を見渡したあと、内務院長老へ目を向ける。
「ライン・ローデンに強制命令を下せ。
水禍蟇のいる河道へ赴き、力を尽くすようにとな。
この子は不心得で、言うことを聞かず、勝手気ままに振る舞ってきた。
少々、鍛え直す必要がある。
今回も失敗したなら、それを機に少し懲らしめてやればよい」
「承知いたしました、族長」
内務院長老は、すぐさま応じた。
……
酒場は、大勢の声で賑わっていた。
「聞いたか?一族がクル組を山麓へ送ったが、やはり駄目だったらしい。
村人たちは皆、門の外へ逃げてきたぞ。
そこら中に跪いて、泣きながら中へ入れてくれと頼んでいる」
「ふん、何も知らぬ賤民どもめ。水禍蟇は五環精霊だぞ。
集落に入れば安全だと、本気で思っているのか?」
そう言いながらも、酒場の空気は次第に不安を深めていた。
精霊使いたちも、平静を装っているだけなのだ。
ラインは、もうしばらく話に耳を傾けた。
新しい情報はないと分かり、席を立とうとする。
そのとき、大柄な精霊使いが酒場へ入ってきた。
上半身は裸で、肌は燃えるように赤い。
肩も背も広く、全身の筋肉は鉄塊のように盛り上がっていた。
クル・ローデンである。
酒場の声が、たちまち小さくなった。
幾つもの視線が、彼へ集まる。
クルは誰にも構わず、店内を見渡した。
すぐにラインを見つけ、その前へまっすぐ歩み寄る。
「ここにいたか……来い。一族から強制命令が出た。
詳しいことは道中で話す。まずは、山麓まで同行してくれ」
ラインの目が、かすかに動いた。
この種の命令は、簡単には断れない。
それに、水禍蟇と向き合うこと自体、大した危険はなかった。
ラインは頷き、クルと共に酒場を出た。
二人が見えなくなると、店内は再び騒がしくなった。
「番頭、天はちゃんと見ていたんですね!こんなに早く、罰が当たるとは!」
店の隅では、数人の奉公人が老番頭を囲み、声を潜めて話していた。
「相手は五環精霊でしょう?
ほかの精霊使い様にも手が出ないのに、あんな若いラインが行ったところで、死にに行くようなものですよ」
「ほかの精霊使いとは違って、俺たち下働きの苦労も分かってくれると思っていたのに……結局、同じだったんだ。
死んじまえばいい。死んでも惜しくはないさ!」
「番頭、殴られた甲斐がありましたね。あいつの命と引き換えなら、安いものです」
老番頭の頭には、白い包帯が巻かれていた。
壁に力なくもたれ、ときおり低く呻いている。
その言葉を聞くうち、目の奥に怨念が宿った。
気分も、少しだけ晴れた。
それでも、しばらくすると、体裁を繕うように声を落として叱った。
「黙れ!そんなことを、俺たちが口にしてよいと思っているのか?
ほかの精霊使いに聞かれたら、首が飛ぶぞ!」
奉公人たちは、くすくす笑った。
「番頭は、慎重すぎますよ。
酒場はこんなに騒がしいし、俺たちの声はこんなに小さいんです。
誰が聞いているっていうんですか?」
「俺には聞こえたぞ」
最も近い卓に座っていた男の精霊使いが、不意に口を挟んだ。
老番頭も、奉公人たちも、瞬く間に青ざめた。
「だ、旦那様……」
老番頭は、眩暈も忘れて立ち上がろうとした。
どうにか身を起こし、慌てて許しを請いに行く。
男は、片手を上げて止めた。
「いいことを言うじゃないか。もっと聞かせろ!
ラインのクソガキなんぞ、死んで当然だ!
続けろ。うまく言えたら、褒美をやる!」
男は霊石を一個取り出し、パシン、と卓上へ叩きつけた。
ラインがここにいれば、すぐに正体が分かっただろう。
かつて小規模ビーストウェーブで救援に来た、治療精霊使いだった。
ラインは、彼が想いを寄せるエリナを盾にして、雷狼の牙を防いだ。
それ以来、男はラインを深く憎んでいた。
今も、その恨みを捨てられずにいる。
奉公人たちは、顔を見合わせた。
そのうち、比較的胆の据わった一人が、卓上の霊石を見つめた。
目が、次第に輝いていく。
男の三人の仲間は、皆、眉をひそめていた。
だが、人前では止めにくかった。
奉公人たちは、我先にと知恵を絞り、ラインへの罵声を並べ立てる。
三人は、それを聞いているしかなかった。
……
初秋の山々は、美しい景色を見せていた。
木々の葉には濃淡があり、緑の中に淡い黄色が混じっている。
黄色い葉の間には、薄紅色もちらほら覗いた。
山麓では、黄金色の稲穂が秋風に揺れていた。
波が幾重にも寄せるように、田一面をうねっていく。
近くの畑は、なお青々としていた。
肉厚でみずみずしい葉が、陽光を受けて艶やかに光っている。
ラインは、山腹から足早に下った。
クル組と共に山麓へ着き、ようやく五環の水禍蟇を目にした。
小山のような巨体が、河床の中央で仰向けになっている。
河道は、ほとんど塞がれていた。
上流には水が溜まり続け、もう少しで岸を越えそうになっていた。
下流では、ほぼ流れが途絶えている。
ごく浅い水が、かろうじて河床を潤しているだけだった。
空を向いた腹は、雪のように白く、きめ細かい。
表面には、柔らかな光沢が浮かんでいた。
背は、晴れた空のように青い。
こちらも滑らかで、普通のヒキガエルにあるようなイボはなかった。
水禍蟇は、静かに眠っていた。
いびきもかかず、余計な動きもしない。
温和で、害などないように見える。
だが、その気配を感じた途端、ラインの空界にいる二体の酒虫は、身を縮めた。
黒イノシシの精霊も、楽しげに飛び回るのをやめた。
霊海のすぐ上を、低く旋回している。
右の掌に宿る月華印も、光を抑えていた。
ただ一体、逆矢だけは、変わらず安らかに眠っている。
ラインは、月華印も空界へ収めた。
自ら発動させず、空界の中へ置いておけば、精霊の気配は外へ漏れない。
その方が、最も確実だった。
「ライン、あとは、お前次第だ」
傍らに立つクルが、低い声で言った。
ここへ来る間に、大方の事情は説明されていた。
ラインも、この追い払い方には納得している。
もっとも、彼にとって最も簡単なのは、逆矢を使うことだった。
六環精霊の気配をほんのわずかに漏らせば、水禍蟇は慌てて逃げ出す可能性が高い。
だが、それも水禍蟇が温和で、争いを好まないからこそだ。
血河大蛇のような凶暴な精霊なら、逆矢の気配がかえって凶性を刺激し、襲いかかってくるかもしれない。
ラインは川岸へ歩み寄り、まずは手を伸ばして押してみた。
水禍蟇の肌は、ぬるりと滑る。
掌を押し当てても滑ってしまい、うまく力をかけられなかった。
そのうえ、巨体は途方もなく重い。
いくら力を込めても、少しも動かなかった。
「お前、本当にできるのか?」
傍らのメルが、堪えきれずに嫌味を言った。
ラインは無視し、クルへ顔を向けた。
「黒イノシシの精霊で力を増やしたとはいえ、あなたと比べれば、互角といったところだろう。
だが、水禍蟇を動かす望みがないわけではない。
少しだけ、手を貸してほしい」
「何をすればいい?」
クルは、すぐに尋ねた。
ラインは、自分の考えた方法を、ゆっくり説明した。
聞き終えると、クルの顔に疑念が浮かんだ。
「それでは、結局、私たちが力を合わせることになるのではないか?
それで目を覚ましても、お前に負けたと認めて、進んで立ち去ってくれるのか?」
ラインは、かすかに笑った。
「心配はいらない。十分に離れて、気づかれなければ問題ない。
相手は精霊だ。そこまで利口だと思わなくていい」
本業では日頃から大量の文章と向き合っているせいか、ネット小説を書いていても、どうしてもその癖が出てしまうようです。
趣味で書いているはずなのに、文章のあちこちから本業の匂いが漂ってくるのは、なかなか困ったものですね(笑)。
今後は皆さんからいただいたご意見を参考にしながら、自分なりの書き方も大切にしつつ、少しずつ改善していきたいと思います。
いつも貴重なご意見やご指摘をくださる皆さん、本当にありがとうございます!




