111.川を塞ぐ水禍蟇、苦貝酒の手掛かり
いつもお読みいただき、ありがとうございます!
読者の方からいただいた貴重なご意見を参考に、本文の改行や段落の区切り方を少し見直してみることにしました。本話と明日更新する第112話では、同じ人物が続けて話す台詞をなるべくひとまとまりにし、改行や段落分けを減らしてみます。
読み終えたあと、よろしければ、なろうのリアクション機能で、どちらの形式がお好みか教えていただけるとうれしいです。今回の形式のほうがよければ「好き」を、これまでの形式のほうがよければ「泣いた」を選んでください。
皆さんの反応を参考にしながら、より読みやすい形に調整していきたいと思います。ご協力、よろしくお願いします!
広間には、重苦しい空気が漂っていた。
長老たちはそれぞれの席につき、黙り込んでいる。
冷ややかな顔、陰鬱な顔、険しい顔。
誰一人として、口を開こうとはしなかった。
上座に座る族長ハクも、目に浮かぶ憂慮を隠せずにいた。
「三日前、山の麓にある村の近くで、水禍蟇が姿を現した。
調べたところ、白浪川を遡り、偶然この辺りへ流れ着いたらしい。
今は川の一角を塞いで、眠っている」
ハクは、広間をゆっくりと見渡した。
「放置すれば、集落全体が常に危険にさらされることになる。諸君、あれを追い払う方法はないか?」
長老たちは顔を見合わせたが、すぐに答える者はいなかった。
水禍蟇は、五環の精霊である。
その力は、恐るべきものだった。
ひとたび口から水を吐けば、大河を氾濫させるほどの洪水が起こる。
対処を誤って怒らせれば、ヴェルデン山の大半が水に沈みかねない。
ローデン集落など、跡形もなく押し流されてしまうだろう。
長い沈黙のあと、カルがようやく口を開いた。
「事は重大です。早急に解決しなければなりません。
この話が漏れれば、悪意ある者が密かにやってくる可能性もあります。故意に水禍蟇を怒らせ、我らローデン一族を陥れようとするかもしれません」
「カル長老の言うとおりです」
コアが、僅かに頷いた。
普段は政敵である二人も、一族の存亡がかかった今は、過去の対立を脇へ置いていた。
少し間を置き、コアは続ける。
「さらに、深刻な問題があります
「水禍蟇の吐いた水がヴェルデン山を覆えば、山中の狼の巣も水没するでしょう。生き延びるため、狼群はより高い場所へ移るしかありません。
そうなれば、ウルフウェーブが予定より早く起きます。
我らは狼群を防ぎながら、逃げてきた無数の獣とも、山頂の生存場所を奪い合わねばならないのです」
その言葉に、長老たちの顔から血の気が引いた。
ハクも、重々しい声で付け加える。
「集落の真の基盤も、忘れてはならない
「初代族長がこの地に集落を築いたのは、我らの足元に、この霊泉があったからだ。ヴェルデン山が水没すれば、霊泉も無事では済まないだろう」
広間に、低いざわめきが広がった。
「いったい、どうすれば……
ビーストウェーブをしのぎ、山頂で生き残れたとしても、損失は計り知れないぞ」
「水が引いたあとも、霊泉は失われ、多くの獣が死に、周囲には荒れ地ばかりが残る......修行に必要な資源が、深刻に不足するだろう」
「逃れられぬ以上、三族とも一蓮托生だ。ロア一族とベル一族へ援けを求めてはどうか。あちらとて、黙って見ているわけにはいくまい!」
長老たちは互いに顔を寄せ、声を潜めて相談し始めた。
その表情には、次第に動揺が滲んでいく。
中には、他の二族からどれほどの援軍を呼ぶべきか、考え始めた者もいた。
「援けを求めるのは、まだ早い」
ハクは首を振り、その提案を退けた。
「初代族長が集落を築いた頃、五環の血河大蛇が、この地を襲ったことがある。それでも、初代族長は討ち取ったのだ。
血河大蛇に比べれば、水禍蟇など、まだ可愛げがある。性質は温和で、ただの人間にも危害を加えな。他の精霊の気配を感じたときに、初めて警戒する、重傷を負って初めて、怒り狂い、洪水を吐き出す可能性が生じるのだ。
私が若い頃、先代族長から、偶然その話を聞いたことがある……」
ハクは上座に座ったまま、自分の知ることを一つずつ語っていった。
長老たちは熱心に耳を傾ける。
緊張と動揺は、いつしか少しずつ和らいでいた。
「さすがは族長......」
メディシンは広間の空気が変わったことを敏感に察し、ハクをじっと見つめた。
「わずかな言葉で、揺らいでいた皆の心を落ち着かせてしまった」
ハクの説明が終わると、一人の長老が口を開いた。
「族長のお話どおりであれば、追い払うことも、それほど難しくはなさそうですな」
「軽率に考えてはならない」
ハクは、再び首を振った。
「どれも、あくまで伝聞だ、自ら見たわけでも、試したわけでもない。一族の存亡に関わる以上、僅かな不手際も許されん」
「まずは精霊使いのチームを一つ送り、反応を確かめるべきだろう」
長老たちは、揃って頷いた。
カルは髭を撫で、ゆっくりと口を開く。
「この役目なら、我がカル派閥に、うってつけの者がおります。あの者にできぬようなら、族内にそれ以上の適任者はいないでしょう」
誰のことを指しているのか、皆には分かっていた。
異を唱える者はなく、次々と賛同の声が上がる。
族長ハクは、僅かに笑みを浮かべた。
「では、クル組に行ってもらおう」
……
初秋に入り、気候も少しずつ涼しくなっていた。
酒場の窓際で、ラインは一人、静かに酒を味わっている。
傍らには老番頭が立ち、恭しく頭を下げていた。
「番頭。先日、苦貝酒について調べるよう頼んだが、何か分かったか?」
ラインが四味酒虫を煉成するには、まだ苦味の酒が足りなかった。
だが、苦い酒は、極めて手に入りにくい。
そのうえ、赤鉄仏舎利を手に入れたことで、ずっと注目を浴びていた。
どこへ行っても人々に噂され、あちこちで聞き込みをするには、都合が悪かった。
最近になって、ようやく騒ぎが落ち着いてきた。
運が向いてきたのか、ラインも偶然、苦い酒に関する手掛かりを得ていた。
老番頭は、すぐに答えた。
「はい、ライン様。手掛かりが見つかりました。ベル一族の集落で、その酒を飲んだことのある者がいるそうでございます。
原料は、深い淵に棲む、黒い貝だとか、殻は真っ黒で、白い輪模様が幾重にも入っており木の年輪に似たその貝、苦貝と呼ばれているそうです。
普通の貝は砂粒を取り込むと、真珠を作ることがございます、ところが苦貝は、水中の砂をゆっくり溶かし、ひどく苦い水に変えてしまうのだそうで。
殻を開き、その苦い水を取り出して仕込んだものが、苦貝酒でございます。口に含むと大変苦いのですが、苦味が引いたあとには、独特の香りが残るとか。
なかなか珍しい味わいの酒だそうです」
ラインは、僅かに眉を上げた。
「つまり、ベル一族のところには、確かに苦貝酒があるのだな?」
老番頭は、慌てて腰を折った。
「そこまでは、私にも断言できません。人から聞いただけでございますので。
何と申しましても、ベル一族で最も名高いのは、寒泉酒です。
我らの青竹酒、ロア一族の熊骨古酒と並び、ヴェルデン三酒と呼ばれております」
「苦貝酒となりますと……仮にベル一族のところにあったとしても、そう多くはないのではないかと存じます。どれほど少なくとも、手に入れる方法を考えねばならない」
ラインは、胸の内で呟いた。
とはいえ、苦貝酒を手に入れるのは容易ではなかった。
ここ数年、ベル一族は勢いを増している。
ヴェルデン山で長らく覇権を握っていたローデン一族の地位を、揺るがし始めていた。
両者の関係はますます緊張し、互いに厳しく警戒している。
ラインが勝手にベル一族の集落へ入ろうとすれば、門を見る前に殺されかねない。
巡回中のベル一族の精霊使いから、間者と見なされるだろう。
それでも、試してみたいとは思っていた。
十万里も先にあるヨモギ酒に比べれば、ベル一族の苦貝酒は、すぐ手の届くところにある。
ラインは思案から意識を戻し、老番頭がまだ傍らに立っていることに気づいた。
一向に去ろうとしない。
彼は、軽く手を振った。
「もう下がっていい。用は済んだ」
だが、老番頭は動かなかった。
ためらいが顔に浮かび、何度も口を開きかけては、言葉を飲み込んでいる。
やがて、意を決したように言った。
「ライン様、どうか……この酒場を、買い戻してはいただけませんでしょうか。私も、ほかの奉公人たちも、もう一度あなた様のもとで働きたいのです
ラジェット様がお戻りになってから、給金を半分以上も削られてしまいまして。毎月残る僅かな霊石だけでは、家族を養うこともできません」
ラインは無表情のまま、首を振った。
「この酒場は、すでにあの男へ売った。契約どおり、買い戻すつもりはない。そもそも、もう酒場を経営する気はないのだ。下がれ」
「ですが、若旦那様……」
老番頭は、その場に立ったまま、去ろうとしなかった。
ラインは、不快げに眉を寄せる。
「覚えておけ。私はもう、お前たちの若旦那ではない」
以前、彼らの給金を上げたのは、仕事への意欲を引き出すためだった。
少しでも熱心に、ラインの酒場を切り盛りさせたかっただけである。
それを、彼らは当然受けられる恩恵だと思い込んでいた。
今のラインは、生気草を売り、自分の修行をどうにか維持している。
苦味の酒を探すためにも、多くの手間をかけていた。
なぜ、彼らのために、一度手放した酒場を買い戻さねばならないのか。
「ですが若旦那様、このままでは、私どもは生きていけません!」
老番頭は、その場に膝をつき、必死にすがった。
「どうか、お慈悲を!私どもを、お救いください!」
その騒ぎに、周囲の客たちが目を向ける。
ラインは冷笑し、卓上の壺を無造作に取り上げた。
そして、老番頭の頭へ叩きつけた。
ガシャン!
壺が砕け、酒が四方へ飛び散った。
老番頭は頭から血を流し、よろめいて床へ崩れ落ちる。
「私がお前を殺せないとでも思ったか?」
ラインの目に、冷たい光が満ちた。
「身の程を知らぬ奴め。失せろ」
氷のような殺気に触れ、老番頭の体が激しく震えた。
ようやく、正気に戻ったのだ。
二度とすがろうとはせず、慌てて傷口を押さえ、這うようにその場から退いた。
どこの世界にも、強者が時折差し出す手を、当然のものと思い込む弱者がいる。
強者は自分たちを助けてこそ、強者にふさわしいのだという。
頼みを断れば、冷酷だ、金持ちのくせに情がない、と責め立てる。
弱いままでいることを選ぶのなら、己の立場をわきまえるべきだ。
それが嫌なら、腹を据え、死に物狂いで境遇を変えればいい。
努力もせず、ただしつこくすがり、乞い願って施しを得ようとする。
そのような者に、同情の余地などなかった。
強者が弱者を助けるのは、気分がよいときに、たまたま与える恩恵にすぎない。
それを相手の義務だと思い込むのなら、拒絶されるのも、代償を払う羽目になるのも、自業自得というものだ。
「番頭!早く、傷の手当てを!」
奉公人たちが慌てて集まり、血にまみれた老人を取り囲んだ。
慌てふためきながら、傷の手当てを始める。
老番頭は、精霊使いでもない、ただの凡人だった。
仮にラインがその場で殺していても、厳しく責任を問われることはなかっただろう。
この程度の騒ぎで終わったと見ると、客たちも興味を失った。
視線を戻し、先ほどまでの話を再開する。
「聞いたか?最近、とんでもないことが起きたらしいぞ!」
「水禍蟇のことだろう?今さら、知らない奴なんているのか。
五環の精霊だぞ!対処を間違えれば、集落ごと滅びかねないんだ」
「水を食うらしいな。腹が減ると、口を開けて、川を丸ごと腹に呑み込むそうだ!怒れば、ヴェルデン山を水に沈めてしまうという。
そんな力を、俺たちが防げるはずもないだろう」
「じゃあ、どうすればいい?どうするも何も、上の方々に任せるしかないさ。
俺たちは逃げることさえできん。集落を出たところで、いったいどこへ逃げればいいんだ?」
酒場には、次第に不安と戸惑いが広がっていった。
「水禍蟇か……」
皆の話を聞きながら、ラインは内心で薄く笑った。
恐怖は、人から人へ伝わりやすい。
話が一人の口を通るたび、危険は少しずつ大きくなる。
集落中へ広まる頃には、もともと温和な水禍蟇も、いつ山を滅ぼすか分からない災厄へ変わっていた。
実際には、水禍蟇は、それほど恐ろしいものではない。
性質は温和で、眠ることを好む。
川を流れに任せて漂う姿も、たびたび目撃されていた。
白い腹を上へ向け、水面に仰向けで浮かび、ぐうぐうと眠る。
たまに目を覚ますと、口を開いて川の水を吸い込み、腹を満たす。
そして、また眠るのだ。
戦いにも、殺戮にも、まるで興味がない。
敵に遭遇しても、まず逃げようとする。
追い詰められ、どうしても逃げられなくなったときに、初めて反撃へ出るのである。
ただし、五環の精霊であることに変わりはない。
本気で怒れば、口から大河さながらの奔流を吐き出す。
洪水が大地を覆い、瞬く間に広大な山林を水の底へ沈めてしまう。
「この水禍蟇は、途中で眠ってしまっただけだろう」
ラインは猪口を持ち上げた。
その瞳に、僅かな光が揺れる。
「白浪川を漂ううちに、偶然支流へ入り込み、そのまま水に運ばれてヴェルデン山の麓へ来たのだ」
酒場の客たちは、なおも怯えながら話し続けていた。
ラインがすでに真相を言い当てていることなど、誰一人として知る由もなかった。




