110.猿王を斬り、眠る継承
「残る精神力は一割一分。月刃二発か、宝石猿王の不意打ちを二度防ぐだけの量だ。月華印だけでも、シロタマズスキンだけでも、この窮地は切り抜けられない。唯一の機会は、猿王が襲ってくる瞬間。その一瞬を捉え、月刃で斬り殺すしかない!」
一瞬のうちに、ラインは今取り得る最も有効な戦術を組み立てていた。
宝石猿の防御力は、もともと高くない。
猿王が姿を消して不意打ちを選んでいることも、その防御の弱さを示していた。
月刃一発で、普通の宝石猿なら五、六匹を斬り殺せる。
猿王を即死させられなくとも、必ず重傷を負わせられるはずだった。
だが、それは容易なことではない。
たとえ精霊使いのチーム全員が揃っていても、姿を消した敵を見破る精霊がなければ、
猿王の襲撃に命を落とす可能性は十分にあった。
「こいつがいつまでも襲ってこないのは、私の精神力が尽きるのを待っているからだろう。いいだろう、ここは逆矢を信じて、一か八か賭けてみるか!」
ラインは即座に決断し、その目に冷酷な光を浮かべた。
その場に立ったまま、両腕を自然に垂らす。
右手には、脱いだ上着を提げていた。
ゆっくりと瞼を下ろし、僅かな隙間だけを残す。
さらに、シロタマズスキンの防御まで、自ら解いてしまった。
空界の精神力は、それ以上減らなくなった。
だが、ラインの体を守る白玉色の光も、完全に消えている。
石林の奥からは、宝石猿の怒声と悲鳴が絶えず響いていた。
しかしラインには、その騒音が次第に遠ざかっていくように感じられた。
死にも似た静寂が、その心を覆っていく。
彼は、静かに待った。
宝石猿王が襲ってくる、その瞬間を、
その一瞬に、この戦いの勝敗が決まる!
待つ……。
さらに、待つ……。
突如、空界の逆矢が再び震えた!
キィ――!
次の瞬間、甲高い猿の叫びがラインの耳元で弾ける。
宝石猿王が左側へ忽然と現れ、鋭い爪を凄まじい力で彼の肩へ叩きつけた!
「シロタマズスキン!」
ラインの両眼に、鋭い光が走る。
白玉色の光が、瞬時に全身を覆った。
ガンッ!
猿王の爪が、防御光へ激突する。
その衝撃でラインの足がもつれ、危うく倒れそうになった。
同時に、空界の精神力が一気に五分減る。
残るのは、六分だけだった!
一撃が通じないと見るや、猿王は躊躇なく身を翻し、逃れようとした。
ラインに反撃する余裕はない。
だが、手にしていた上着を振り上げるには、その一瞬で十分だった。
バサッ!
上着を勢いよく前へ振り広げる。
何かを包み込んだ手応えが、ラインの手に伝わった。
直後、凄まじい力が上着を引っ張り、外へ逃れようと暴れ出す。
上着は、鉄の網ではない。
いつまでも握り締めていれば、猿王に引き裂かれるだけだった。
ラインは迷わず手を放した。
次の瞬間、上着に包まれた見えない何かが、空き地を狂ったように駆け回り始める。
何度も向きを変え、右へ左へと走り回っていた。
「今だ!」
ラインの目に、冷たい光が走った。
勝敗のすべてが、この一撃にかかっている!
宝石猿王も、所詮は獣だった。
突然上着で顔を覆われ、すっかり混乱していた。
耳障りな叫びを上げ、配下の宝石猿へ助けを求める。
深い青の月刃が、斜めに空を走った。
ザシュッ!
命中した!
猿王が凄絶な悲鳴を上げ、その姿が完全に露わになる。
見た目は、普通の宝石猿とそれほど変わらない。
ただし体は三倍も大きく、両眼からは凄まじい血紅色の光が放たれていた。
胸から左の太腿にかけて、深く長い傷口が走っている。
そこから鮮血が絶えず噴き出し、瞬く間に地面を広く染め上げた。
即死こそしなかったものの、すでに致命傷に近い重傷だった。
死の影が、その全身を覆っている。
猿王は恐怖に駆られ、傷口を押さえながら再び精霊を発動した。
その姿が、ゆっくりと消えていく。
ラインの上着も月刃で大きく切り裂かれ、地面へ落ちていた。
だが、猿王は姿を消せても、滴り落ちる血まで隠すことはできない。
曲がりくねった血の跡が、素早く後方へ伸びていった。
逃げたのだ。
これほどの傷を負った今、ラインを追い続ける気など、もはや残っていない。
一刻も早く傷をどうにかしなければ、流れ続ける血だけで命を落としてしまう。
ラインも、その隙に石扉へ退いた。
月刃を放ったあと、空界には僅かな精神力しか残っていなかった。
戦闘力は、ほとんど失われている。
一見すれば、引き分けに見える戦いだった。
だが、実際に勝ったのはラインである。
猿王の傷が、短時間で癒えることはない。
血を失えば失うほど、衰弱していくだろう。
対してラインは、霊石さえあれば、すぐに精神力を補充し、戦闘力を取り戻せる。
姿を消した敵を見破る精霊も、広範囲を攻撃する手段もなかった。
それでも、豊富な戦闘経験と、窮地にも動じない鋼の意志によって、ラインは自分より強い敵を退けたのだ。
「猿や狐は、普通の獣より遥かに賢い。そのぶん、狡猾でもある。だが、野牛やイノシシのような向こう見ずな勇猛さには欠ける。重傷を負えば、死に物狂いで反撃するより、まず逃げようと考えるものだ。
猿王に寄生していた精霊は、おそらく一体だけだろう。姿を消せても、血の跡すら隠せない
私の見立てが正しければ、一環の薄影虫だな」
前世の記憶と照らし合わせ、ラインは猿王の能力をほぼ見抜いていた。
「勝負はついた」
石室へ戻り、石扉を閉める。
霊石を取り出し、精神力を補充した。
ほどなく万全の状態へ戻ったラインは、再び石扉を押し開き、石林へ足を踏み入れる。
石林は依然として混乱していたが、戦いの激しさは先ほどよりも幾分和らいでいた。
「この混乱が収まれば、石林全体の群れの勢力図も変わるだろう。元の群れは移動して再編され、群れを離れていた宝石猿たちも、新たな群れを作る。
苦労して切り開いたこの通路も、じきに失われるかもしれないな」
ラインの心が、僅かに沈んだ。
通路が完全に塞がれる前に、猿王を仕留めなければならない。
群れが落ち着いてしまえば、また多くの時間を費やし、道を切り開く必要がある。
その頃には、猿王も傷を癒やしているかもしれなかった。
弱った敵は、勢いを緩めず追い詰めるべきだ。
つまらない体面にこだわって、決着をつける好機を逃してはならない。
ラインは以前切り開いた通路を辿り、再び石林の奥へ進んだ。
途中、石穴から宝石猿が飛び出し、行く手を阻むこともあった。
だが、すべて一匹ずつ斬り伏せていく。
十五分後、ラインは再び中央の巨大石柱へ辿り着いた。
宝石猿王は地面に倒れ、冷たい石像へ変わっていた。
死んでいたのだ。
その亡骸の上では、一匹の宝石猿が踏ん張り、顔を上げて甲高く鳴いている。
古い王は死に、新たな王が立った。
獣の群れにも、人の社会にも、同じ冷酷な淘汰の掟が働いている。
「手間が省けたな」
ラインはゆっくりと近づいた。
そのとき、一体の精霊が猿王の亡骸からふわりと浮かび上がり、新たな王へ飛んでいく。
月華印!
ラインは即座に手を振り、月刃を放った。
新たな猿王は驚きの声を上げ、慌てて身をかわす。
脇へ退くことを余儀なくされた。
ラインはその隙に大きく踏み込み、精霊を掴み取った。
小さな灰白色の虫だった。
細長く柔らかな体の上から、薄い霧が絶えず立ちのぼっている。
霧に覆われた部分は、どこも輪郭がぼやけていた。
予想どおり、薄影虫である。
掌に捕らわれた薄影虫は、必死に体をくねらせ、逃れようと暴れた。
逆矢!
ラインが念を動かすと、空界に逆矢が現れ、僅かな気配を外へ漏らした。
薄影虫の体が、たちまち硬直する。
猫に出会った鼠のように、もはや身動き一つできなくなった。
ラインは緋紅色の精神力を流し込み、瞬く間に錬化を終えた。
また一体、精霊が手に入った!
薄影虫を空界へ収めると、それは霊海の底へ沈んでいった。
新たな猿王は、薄影虫を奪われるのを目の当たりにし、その場で飛び跳ねて甲高く鳴きわめいた。
だが、王になったばかりで、群れへの支配はまだ定まっていない。
その号令に応じる宝石猿も、僅かだった。
ラインは、もう一発月刃を放った。
深い青の光が薙ぎ払い、四、五匹の宝石猿の命を一瞬で奪う。
新たな王のもとへ集まりかけていた群れは、たちまち崩れ、四方へ逃げ散った。
猿王はラインへ牙を剥いたが、一向に近づこうとはしなかった。
「失せろ」
ラインは猿王を見据え、冷たく言い放った。
鋭い殺気が、周囲へ広がる。
新たな猿王の全身が震えた。
呆然とラインを見つめたあと、低く鳴き、石林の奥へ逃げていった。
ラインは逃げた猿たちには構わず、急いで巨大石柱の下へ向かった。
近づいてみると、石柱の根元には、穴の入口が隠されていた。
入口は、それほど広くない。
そこから石段が地下へ続き、深い闇の中へ消えている。
ラインは入口に立ち、暫く中を見つめた。
偵察用の精霊を持たない彼には、穴の中に何が潜んでいるのか分からない。
状況も確かめられないまま、石段を下りるつもりはなかった。
ここまで強行突破してきたため、すでに体力も精神力も多少消耗している。
何より、石林の混乱は少しずつ収まり、猿たちが周囲の石柱へ戻り始めていた。
時間と労力をかけて切り開いた通路にも、すでに多くの宝石猿が移り住んでいる。
「急いては事を仕損じる。継承の次の手掛かりは見つかった、今日の目的は果たしたのだ。そろそろ戻るとしよう」
その先を確かめたいという欲求を抑え、ラインは迷わず来た道を引き返した。
帰り道は、来たときよりも明らかに厳しかった。
大量の宝石猿が再び通路を占め、次々と彼を取り囲んでくる。
幾度も襲撃を退けながら、ラインは数百匹の宝石猿に追われ、やや無様な姿で石林の外へ飛び出した。
時は足早に過ぎ、春は夏へ移り変わった。
いつしか、厳しい日差しが照りつける季節となっている。
ラインは修練を怠らず、使える時間をすべて注いでいた。
赤鉄仏舎利によって二環中位へ進み、ライルの修練の進度にも追いついた。
気配を隠す特殊な精霊は持っていない。
二環中位の気配を、隠しておくことはできなかった。
そのため、猿王を倒して薄影虫を手に入れた翌日には、すでに環階の変化を察知されていた。
そこで初めて、族人たちは知ったのだ。
赤鉄仏舎利を手に入れたのは、ラインだったのか、と!
それに合わせ、ラインは黒イノシシの精霊を持っていることも、意図的に明かした。
黒イノシシの精霊と赤鉄仏舎利を買うため、酒場や竹楼をはじめ、多くの資産を売り払った。
その選択を、理解できない者は多かった。
たちまち「大馬鹿者」「目先のことしか考えていない」といった言葉が、ラインへ浴びせられるようになる。
急に注目を集めたことで、酒飲のカイの継承を探索する回数も、減らさざるを得なかった。
空界を養い続け、二環上位へ向けて着実に修練を重ねる。
そのかたわら、酒虫と薄影虫を上位の精霊へ煉成するための材料を集めていた。
さらに、生気草を育てて霊石を稼ぎ、日々の修練に必要な費用を賄う。
七月、初秋。
ヴェルデン山の麓にある村の近くで、野生の五環精霊が突如として姿を現した。
その知らせに、ローデン集落全体が震撼した!




