109.仏舎利で中位へ、猿王からの襲撃
空界の四壁を覆う光膜が、明るく透き通っていた。
淡紅色の霊海では、波が生まれては消え、潮が満ちては引いている。
海面では、白く丸々と太った二匹の酒虫が浮かんで戯れていた。
ときおり身をかがめ、海中の精神力を啜っている。
黒いテントウムシに似た黒イノシシの精霊は、絶えず翅を振るっていた。
宙に浮かぶ赤鉄仏舎利の周囲を、ぐるぐると飛び回っている。
シロタマズスキンは白玉の小石のように、海底深くへ沈み、微動だにしなかった。
逆矢は姿を隠したまま、今も眠り続けている。
「そろそろだな」
ラインが念を動かした。
淡紅色の霊海に、突如として大きな波が立つ。
一筋の精神力が海面から噴き上がり、赤鉄仏舎利へ流れ込んだ。
赤鉄仏舎利は僅かに震え、ゆっくりと宙へ昇りながら、眩い赤光を放ち始める。
瞬く間に、昇る太陽のような輝きとなり、空界全体を真っ赤に照らした。
光は炎のように熱く、抜き放たれた刀剣のように鋭く、目を射るほど眩しかった。
最初に耐えきれなくなったのは、黒イノシシの精霊だった。
ぽちゃん、と霊海へ飛び込む。
二匹の酒虫も後を追い、海面の下へ潜っていった。
海底に沈んでいるシロタマズスキンさえ、赤光に照らされ、明滅を繰り返している。
通常の修練で二環初位から中位へ進むには、淡紅色の精神力を毎日動かし、空界を囲む光膜の壁へ繰り返しぶつけなければならない。
時間をかけた積み重ねが必要であり、一足飛びに済ませられるものではなかった。
しかし今は、赤鉄仏舎利から溢れ出す膨大な赤光が、淡紅色の精神力に代わって壁へ注ぎ込まれている。
変化は、すぐに現れた。
ラインの意識が捉える中で、光膜全体が目に見える速さで厚みを増していく。
膜の中にある白光が少しずつ凝縮され、ゆっくりと流れる幾筋もの光へ変わった。
薄く透き通っていた光膜も、徐々に白い水膜へ変化していく。
その表面では、波のような光が絶えず揺れていた。
明るくなったかと思えば暗くなり、本物の水のように流れ続けている。
この瞬間、ラインは正式に二環中位へ進んだ。
だが、赤鉄仏舎利はまだ止まらなかった。
なおも赤光を放ち、空界全体を満たし続ける。
ライン自身の精神力に代わって、新たに生まれた水膜へ力を注ぎ込んでいた。
水膜は、流れ込む赤光を余さず吸収する。
力が蓄えられるにつれ、表面を走る光の流れは滑らかになり、水膜全体もさらに安定していった。
その状態は、十五分ほど続いた。
やがて、赤鉄仏舎利は蓄えていた力をすべて使い果たす。
確かな形を持っていた体が次第に透き通り、最後には赤光の中へ完全に溶けて消えた。
赤鉄仏舎利が消えるとともに、空界を満たしていた眩い赤光も、一瞬にして散っていく。
空界には、再びいつもの静けさが戻った。
四方を囲む水膜だけが、明らかに厚くなっている。
それが、今の出来事が幻ではなかったことを示していた。
赤鉄仏舎利は、ラインを中位へ進ませただけではない。
水膜を養い、安定させるために必要だった、膨大な時間と苦労まで省いてくれたのだ。
ほどなくして、霊海に一筋の緋紅色の精神力が生まれた。
二環中位に特有の精神力だった。
初位の淡紅色の精神力よりも凝縮され、重みを増している。
生まれたばかりの緋紅色の精神力は、ゆっくりと海底へ沈み、シロタマズスキンの周囲を漂った。
赤鉄仏舎利は、空界の基盤そのものを強化する。
その結果、精霊使いは後の修練に支障を残すことなく、一つ上の位へ進むことができるのだ。
こうした仏舎利は、二環上位になるまで取っておき、頂位へ進むために使ってこそ、最も価値を発揮すると考える精霊使いもいる。
ラインは、そんな考えを鼻で笑った。
環階を直接引き上げられる精霊は、早く使うに越したことはない。
ここは、地球のゲームではなかった。
一度失敗したからといって、課金アイテムが幾つか消えるだけでは済まない。
失われるのは、紛れもなく自分の命なのだ。
精霊使いの環階が高いほど、戦闘力も強くなり、生き残れる可能性も高まる。
実力を上げれば、こなせる任務も増え、霊石を稼ぐ速度も速くなる。
修練にも、戦いにも、資源の蓄積にも、その恩恵は及ぶ。
将来、頂位へ進む時間を少し省くためだけに、赤鉄仏舎利を手元へ残しておく。
そのせいで、十分に成長する前に不測の事態で命を落としては、何の意味もない。
ラインは、そんな本末転倒な選択をするつもりはなかった。
中位へ進んだ彼は、霊石を数個取り出し、精神力の補充に取りかかった。
霊海が再び空界の四割四分まで満ちる。
蓄えられた精神力がすべて中位の緋紅色へ変わってから、ようやく吸収を止めた。
三十分後。
ラインは再び地下石林へ足を踏み入れ、そのまま中央地帯へ向かった。
群れの警戒範囲を越えた途端、巨大な石柱の穴から、怒りに満ちた宝石猿が次々と飛び出してくる。
「キィキィキィッ!」
甲高い声を上げ、石柱から跳び下りると、勢いよくラインへ襲いかかった。
ラインの表情は変わらなかった。
意識の大半は、石柱の最上部にある大穴へ向けている。
普通の宝石猿など、恐れる必要はない。
群れに完全包囲されさえしなければ、数が多くても、余計に時間がかかるだけだった。
この戦いの勝敗を決めるのは、まだ姿を見せていない宝石猿王である。
「その体には、どんな精霊が棲んでいる?」
そこまでは、ラインにも分からなかった。
彼はゆっくりと後退しながら、周囲の僅かな動きにも注意を払う。
だが、大量の宝石猿が穴から飛び出してきても、猿王は一向に姿を見せなかった。
「妙だな」
ラインの胸に、僅かな疑念が生まれる。
「この群れには、猿王などいないのか?
いるのなら、縄張りを侵された今、真っ先に出てくるはずだ」
「待て……」
ラインの目が、僅かに細まった。
「すでに出ているのかもしれない」
そう考えた瞬間、異変が起きた。
空界の中で眠り続けていた逆矢が、突如として姿を現す。
激しく体を震わせ、弱々しくも切迫した鳴き声を上げた。
その声は、外の世界には響かない。
ラインの心の奥だけで、何度も鳴り響いていた。
本源精霊による警告だった。
精霊使いの命に重大な危険が迫っていると感知したときにだけ、本源精霊が示す反応である。
瞬間、ラインの全身の毛が逆立った。
考える暇もなかった。
身体が先に反応し、全力でシロタマズスキンを発動する。
白玉色の光が、瞬時に全身を覆った。
その直後、普通の宝石猿の三倍もの体躯を持つ猿王が、何の前触れもなくラインの左側へ現れる。
まるで何もない空間から、突然浮かび上がったかのようだった。
鋭い爪が、凄まじい力を込めてラインの左肩へ振り下ろされる。
ガンッ!
爪は激しく叩きつけられたものの、シロタマズスキンの白玉色の防御に阻まれた。
宝石猿王は一撃が通じないと見るや、弾かれた勢いを利用し、素早く後ろへ跳んだ。
同時に、空界の奥でシロタマズスキンがひときわ強く輝く。
空界の五分に相当する量の緋紅色の精神力を、一気に吸い込んだ。
二環初位の淡紅色の精神力なら、同じ一撃を防ぐだけで、少なくとも一割は必要だっただろう。
その不意打ちが、いかに鋭く苛烈だったかが分かる。
冷静なラインでさえ、全身に冷や汗が滲んだ。
このところ宝石猿の群れを相手に鍛え、肉体も反応もほぼ最良の状態に保っていなければ、今の一撃を防げたかどうか分からない。
反応がほんの僅かでも遅れていたら、左肩は爪で引き裂かれ、左腕は完全に使い物にならなくなっていた。
そうなれば、先日重傷を負ったガルドと同じように、無残な姿を晒すことになっていただろう。
「こいつには、姿を消す野生精霊が寄生していたのか!」
ラインは勢いよく後方へ退き、宝石猿王との距離を広げた。
姿を消した敵を見破る精霊は持っていない。
初めから、明らかに不利な立場へ追い込まれていた。
しかも、宝石猿王は普通の宝石猿より遥かに狡猾だった。
一撃を防がれると、すぐに姿を消し、薄暗い赤光の中へ溶け込んでしまう。
ラインは周囲を見渡したが、どこへ潜んだのか、まったく分からなかった。
どこから襲われるか分からない。
その見えない脅威は、極めて重い圧迫感をもたらした。
ラインはシロタマズスキンを発動し続け、白玉色の光で全身を覆うしかなかった。
しかし、全身の防御を維持するだけでも、精神力は絶えず減っていく。
いつまでも続けられるものではない。
これまで猿の群れと戦っていたときには、攻撃を受ける直前の一瞬だけシロタマズスキンを使い、消耗をできる限り抑えていた。
このまま全身を守り続ければ、ほどなく精神力を使い果たしてしまう。
その間にも、五百匹余りの宝石猿が、四方八方から迫っていた。
ラインはすぐに速度を上げ、群れとの距離を広げようと後退を続ける。
しばらく追ってくると、一部の宝石猿は勢いを失い始めた。
足を止め、自分の巣を振り返るものも現れる。
「キィ――!」
そのとき、宝石猿王が再び姿を現した。
顔を上げ、甲高い号令を発する。
「キィキィキィッ!」
猿の群れが一斉に応じた。
迷いも躊躇いも消え去り、五百匹余りの宝石猿が再び凶性を剥き出しにして、ラインを追い立てる。
執拗に迫る群れを前にしても、ラインは慌てなかった。
むしろ、その口元には冷笑が浮かんでいる。
群れが巣を離れて追ってくることも、あらかじめ想定していた。
石林の中央へ進む際、ラインは比較的通りやすい経路を選んでいた。
その道に沿って猿の群れを順に殲滅し、何とか一本の通路を切り開いたのだ。
だが、通路の周囲には、今も大量の宝石猿が棲んでいる。
何度も行き来したラインは、どこを通れば安全か、よく知っていた。
しかし、知性の低い宝石猿たちに、安全な経路など分かるはずもない。
猿王に追い立てられ、ただ闇雲に突き進んだ群れは、次々と別の群れの警戒範囲へ踏み込んだ。
近隣の宝石猿たちが、即座に反撃へ出る。
石林全体が、瞬く間に混乱へ呑み込まれた。
無数の宝石猿が自分たちの巣を守るため、激しくぶつかり合い、殺し合う。
この宝石猿王も、あと十数年の歳月があれば、千獣王へ成長できたかもしれない。
そうなれば、地下石林全体を支配下へ収めることもできるだろう。
だが今は、まだ一匹の百獣王にすぎない。
これほど多くの宝石猿を、同時に従える力などなかった。
異なる群れが、石柱の間で入り乱れて戦う。
甲高い鳴き声が幾重にも重なり、山腹の空間で反響していた。
鼓膜が痛むほどの騒音だった。
ラインを追っていた五百匹余りの宝石猿は、たちまちほかの群れとの戦いに巻き込まれ、それ以上追ってこられなくなった。
ただ一匹、宝石猿王だけが諦めず、ラインを追い続けていた。
ラインは襲撃を防ぎながら、後退を続ける。
その間にも、宝石猿王は幾度も不意打ちを仕掛けてきた。
そのたびに、シロタマズスキンの防御へ大量の精神力を費やさなければならない。
幸い、石林へ入る前に赤鉄仏舎利を使い、中位へ進んでいた。
二環初位の淡紅色の精神力のままでは、これほど激しい消耗に耐えられるはずもなかった。
それでも、ラインが圧倒的に不利であることは変わらない。
猿王の隙を、まったく捉えられなかった。
反撃できるとすれば、猿王が攻撃のために姿を現す、その一瞬しかない。
だが、反応が間に合っても、防御を行いながら攻撃へ移る余裕まではなかった。
姿を消す野生精霊によって、宝石猿王は戦いの主導権を完全に握っている。
襲いたいときに、好きな場所から襲える。
たとえラインが何とか傷を負わせても、再び姿を消せば、悠々と退くことができるのだ。
ある意味では、すでに負けようのない立場にあった。
「姿を消した敵を見破る精霊がない。この戦いに、勝ち目はほとんどないな。
広い範囲を攻撃できれば、まだ試しようもある。
だが、月華印の月刃は真っすぐにしか飛ばない。
運よく姿を消した猿王に当たりでもしない限り、傷一つ負わせられない」
ラインは素早く戦況を見極め、撤退を決めた。
しかし、宝石猿王はどうあっても彼を殺すつもりらしい。
いつまでも追跡を諦めなかった。
第二密室の石扉まで、残り百メートル。
そこまで退いたところで、ラインは不意に足を止めた。
「精神力は、もう一割余りしか残っていない。
あと百メートル。このままでは、そこまで保たないだろう。
第二密室へ入り、石扉を閉ざせたとしても、猿王が扉を破ってくる可能性は残る」
ここまで巣から離れれば、宝石猿王も習性に従い、追跡を諦めるだろうと考えていた。
まさか、これほど執拗に追ってくるとは思わなかった。
ラインはすでに石林を抜け、比較的開けた場所へ出ている。
石林の中では、無数の宝石猿が今も乱戦を続けていた。
甲高い鳴き声と石のぶつかる音が重なり、唸るような轟音となって、山腹の空間全体へ響き渡っている。
ラインはその場に立ち、動かなかった。
長年磨き続けてきた戦闘の直感が、告げていた。
宝石猿王は、この近くのどこかに潜んでいる。
彼が隙を見せるのを辛抱強く待ち、致命の一撃を放つつもりなのだ。
すでに、逃げ場を失っていた。
敵は見えず、精神力も尽きかけている。
普通の二環精霊使いであれば、とうに重圧へ耐えきれず、冷静さを失っていただろう。
だが、ラインは依然として落ち着いていた。
この局面も、完全に想定の外というわけではない。
ただ、当初の見積もりでは、こうなる可能性は極めて低かった。
宝石猿の習性から考えれば、猿王も巣に執着し、自分の縄張りから容易には離れないはずだった。
ところが、目の前の猿王は、なぜかラインを追うことに固執している。
「危険を冒す以上、命を失う覚悟も必要だ」
ラインの目に、冷たい光が走った。
そして、自分の上着を脱ぎ始めた。




