108.群猿を槌に、獣王が行く手を阻む
商隊が集落を離れてから、三日後。
山腹深く、地下石林。
薄暗い赤光が、広大な地下空間を満たしていた。
巨大な石柱が天井から幾本も垂れ下がり、逆さに生えた巨木のように、巍然と静まり返る灰色の石林を形作っている。
ラインはその中を駆け抜けながら、戦っては退いていた。
キィキィキィ――!
宝石猿の大群が碧緑色の丸い目を剥き、執拗にラインを追い立てる。
「月華印!」
ラインは念を動かし、右手を猿の群れへ向けて軽く振り下ろした。
シュッ――!
たらいほどもある幽青色の月刃が瞬時に凝縮され、空気を切り裂きながら、猿の群れへ真っすぐ斬り込んだ。
一匹の宝石猿が、ちょうど宙へ跳び上がったところだった。
足場もなく、飛来する月刃を正面から受ける。
悲鳴を上げる間もなく、その体は頭から縦に真っ二つへ斬り裂かれた。
命の気配が瞬く間に途絶え、濃密な死の気配が全身を覆う。
生気に満ちていた碧緑色の瞳は急速に凝固し、二つの丸い玉石へ変わった。
亡骸は地面へ落ちる途中で石化し、瞬く間に硬い石像となる。
ドンッ!
石像は地面へ激突し、その場で四方へ砕け散った。
月刃の光は僅かに薄れただけで、なおも勢いを失わず、後方の猿の群れへ斬り込んでいく。
ザシュザシュザシュッ――!
立て続けに乾いた音が響き、さらに五、六匹の宝石猿がその場で斬り殺された。
「キィキィキィッ!」
仲間の惨死を目の当たりにしても、猿の群れは怯まなかった。
かえってその凶性を激しく刺激され、甲高い鳴き声を石林中へ響かせながら、勢いを増してラインへ襲いかかる。
ラインは危機を前にしても慌てなかった。
心は氷雪のように冷え澄んだまま、戦いながら後退を続ける。
宝石猿の群れが距離を詰めるたび、月刃を放って押し返した。
以前、月印を使っていた頃は、微光蛍の補助を受けても、一筋の月刃で倒せる宝石猿は一匹か二匹にすぎなかった。
しかし今や、月印は月華印へ煉成されている。
一筋の月刃を放つだけで、五、六匹の宝石猿をまとめて斬り殺すことができた。
もっとも、利点があれば、当然ながら欠点もある。
現在のラインの環階では、月華印の消耗は決して軽くなかった。
一筋の月刃を放つたび、赤鉄精神力を一割ほど消費する。
一方、ラインの精神力の海は、極限まで満ちた状態でも空界の四割四分を占めるにすぎない。
つまり、一度に放てる月刃は、最大でも四筋だった。
「四味酒虫を煉成し、精神力を一段階上まで精錬できれば、連続して八筋の月刃を放てる」
「だが、二匹目の酒虫は手に入ったものの、酸味、甘味、苦味、辛味の四種の美酒は、まだ三種しか揃っていない」
「最後の一種で、完全に足止めされてしまったな」
ラインは心の中で小さく溜息を吐いた。
月刃を三筋続けて放ったことで、空界には一割四分の淡紅色の赤鉄精神力しか残っていない。
不測の事態に備え、ラインは月華印の使用を止め、代わりにシロタマズスキンを発動した。
月刃による牽制が途絶えると、生き残った宝石猿たちは、たちまち四方八方から距離を詰めてきた。
先頭を走っていた一匹がラインの足元へ滑り込み、次の瞬間、地面を蹴って跳び上がる。
硬い頭蓋を下から突き上げ、ラインの顎へ猛烈な頭突きを叩き込もうとした。
ラインは鼻を鳴らした。
拳を振り下ろし、この身の程知らずな猿を粉砕しようとする。
しかし次の瞬間、何かを思いついたように拳を止め、迫り来る頭突きをそのまま受け入れた。
激突の直前、ラインの顎を白玉色の冷たい光が覆う。
ゴッ!
鈍い衝突音が響いた。
ラインの頭が大きく後方へ仰け反り、足元も数歩後ろへ押し戻される。
対する宝石猿は、その場で仰向けに倒れ込んだ。
両手で頭を抱え、痛みにのたうち回りながら、甲高い悲鳴を上げ続ける。
シロタマズスキンがなければ、今の頭突きだけでラインの顎は砕かれていただろう。
だが今は、僅かな目眩を覚えただけで、体には傷一つない。
もっとも、シロタマズスキンが防げるのは、あくまで肉体への損傷だけだった。
衝突によって生じる勢いまでは消せず、その衝撃はライン自身が受け止めなければならない。
彼は数歩後退してから、ようやく体勢を立て直した。
続けて頭を強く振り、視界に残る一瞬の揺らぎを振り払う。
ラインが先ほど、わざと頭突きを受けたのは、肉体をこうした攻撃へ慣らすためだった。
突然の衝撃と目眩を、あらかじめ何度も経験しておく。
そうすれば、将来の生死を分ける場面で同じ攻撃を受けても、より早く意識を立て直し、僅かな生機を掴むことができる。
ラインのやり方は、いつでも苛烈だった。
そして、その苛烈さは敵だけでなく、自分自身にも向けられている。
ラインは、ほぼ三日に一度の頻度で地下石林を訪れ、宝石猿を狩っていた。
目的は、酒飲のカイが遺した継承を探し続けることだけではない。
宝石猿の群れを利用し、自らの戦闘能力を磨き上げることも、重要な目的の一つだった。
精霊使いの身体能力、体術、精神力、戦闘経験。
そして、所有する一体一体の精霊。
そのすべてが、最終的な戦闘力へ影響する。
これらを緊密に噛み合わせて初めて、自らの力を余すことなく発揮できるのだ。
宝石猿の群れは、何度も振り下ろされる鉄槌。
ラインは、炉から取り出されたばかりの鉄塊。
打たれるたびに、その鉄塊はより硬く、純粋に、そして緻密に鍛え上げられていく。
十五分後。
戦いは、ようやく終わった。
地面の至るところに灰色の石片が散らばり、その下には丸い玉石が幾つも埋もれている。
「今回は、四十一匹か」
ラインは戦場を一瞥しただけで、正確な数を割り出した。
戦いが終わるたび、彼は必ず戦果を数える。
さらに戦闘の一部始終を脳裏でもう一度たどり、自らの不足を探し出し、次の戦いで修正していた。
同時に、それまで積み重ねてきた成長も、明確に把握できる。
「先ほどの戦いでは、月華印の働きが最も大きかった」
「三筋の月刃だけで、少なくとも十七、八匹を仕留めている。全体の半数近くだ」
「残りを、拳と脚で倒したことになる」
月印は、宝石猿に対してそれほど高い殺傷力を持っていなかった。
だが月華印へ煉成されたことで、一気にラインが持つ最も鋭い攻撃手段へ変わっている。
三筋の月刃を放つのに必要な時間は、僅か数呼吸。
それに対して、残る宝石猿を拳と脚で砕くには、十数分もの時間が必要だった。
宝石猿は極めてすばしこく、その動きもひどく捉えにくい。
地面に立っている宝石猿を、拳や脚だけで攻撃することは、ほとんど不可能だった。
両脚で地面を蹴れば、容易に大きな距離を跳び、ラインの攻撃をかわすことができるからだ。
唯一の隙は、宙へ跳び上がり、どこにも足場がない瞬間だった。
ラインは、その僅かな瞬間を正確に捉えることで、次々と宝石猿を仕留めていた。
これもすべて、豊富な戦闘経験があってこそできることだ。
ほかの二環精霊使いであれば、クルやリリア、アオのような強者であっても、ラインほど正確に、毎回のように一瞬の隙を捉えることはできない。
五百年の経験によって、ラインは戦いの中に現れるあらゆる機会を敏感に察知し、自らが持つ一分一厘の力まで正確に使うことができる。
環階こそ二環にすぎないものの、すでに自身の戦闘力を極限に近いところまで引き出していた。
ライルのように、ヒスイズスキンを持っていながら、訓練場でラインの気迫に呑まれ、敗北するまで本来の力を発揮できないなどということは決してない。
もちろん、現在のラインは、まだ環階そのものが低い。
数の多い猿の群れを正面から押し切ることはできず、戦いながら後退し、少しずつ敵の数を削るしかなかった。
幸い、宝石猿の知性は高くない。
敵の手段を見抜き、それに応じて戦い方を変えることもできなかった。
仲間が宙に浮いた瞬間をラインに狙われ、砕かれる光景を何度目にしても、彼らは変わらず次々と跳びかかってくる。
また、巣から遠く離れると、怒りよりも自宅警備猿としての本性が勝った。
多くの宝石猿が自ら追跡を諦め、再び己の石穴へ引き返していく。
精霊は天地の精にして、人は万物の霊なり。
ラインは人の知恵によって宝石猿の習性を見抜き、それに最も適した戦い方を選ぶことで、石林の奥へ進み続けていた。
そして今、彼はついに石林の中央地帯へ足を踏み入れている。
何度も宝石猿をおびき出し、分断して狩り続けたことで、目の前の石柱に棲む群れも完全に殲滅した。
残るのは、最後の一本だけだった。
それは、地下石林の中で最も太く、最も巨大な石柱である。
石柱は天井から垂れ下がり、先端は地面へ届きそうなほど低い。
数十人の大人が手をつないで囲んだとしても、一周することはできないだろう。
薄暗い赤光の中に静かにそびえ立つ姿は、目に見えないほど重々しい威圧感を放っていた。
ラインは石柱に開いた穴を一つずつ数え、大まかな数を見積もる。
「少なくとも、五百匹はいるな」
地下石林へ入って以来、これほど巨大な群れに遭遇したことはない。
だが、宝石猿の数がどれほど多くても、今のラインにとっては多少面倒なだけだった。
時間をかけ、何度もおびき出し、分断して狩ればいい。
ラインの表情を険しくさせていたのは、石柱の最上部に開いた一つの穴だった。
その穴は、周囲のどの石穴よりも大きい。
少なくとも、ほかの穴の二倍はあった。
周囲の石穴はその下へ密集し、まさに百鳥朝鳳を思わせる配置を成していた。
「どうやら、あそこには宝石猿王が棲んでいるらしい」
ラインは僅かに眉をひそめた。
本当の問題は、こちらだった。
群れが一定以上の規模へ成長すれば、その中には獣王が生まれる。
イノシシの群れにイノシシ王がいるのなら、宝石猿の群れに宝石猿王が生まれるのも当然だった。
獣王がもたらす脅威は、普通の野獣とは比べ物にならない。
その理由は、ほとんどの獣王の体内に、一体か二体の精霊が寄生していることにあった。
しかも、精霊と獣王の関係は、単なる寄生ではない。
互いに利益を得る、相互依存の共生関係だった。
獣王が攻撃されれば、その体内に棲む精霊も力を貸し、ともに敵を迎え撃つ。
「この宝石猿王は、それほど強くないはずだ」
「少なくとも、あのイノシシ王には遠く及ばない」
ラインは過去の経験をもとに、宝石猿王の実力を推測していく。
「もし本当に強いのなら、周囲の石柱に棲む猿の群れも、とっくにすべて支配下へ収めていたはずだ」
「今のように、それぞれが勝手に動いているはずがない」
通常、獣王が支配する群れの規模が大きいほど、その獣王自身の力も強い。
弱い獣王に、膨大な数の同類を従えることなどできないからだ。
配下となる獣の数によって獣王の力を大まかに区分するなら、下から順に、百獣王、千獣王、万獣王の三段階となる。
かつて病蛇チームが包囲したイノシシ王は、千匹を超えるイノシシを統率できる千獣王だった。
一方、ラインの目の前にいる宝石猿王は、数百匹ほどの配下しか持たない百獣王にすぎない。
そしてウォルフウェーブを引き起こす雷狼の頭狼こそ、真の万獣王だった。
一匹の頭狼が、少なくとも一万匹の雷狼を統率する。
三つの階層に属する獣王の間には、天と地ほどの実力差があった。
千獣王を討ち取るには、通常なら三つのチームが協力して、ようやく成功の可能性が生まれる。
病蛇チームがあのイノシシ王を狙ったのも、相手がすでに重傷を負っているという前提があったからだ。
万獣王ともなれば、族長と長老たちが手を組み、総力を挙げて初めて正面から対抗できる。
それに比べれば、百獣王の脅威は遥かに小さい。
普通の五人チームでも、十分な準備さえ整えれば、討ち取ることができる。
だが、ラインが目の前の宝石猿王を倒すために、他人の力を借りることはできない。
頼れるのは、自分一人だけだった。
「二環初位の精神力では、やはり量が少なすぎる」
ラインは石柱最上部の穴を、深く見つめた。
「そろそろ、あの赤鉄仏舎利を使う時だな」
ラインは、それ以上前へ進まなかった。
踵を返して地下石林を離れ、第二密室へ戻ると、背後の重い石扉を閉ざす。
仮に行く手を塞いでいたのが、あのイノシシ王のような千獣王であれば、ラインは一切迷わず撤退していた。
しかし、目の前にいるのは一匹の百獣王にすぎない。
二環中位まで環階を上げることができれば、まったく勝ち目がないわけではなかった。
もちろん、中位へ進んだとしても、この戦いが危険であることに変わりはない。
ラインの見積もりでは、敗北する可能性は七割五分。
勝算は、三割にも届かなかった。
新作『天使リリスのトンデモ世界観察日記』の連載を始めました!
常識の通じない世界で「記録者」を務める天使リリスが、次々と起こるトンデモ展開に振り回されるギャグファンタジーです。
難しいことは考えず、頭を空っぽにして、気楽に笑ってもらえたら嬉しいです!
こちらの連載の合間の息抜きに、よかったら覗いてみてください。




