107.競り負けはすべて餌、勧誘は狙いどおり
「ずいぶん激しい競り合いだな。いったい誰の手に渡るんだか」
「ここに十五分ほど立っているが、もう十数人の精霊使いが陳列台へ札を入れていったぞ」
「はあ、こんなものは金持ちの遊びだ。俺たちには、競りに加わる資格すらない」
三星窟の二階では、大勢の精霊使いが中央の陳列台を囲み、口々に意見を交わしていた。
すでに夕暮れが近づき、赤鉄仏舎利を巡る入札も最後の段階へ入っている。
それまで様子を見ていた二環精霊使いたちも、残された機会を逃すまいと、一斉に自らの提示額を提出し始めた。
価格が足りないことを恐れ、何度も札を書き直して入れ直す者さえいる。
「最後に勝つのは、リリアかクルじゃないか?」
一人の精霊使いが予想を口にした。
「その可能性は高いな。二人とも二環上位だ。
赤鉄仏舎利を使えば、その場で頂位へ進み、環階だけならアオに追いつける」
「この何年もの間、アオはずっと二人の上に立ってきた。
二人が何も思っていないとは、俺には信じられん」
すると、別の精霊使いが首を横に振った。
「そうとも限らないぞ。
競りに参加しているのは、俺たち二環精霊使いだけではない。
三環の長老たちも札を入れている。
今朝、メディシン様が札を入れるところを見た者もいるそうだ」
「その話なら、俺も聞いた。孫娘のクスリは、今年の覚醒の儀へ参加するのだろう?
将来を見越して、今のうちに修行資源を用意してやるつもりらしい」
「はあ……俺にも、そこまで可愛がってくれる年長者がいればなあ!」
周囲から、羨望に満ちた溜息が一斉に漏れた。
ラインは人混みの中に立ち、黙って話を聞いていた。
その眼差しは、終始穏やかなままだった。
誰一人として、ラインの名を口にしない。
人々にとって、ラインは莫大な家産を相続したばかりの、運のいい少年にすぎなかった。
酒場でガルドを破り、すでに月華印という二環の攻撃精霊を持っているとはいえ、経歴も環階も名望も、アオやクル、リリアには遠く及ばない。
当然、赤鉄仏舎利を巡る最後の争いへ加わる資格があるとも思われていなかった。
(いい傾向だ)
ラインは胸中で呟く。
(私へ注目する者が少ないほど、赤鉄仏舎利を手に入れるまでの流れも円滑になる)
霊石を用意するため、ラインは酒場、三棟の竹楼、田畑、そして八人の使用人を、すべてラジェットへ売り渡していた。
今では、九分九厘の確率で赤鉄仏舎利を落札できると踏んでいる。
だが、それはラインの計画の一部にすぎなかった。
(この数日、私は立て続けに競りへ参加してきた。
そろそろオスカーも、私の札に気づいているはずだ)
ラインの視線が人垣を越え、陳列台の上に置かれた赤鉄仏舎利へ向けられる。
(この先も予想どおりに進めば、ここ数日の仕込みは完璧な結果を迎える)
時間が、ゆっくりと流れていく。
やがて、入札終了の刻限が訪れた。
陳列台を囲んでいた枝が、突如として伸び始める。
柔らかな緑の枝葉が幾重にも絡み合い、赤鉄仏舎利を瞬く間に包み込んだ。
人々の視線は完全に遮られ、陳列台の内部を窺うことができなくなる。
暫くすると、枝葉は再び左右へ広がっていった。
赤鉄仏舎利は、すでに姿を消している。
その代わりに、奇妙な姿をした精霊が一体置かれていた。
一見すると、平たく潰れた楕円形の石片に見える。
大きさは掌ほどで、全体が深い黒色をしていた。
石片の表面は僅かに盛り上がり、一つの目を形作っている。
目の傍らには涙の跡に似た模様もあり、どちらも細い白線で描かれていた。
およそ二呼吸に一度、石片の目がゆっくりと瞬く。
白線で描かれた瞳が動くたび、傍らの涙も下へ流れ、まるで黒い石片そのものが声もなく泣いているかのようだった。
これは、悔過の精霊である。
その能力は非常に特殊で、効果を及ぼす相手は人間ではなく、ほかの精霊だった。
悔過の精霊は、一体の二環精霊を分解し、煉成に使われた一環精霊へ戻すことができる。
例えば、ラインの持つシロタマズスキン。
悔過の精霊を使用すれば、シロタマズスキンは分解され、白イノシシの精霊とヒスイズスキンへ戻る。
この過程は、逆煉成と呼ばれていた。
ラインは一度だけ目を向けると、すぐに視線を外した。
悔過の精霊は珍しいものの、今の彼には何の役にも立たない。
周囲の精霊使いたちも、たちまち騒ぎ始めた。
彼らの関心は、新たに並べられた悔過の精霊には向けられていない。
赤鉄仏舎利を買った者が誰なのか、今もそのことばかりを問い続けていた。
二階を担当する商隊の精霊使いを直接呼び止め、何とか情報を聞き出そうとする者もいる。
一階の総合受付へ急ぎ、最終的な落札額を尋ねようとする者もいた。
しかし商隊の規則では、買い手の身元も落札額も、外部へ明かされることはない。
やがて人の輪は崩れ、少しずつ散っていった。
それでもラインだけは、その場から動かなかった。
そのとき、不意に耳元で声が響いた。
「ライン様。三階までお越しください。
商隊長のオスカー・ベルナー様が、お会いになりたいとのことです」
声はすぐ傍から聞こえる。
だが周囲の者たちは、誰一人として反応しなかった。
ラインは驚かない。
この世界には、声を密かに届ける精霊が数多く存在する。
商人や情報を扱う者の多くが、同種の手段を用意していた。
耳元へ届く声の案内に従い、ラインは三星窟の三階へ上がった。
やがて、一面の木壁の前で足を止める。
壁は幾重にも重なった緑の葉に覆われていた。
葉は隙間なく生い茂り、その向こうに何かがあるとは思えない。
サワサワサワ……。
突然、枝葉が自ら揺れ、ゆっくりと左右へ分かれていく。
その奥から、一枚の小さな扉が現れた。
ラインが隠し扉を開く。
扉の先には、螺旋状に上へ続く狭い階段があった。
階段を上り切ると、あまり広くない書斎へ辿り着く。
書斎では、オスカーが机の向こうに座り、帳簿を処理していた。
目の前には大量の竹紙が積まれ、手にした筆が素早く動いている。
紙面には、一行また一行と文字が書き込まれていった。
足音を聞き、オスカーが筆を止める。
顔を上げると、新たに刻まれた傷跡が笑みとともに僅かに歪んだ。
その姿は一年前よりも、いくらか凄みを増している。
「ライン君、また会ったな」
「オスカー様。お招きいただき、ありがとうございます」
ラインは軽く一礼した。
「さあ、そこへ座ってくれ」
オスカーは、机のすぐ傍にある椅子を指した。
ラインは言われたとおり、そこへ腰を下ろす。
オスカーが左手で軽く押すと、机の上にあった竹紙の束が、ラインの前まで滑ってきた。
ラインは一度目を落としただけで、その内容を理解した。
これらはすべて、彼がこの数日の間に、異なる精霊へ提示した入札額だった。
一枚ごとに精霊の名と価格が記され、その下にはライン自身の署名がある。
ラインの胸に、微かな笑みが浮かんだ。
すべては予想から外れていない。
それでも表情には、ほどよい疑問だけを浮かべた。
「それで、オスカー様はどのようなご用件で私を?」
オスカーは笑みを少し収めた。
鋭くなった視線で、正面に座る少年をじっくりと観察する。
「君がこの数日、提出した入札額を調べさせてもらった。
その中には、先ほど赤鉄仏舎利を落札した価格も含まれている。
率直に言おう、ライン君、君の商いに関する才には、随分と驚かされた」
オスカーは指を伸ばし、机の上にある竹紙を軽く叩いた。
「知っているか?君が提示した価格は、どれもその精霊の最終落札額へ、極めて近かった。
この数日で、君が実際に買えたのは、酒虫と黒イノシシの精霊、そして先ほどの赤鉄仏舎利だけだ。
だが、ほかの精霊へ出した価格も、その大半が最終落札額より霊石十数個少なかっただけだ」
僅か十数個の差しかない。
それは、ラインがそれぞれの精霊の真の価値と、ほかの競争相手が考える限界価格を、正確に見抜いていたことを意味する。
一度や二度なら、偶然で片づけることもできる。
だが何日にもわたり、同じことを繰り返せるのなら、もはや運だけでは説明できなかった。
「ライン君」
オスカーが僅かに身を乗り出した。
「私の下で働いてみる気はないか?」
(来たか)
ラインは胸中で大笑いした。
だが顔には、何の異変も表さない。
この数日、ラインは何度も異なる精霊の競りへ加わっていた。
酒虫、黒イノシシの精霊、赤鉄仏舎利を除けば、すべて落札に失敗している。
しかし、それは判断を誤ったからではない。
むしろラインは、最終落札額を事前にほぼ正確に推測していた。
あと霊石十数個を加えれば、どの精霊も高い確率で手に入れられただろう。
それでも、あえて提示額を低く抑えた。
僅かな差で競り負けるためである。
商隊は取引の結果を外部へ公表しない。
だが内部では、顧客一人ひとりの提示額を必ず記録している。
十五歳の少年が、何体もの精霊の落札額を立て続けに見抜けば、商隊の上層部が注目しないはずがない。
長年にわたり商隊を率い、今まさに兄弟たちと家督を争っているオスカー、
彼が何より必要としているのは、商品の価値を見抜ける人材だった。
つまりラインは、初めから自らの価値を見せつけていたのだ。
彼が投じた札は、すべてオスカーの前へ並べられた餌だった。
そして今、相手は狙いどおり、自ら食いついてきた。
「それは……」
ラインは、わざと暫く迷う素振りを見せた。
だが最後には、静かに首を横へ振る。
「お声がけいただき、ありがとうございます。
ですが今のところ、私は一族を離れるつもりはありません」
「そうか」
オスカーの目が僅かに動いた。
だが、意外そうな様子はない。
「どうやらライン君は、まだ私に対して多少の誤解を抱いているようだ。
一年前、ルイスが姿を消したあと、確かに私は君を疑った。
だがその後、愚直竹を使って関係者の証言を確かめ、君への疑いはすでに晴れている」
そこまで話すと、オスカーは軽く溜息をついた。
「ルイスは、何と言っても私の実の弟だ。
あいつが死んだあと、私がどのような気持ちだったかは、君にも理解してもらいたい」
ラインは真剣な表情で頷いた。
オスカーは話を続ける。
「それから、もう一ついい知らせがある」
「『鉄血探偵』レオン・シュタールに、調査を引き受けてもらうことができた。
あの方が扱った事件で、真相を明らかにできなかったものは一つもない。
レオン様がヴェルデン山へ来れば、必ずルイスを殺した真犯人を見つけ出してくださるだろう。
そうなれば、ライン君へかけられた疑いも、完全に晴らすことができる」
(レオン・シュタール……)
ラインは胸中で、その名を静かに繰り返した。
彼にとって、それは決していい知らせではない。
この世界には、想像もつかないほど多くの調査手段がある。
同時に、それらの調査を妨げ、痕跡を隠すための能力も存在していた。
だがルイスを殺した当時、ラインはまだ一環精霊使いだった。
前世の記憶によって、証拠を消す方法を数多く知っていたとはいえ、
環階と手持ちの精霊に制限され、すべてを実行できたわけではない。
レオン・シュタールという人物については、ラインも前世で耳にしたことがある。
環階は高く、生涯を通して悪を懲らしめ、善を守ることを己の使命としていた。
思考も極めて緻密で、常人なら見落とすような僅かな綻びから、手掛かりを見つけ出すことを得意としている。
何より厄介なのは、一切の外道を許さず、いわゆる「絶対正義」を信奉していることだった。
もし本当にヴェルデン山へ来て、ルイスの死を真剣に調べ始めれば、ラインへ少なからぬ面倒をもたらす可能性がある。
「名探偵のご高名は、私も耳にしたことがあります」
ラインは、ちょうどよい程度の期待を顔へ浮かべた。
「レオン様は、いつ頃ヴェルデン山へ到着されるのでしょうか?」
「それがだな……」
オスカーの笑みが、急に気まずそうなものへ変わった。
「レオン様は、非常に多忙な方だ。
返書によれば、こちらへ来られるのは、おそらく二年後になるそうだ」
二年後。
その言葉を聞いた瞬間、ラインの心は落ち着いた。
二年という歳月は、十分すぎるほど長い。
すべてが順調に進めば、その頃にはとっくにヴェルデン山を離れている。
たとえ調査が改めて始まったとしても、残された痕跡を処理し、対策を用意する時間は十分にあった。
「ライン君。私は本当に、君を高く評価している」
オスカーは、再び先ほどの話へ戻った。
「もう少しだけ、私の誘いを真剣に考えてみてはくれないか?」
その後も、オスカーは幾つもの好条件を並べた。
決まった額の霊石を報酬として受け取れるだけではない。
商隊へ加われば、各地から集められた精霊へ優先して接触でき、一部の取引へ参加する資格も与えられる。
普通の二環精霊使いにとっては、十分すぎるほど魅力的な条件だった。
それでもラインは、言葉を選びながら再び断った。
今はまだ、ヴェルデン山を離れるのに最適な時期ではない。
十分な力を持たないまま、まったく知らない土地へ足を踏み入れれば、待っているのは圧迫と排斥だけだ。
商隊も、決して安穏な場所ではない。
内部には派閥争いがあり、暗黙の規則と利益交換が幾重にも絡み合っている。
実力も根拠地もなければ、たとえ商才を示したところで、他人のために金を稼ぐ道具へ成り下がるだけだった。
「君の才能を活かせないとは、実に惜しいな」
ラインの意志が変わらないと分かり、オスカーもそれ以上は強く迫らなかった。
机の引き出しを開き、一枚の札を取り出す。
それをラインの前へ差し出した。
「では、この札を受け取ってくれ。
いつか考えが変わり、私の下で働く気になったなら、これを証として持ってくればいい。
時期は問わない。私はいつでも、君を歓迎しよう」
ラインが断ることは、オスカーもある程度予想していた。
長年行商を続けてきた彼は、一族が所属する者へ及ぼす結束力の強さをよく知っている。
たった一度の面会で、若い精霊使いに一族を捨てさせ、外来の商隊へ加わらせようとするほうが無理な話だった。
もし目の前に座る少年こそ、ルイスを殺した真犯人だと知れば、オスカーはいったいどのような顔をするのだろう。
「オスカー様のご厚意に応えられず、申し訳ありません」
ラインは丁寧に答えながら、差し出された札を受け取った。
同時にオスカーは、封じてあった赤鉄仏舎利もラインへ渡す。
ラインは二つを懐へ大切に収めた。
それから席を立って暇を告げ、来た道を通って書斎を後にした。
……
三星窟の三階では、一人の少女精霊使いが、壁を覆う緑の葉へ興味深そうに触れていた。
そのとき、枝葉が突如として左右へ退き、内側に隠されていた扉が現れる。
「えっ?」
少女は驚きの声を上げ、反射的に後ろへ退いた。
隠し扉が内側から開く。
無表情のラインが、そこから姿を現した。
「な、な、なんで……」
少女は目を大きく見開いた。
傍らを通り過ぎていくラインを呆然と見送り、暫く反応できなかった。
近くにいた精霊使いたちも、この出来事へ気づいている。
隠し扉の先にある空間を知っているらしく、何の反応も示さない者がいた。
事情を察したような笑みを浮かべる者もいれば、驚きの目でラインを眺め、なぜ商隊の上層部から個別に呼び出されたのかと推測する者もいる。
ラインは、自分へ向けられる視線を気に留めなかった。
階段を下り、二階へ戻る。
そこには今も多くの精霊使いが残り、赤鉄仏舎利が誰の手へ渡ったのか、興味津々で話し合っていた。
「絶対にリリアだ!三星窟を出ていったとき、意味ありげな笑みを浮かべていたのを見た者がいる!」
「いや、そうとは限らない。クルは外へ出たとき、ひどく顔色が悪かったそうだ。
落札できなかったふりを、わざと見せているのかもしれないぞ」
「もう推測はやめろ。俺は確かな情報を掴んでいる!
仏舎利を買ったのは、ある長老だ!」
「どの長老だ?」
「それは……とにかく、情報が確かなことだけは保証する!誓ってもいい!」
真偽の分からない話が、群衆の中を飛び交っていた。
大胆な予想を口にする者がいる。
断言する者もいれば、真の買い手をすでに知っていると、神へ誓いを立てる者までいた。
ラインは、そんな人々の間を通り抜けていく。
彼らが争うように語っている赤鉄仏舎利が、今まさに自分たちのすぐ傍を通り過ぎているとは、誰一人として知らない。
三星窟を出ようとしたところで、ラインはクルと鉢合わせた。
クルの顔色は確かに悪かった。
先ほどの競りで、望んだ結果を得られなかったのだろう。
その傍らにいるメルは、今も周囲の者を捕まえ、赤鉄仏舎利の行方を聞き回っていた。
ラインの姿へ気づくと、メルは鼻を鳴らす。
すぐに顔を横へ向け、わざと彼を見ないようにした。
一方、クルは何も言わず、ラインへ軽く頷いた。
それが挨拶の代わりなのだろう。
ラインも同じように頷いて応じる。
その口元には、淡い笑みさえ浮かんでいた。
夕日の名残が、少年の顔を照らす。
今のラインは、実際に機嫌がよかった。
赤鉄仏舎利があれば、すぐに二環初位から中位へ進める。
そうなれば、精神力の品質も蓄えられる量も、大きく向上するだろう。
それだけではない。
オスカーから渡された札もある。
一年前、ラインが自らルイス・ベルナーへ近づいたのは、その身分を利用し、将来開かれる大会へ参加するためだった。
各地の天才が集うあの盛会で、利益を得ようと考えていたのである。
しかし世の出来事は、思いどおりには運ばない。
ラインは結局、ルイスを通して参加資格を手に入れることができなかった。
それどころか、利用するつもりだった駒を、自らの手で殺してしまった。
ところが巡り巡って、その資格は最後にオスカーの手から、ラインのもとへ届いた。
そう考えると、ラインも僅かな皮肉を感じずにはいられない。
だが、ルイスがいなくとも構わない。
オスカーを利用しても、同じ目的へ辿り着くことはできる。
この札こそ、ラインが将来、あの大会へ参加するための入場券だった。




