106.安穏を捨て、ただ修行を求む
ラインは両親が遺した豊かな家産を相続したものの、それからまだ大して日が経っていない。
財産は急速に増えつつあったが、蓄えるための時間が足りなかった。
生気草を生み出せば、確かに大量の霊石を稼ぐことができる。
しかしラインは、毎日そうしているわけではなかった。
九葉生気草に九枚の成熟した葉を再生させるには、精神力を繰り返し注ぎ込まなければならず、半日近い時間を奪われる。
それでは普段の修行に大きな支障が出てしまう。
そのため、酒虫と黒イノシシの精霊を買ったあとも、ラインの手元にはまだ相当数の霊石が残っていたが、赤鉄仏舎利の最終的な競売価格には届かなかった。
ラインは三星窟の二階にある陳列台の傍らに立ち、胸中で素早く計算を進める。
赤鉄仏舎利は二環精霊である。
最初の入札が入ってから、陳列される期間は一日だけだった。
つまり、ラインに残された時間は一日にも満たない。
これほど短い間に数千個もの霊石を用意するとなれば、生気草だけでは到底間に合わない。
残された手段は、手持ちの酒場と竹楼を担保に入れるか、売り払うことだけだった。
それを惜しいとは思わなかった。
来年には、本格的なウォルフウェーブがヴェルデン山全体を呑み込む。
前世の記憶によれば、狼の群れが襲来したあと、ローデン集落は幾度も陥落寸前にまで追い込まれた。
最も危険だったときには、北門が正面から突破されている。
そのとき、族長と長老たちは雷狼の頭狼を足止めしており、援護へ戻る余裕などなかった。
最後はアオが二環の身で無理やり三環精霊を使い、自らの命をもって突破口を塞いだことで、辛うじて戦線を立て直したのである。
あのウォルフウェーブによって、ヴェルデン山の三大一族は凄まじい損害を受ける。
集落から人影が消えるほどではないにせよ、人口は少なくとも半減するだろう。
そうなれば、大量の家屋が主を失い、集落内の不動産価格は一気に暴落する。
借り手そのものがいなくなれば、三棟の竹楼を誰に貸すというのか。
東門に近い酒場は、さらに悲惨なことになる。
ウォルフウェーブの間、東門は最も危険な前線の一つとなる。
わざわざそのような場所へ酒を飲みに来る者など、ほとんどいない。
酒場そのものも一族に徴用され、精霊使いたちが駐留する防衛拠点へ改造される可能性が高かった。
今のところ、一族の大半は来年のウォルフウェーブを甘く見ている。
だからこそ、酒場と竹楼を売るなら、今が最も高く売れる時期だった。
(財は所詮、修行のための道具にすぎない。真の根本となるのは、自らの力だけだ)
ラインは胸中で、売却先について考えを巡らせる。
一族へ売れば、内務院に安く買い叩かれる。
個人へ売却したほうが、得られる霊石は遥かに多い。
問題は、誰が一日のうちにそれほどの霊石を用意できるのかということだった。
これは、数百個程度の霊石で済む取引ではない。
酒場も竹楼も非常に高価な財産である。
普通の精霊使いなら、たとえ購入する意思があったとしても、話を持ちかけられたその場で契約を結ぶことなどできない。
家屋証文を調べ、収益を確認し、建物の状態を確かめたうえで、何度も価格を交渉する必要がある。
すべてを終えるまで十日から半月かかったとしても、何ら不思議ではなかった。
だが、ラインに残された時間は一日しかない。
(待て……)
そのとき、一人の人物が脳裏に浮かんだ。
(もしかすると、本当に適した買い手が一人いる)
その人物とは、他ならぬ叔父――ラジェット・ローデンだった。
叔父夫婦は抜け目がなく、金にも細かい。
ライン兄弟に代わって十年以上も家産を経営してきたのだから、手元には相当数の霊石を蓄えているはずだった。
それだけではない。
酒場や竹楼、田畑はもともと彼らが管理していた。
場所も毎月の収益も、修繕費も使用人たちの状況も、すべて知り尽くしている。
改めて調査する必要がないのだ。
ラインが家産を取り戻して以降、叔父夫婦は安定した収入源を失っていた。
どれほど多くの蓄えがあっても、支出ばかりで収入がなければ、いずれ底をつく。
手持ちの霊石が日ごとに減っていく状況に、不安を覚えない者などいない。
財力、需要、そして契約までの速さ。
あらゆる面から考えても、叔父夫婦こそ最も適した買い手だった。
そうと決まれば、迷う理由はない。
ラインは三星窟を出ると、真っすぐラジェットの屋敷へ向かった。
……
屋敷の門が開き、ラインの前へ姿を見せたのは、かつて彼に仕えていたメイドのミラだった。
「あっ、あ、あなた……!」
来訪者の顔を見た瞬間、ミラは思わず声を上げた。
しかし口にしてから、自分の失言に気づいたのだろう。
その顔から、瞬く間に血の気が引いていく。
今のラインは、すでに二環精霊使いである。
ただの凡人にすぎないミラとは、身分も立場も比べものにならなかった。
そのうえ、ラインはつい先日、ガルドに瀕死の重傷を負わせたばかりだ。
さらに遡れば、コア派閥の使用人を殺し、その死体を切り分けたうえで送り返したこともある。
そうした噂が積み重なった結果、ラインはすでに集落の中で凶名を得ていた。
「ご、ご無沙汰しております、ライン様」
ミラは全身を震わせ、脚から力が抜けたように、その場へ跪いた。
「お帰りなさいませ、ライン様」
「『帰る』ですか」
ラインは門をまたぎ、庭へ足を踏み入れた。
見慣れた景色をゆっくりと見回し、その口元へ微かな嘲りを浮かべる。
ここが彼の長年暮らした場所であることは、間違いない。
だが懐かしさも、名残惜しさも、欠片ほども湧いてこなかった。
一年ぶりに足を踏み入れた屋敷は、記憶の中にある姿よりも遥かに寂れていた。
ライルが以前語っていたとおり、使用人の数は半分以下まで減っている。
解雇された者もいれば、他家へ売られた者もいた。
かつて至るところで見られた忙しげな人影は、もはや数えるほどしか残っていない。
ラインの突然の来訪は、すぐに屋敷全体へ伝わった。
叔母から厚い信頼を得ている女中頭が、真っ先に駆けつける。
彼女は深く頭を下げ、ラインを客間へ案内すると、自ら熱い茶を差し出した。
ラインは椅子へ腰を下ろし、静かに室内を見回した。
以前ここに置かれていた家具や装飾品の多くが、すでに姿を消している。
細やかな細工の施された机や椅子は、ごく普通の木製品へ替えられていた。
骨董や陶磁器を並べていた棚も、大半が空になっている。
客間全体が質素で、どこか寒々しく見えた。
しかし、それは叔父夫婦が本当に困窮していることを意味しない。
(ラジェットは相変わらず抜け目がない)
ラインはひと目で、この配置に込められた意図を見抜いた。
自ら弱みを見せると同時に、手元の財を隠しているのだ。
ラジェットが第一線を退いてから、すでに長い年月が経っている。
個人としての戦闘力も、全盛期とは比べものにならないほど衰えていた。
さらに九葉生気草を失ったことで、人脈を維持するための最大の切り札まで失っている。
これまで生気草の供給を頼りに彼と関係を保っていた精霊使いたちも、今後は徐々に離れていくだろう。
その人脈がなければ、影長老という呼び名も、もはや名ばかりのものだった。
それにもかかわらず、ラジェットの手元には、今も大量の蓄えがある。
力のない者にとって、過ぎた財は必ずしも幸福をもたらさない。
匹夫に罪はなくとも、璧を懐けば罪となる。
ラインが家産を相続しただけで、あれほど多くの者から狙われたのだ。
年老いて力の衰えたラジェットであれば、なおさらだった。
使用人を減らし、高価な家具を片づけ、困窮した暮らしを装う。
そうすることで、他の一族の者の目を引かないようにしているのだ。
財は人前へ晒さぬに限る。
確かに、それが今のラジェットにとって最も正しい生き方だった。
そのとき、廊下から慌ただしい足音が響いた。
足音は急速に近づき、やがて叔母が客間の入り口へ姿を現す。
ラインの顔を見るなり、叔母の胸に溜まっていた怒りが一気に噴き出した。
「ライン、よくもぬけぬけとここへ来られたね! この恩知らずの狼め!
私たち夫婦が、あんたとライルをどれだけ苦労して育ててきたと思っているんだい?
それなのに、これが私たちへの恩返しか!
この人でなし! あんたには血も涙もないのかい!」
叔母は片手を腰へ当て、もう片方の手でラインを指さしながら、甲高い声で罵った。
「まだここへ来て、平然と茶を飲むつもりかい?
私たちがどれほど落ちぶれたか、わざわざ見物に来たんだろう?
もう十分に見ただろう。満足したかい!」
ラインが身につけている二環精霊使いの武装束が目に入らなければ、叔母はすでに飛びかかり、爪を立てていたかもしれない。
だが今の二人には、覆しようのない身分差がある。
その事実が、叔母へ最後の一線を越えさせなかった。
ラインは罵声など聞こえていないかのように、まったく表情を変えない。
一年見ない間に、叔母も随分とやつれていた。
身にまとっているのは質素な麻の服で、髪飾りも以前より大きく減っている。
顔には紅も白粉もなく、もともと刺々しかった顔立ちが、いっそう痩せ細って見えた。
家産を失ったことで、彼女の暮らしが大きく変わったのは事実なのだろう。
しかしラインには、叔母の落ちぶれた姿を眺めて楽しむ趣味などない。
彼は落ち着いて茶を一口飲み、淡々と告げた。
「酒場と竹楼を売りに来ました。叔父上と叔母上に、買い取るおつもりはありますか?」
叔母は反射的に罵った。
「ふん! あんたみたいな恩知らずが、何を企んでいるんだい!
今さら酒場と竹楼を売るだなんて――」
そこまで言ったところで、ようやく言葉の意味を理解したらしい。
その声が、唐突に止まった。
「待ちな」
叔母は信じられないという顔で、目を大きく見開く。
「今、何と言ったんだい? 酒場と竹楼を売るですって?」
ラインは茶杯を置き、椅子の背へ体を預けると、ゆっくり目を閉じた。
「叔父上を呼んでください。この話は、叔父上とします」
叔母はしばらくの間、疑わしげにラインを睨みつけていた。
「分かったよ」
やがて、その顔が再び険しくなる。
「あんた、本当は売るつもりなんてないんだろう?
私たちをからかうために、わざわざ戻ってきたんじゃないのかい?
私が買いたいと言えば、そこを散々あざ笑うつもりなんだろう?
私を馬鹿だと思って、好きなように弄ぶつもりかい!」
ラインは胸中で小さく息を吐いた。
彼女の頭にあるのは、その程度の駆け引きばかりだ。
だから他人の考えも、同じ物差しでしか測れない。
これ以上説明する気にはならなかった。
「それ以上話を続けるなら、私は帰ります」
ラインはただ一言、そう告げた。
「この集落で、あの資産を欲しがる者は、叔父上たちだけではありません。私が他の者へ売ったあとで、後悔しないことです」
叔母は言葉を失った。
「五分だけ待ちます」
ラインは目を僅かに開き、そう言い残すと、再び瞼を閉じた。
叔母はその場でしばらく迷っていたが、やがて床を強く踏み鳴らし、客間から飛び出していった。
慌ただしい足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
それから大して待たずに、ラジェットが一人で客間へ現れた。
叔母はついてこなかった。
ラインは目を開き、自らの叔父をじっくりと観察する。
ラジェットは、明らかに老け込んでいた。
以前は年齢の割に張りのあった顔も、今ではすっかり痩せている。
両鬢には、多くの白髪が混じっていた。
短い間に家産と人脈を失った重圧が、その姿へはっきりと刻まれている。
このところ、彼が苦しい日々を送っていたことは間違いなかった。
酒場、竹楼、田畑を失ったことで、ラジェットには安定した収入源がなくなった。
そして九葉生気草の喪失は、彼が築いてきた人脈そのものを揺るがした。
かつて多くの精霊使いへ影響を及ぼしていた影長老も、今や名ばかりの存在である。
手元にはまだ大量の霊石が残っている。
しかし影響力も戦闘力も失った状態では、その霊石は抱えているだけで危険な財産となっていた。
ローデン一族の制度は、一族の者同士が資源を争うことを、密かに奨励している。
中でも決闘制度は、一見すれば冷酷に思えるものの、安逸を貪るだけの寄生者を淘汰し、すべての精霊使いに危機感を持たせる役割を果たしていた。
この世界では、強い戦闘力だけが生存を保証する。
暴風も、洪水も、ウォルフウェーブも、人の道理など聞いてはくれない。
ラジェットは長年にわたり安穏な生活を送り、個人としての戦闘力を大きく衰えさせていた。
かつて所有していた数体の戦闘精霊も、飼育費用を抑えるため、少しずつ手放している。
今の彼へ正当な理由をもって決闘を挑む者が現れれば、勝つより負ける可能性のほうが遥かに高い。
だからこそラジェットは、他の一族の者から狙われないよう、財を隠していたのだ。
二人が席へ着くと、ラインは余計な前置きを省き、単刀直入に用件を告げた。
話を聞き終えたラジェットは喜ぶどころか、僅かに眉をひそめた。
「ライン、お前が私のところへ来た以上、こちらも率直に尋ねよう。どうしても分からないことがある」
ラジェットは、正面からラインを見つめた。
「酒場も竹楼も、お前へ安定した霊石をもたらす財産だ。
持っているだけで、何もしなくとも毎月決まった収入が入ってくる。
なぜ、よりにもよって今、売ろうとする?」
「赤鉄仏舎利を買うためです」
ラインは隠さなかった。
秘密に関わる話ではない。
むしろ理由を明かしたほうが、ラジェットも本当に売却するつもりなのだと信じやすい。
「なるほど」
ラジェットの目が僅かに動いた。
少し沈黙したあと、探るように尋ねる。
「では、九葉生気草はどうする? あれも売るつもりはないのか?」
「あり得ません」
ラインは何の迷いもなく首を横に振った。
「私が売るのは、酒場、三棟の竹楼、田畑、そして八人の使用人だけです」
九葉生気草こそが、家産の中で最も大きな価値を持つ。
生気草を絶えず生み出し、安定した収入源となるだけではない。
それ自体も、重要な治療能力を持っている。
来年、ウォルフウェーブが起これば、治療精霊の価値は必ず大きく上昇する。
九葉生気草さえ手元にあれば、ラインは二環の間、修行に必要な費用に困ることがない。
さらに、もう一つ重要な理由があった。
もしラジェットが九葉生気草を取り戻せば、再び他の精霊使いたちへ生気草を供給できるようになる。
それを足がかりとして、かつての人脈を再建することも可能だった。
そうなれば、影長老としての影響力が復活するかもしれない。
ラインが、そのような状況を許すはずがなかった。
あまりにもきっぱりと拒まれたため、ラジェットの目に失望がよぎる。
しかし、どうすることもできない。
その後、二人は正式な価格交渉へ入った。
ラジェットは酒場、竹楼、田畑、そして八人の使用人について、何もかも知り尽くしている。
そのため、最も時間のかかる調査の過程は、すべて省くことができた。
ただし価格については、どちらも簡単には譲らなかった。
交渉は二時間以上に及んだ。
最終的に両者は価格を決め、厳密な条項を盛り込んだ譲渡契約へ署名した。
ラジェットは酒場、三棟の竹楼、田畑、そして八人の使用人を取り戻す。
その対価として、ラインへ莫大な数の霊石を支払う。
契約を結び終えると、ラジェットは三人の使用人を呼び、それぞれに霊石を詰めた木箱を一つずつ担がせた。
三人はそのままラインに付き従い、三星窟へ向かうことになった。
双方が、それぞれ必要なものを手に入れた。
その頃、自分の知らぬ間に再び主人が替わった酒場の番頭は、何の前触れもなく大きなくしゃみを一つした。
……
取引が成立したと聞き、叔母は慌てて駆けつけてきた。
ラジェットから家屋証文と土地証文の束を受け取ると、何度も表裏を確かめる。
その目は次第に大きく見開かれ、顔には抑えきれない歓喜が浮かんだ。
「あなた、あの子は修行のしすぎで頭がおかしくなったんじゃないですか?」
叔母は笑いが止まらない様子で言った。
「こんなに金を生む財産を、全部売ってしまうなんて。
何個かの卵欲しさに、卵を産む雌鶏まで手放すなんて、本当に愚かな子!」
ラジェットは暗い顔をしたまま、苛立たしげに叱りつけた。
「黙っていられないのか? 口を閉じろ!」
「あなた……」
叔母は不満そうに口を尖らせる。
「わたしは嬉しくて言っただけではありませんか」
「こういうときほど、得意になってはならない」
ラジェットは冷たい目で妻を見た。
「酒場と竹楼を取り戻した今こそ、これまで以上に慎重に振る舞い、目立たぬよう生きるべきだ。
高い木ほど、強い風に晒される。その程度の道理も分からないのか?
ライルはすでに私たちの養子だが、その関係を軽々しく利用してはならない。
あの子はまだ、真に成長したわけではない。この先、何が起こるかなど誰にも分からぬ」
最後まで話すと、ラジェットは深い溜息をついた。
「分かりました、あなた」
叔母は口ではそう答えたものの、目は家屋証文から離れない。
顔に浮かんだ笑みも、少しも消える気配がなかった。
その一方で、ラジェットの表情は最初から最後まで暗く沈んでいた。
今回の取引により、彼らは再び安定した収入源を手に入れた。
支払った霊石も、真面目に経営を続ければ、二、三年で取り戻せる。
どこから見ても、喜ぶべき取引だった。
それなのに、ラジェットの胸には大した喜びが湧いてこない。
脳裏には、先ほどのラインの姿が何度も浮かんでいた。
赤鉄仏舎利を一体手に入れるため、ラインは酒場も竹楼も田畑も使用人も、躊躇なく売り払った。
自らの手で、容易に得られる安穏な暮らしを捨て去ったのだ。
あのまま家産を持ち続けていれば、ラインは多くの引退した精霊使いと同じように、大きな危険を冒すことなく、衣食に困らぬ一生を送ることができた。
しかし、ラインは少しも惜しもうとしなかった。
ラジェットは思わず、自らをラインの立場に置いて考えた。
もし自分だったなら、同じ選択ができただろうか。
答えは、否だった。
自分にはできない。
ラインを嫌悪し、今もなお恨みを抱いているラジェットでさえ、このときばかりは認めざるを得なかった。
(得たものを、迷わず手放せるか……)
(大した覚悟だ)




