7.
ジスにとって、姉とはそういう人だった。
目立つわけではない。
けれど、どこかに必ず一人はいるような人。
成績は優秀で、いつも平然とした顔をしている。
誰のことも理解し、許しているように見えるのに、本当の自分だけは決して見せない。
そんな人だった。
高校時代、姉が自分のノートをコピーさせ、クラスメートに配っていたのは事実だ。
だが、それは決して受験の核心に触れるようなノートではなかった。
基本事項だけ。
簡単な解法だけ。
あるいは、わざと曖昧に書かれた説明だけ。
後で誰かに「貸して」と言われることを見越して、練習用に書いていたノートだった。
そのことを知っている者は誰もいない。
誰にも分からなかった。
姉自身でさえ、そんな素振りは一切見せなかったからだ。
彼女はいつも穏やかに食事をし、おやつをつまみ、
退屈すれば音楽を聴き、ときには絵まで描いていた。
まるで何の焦りも抱えていない人のように。
その胸の内には、いつも同じ言葉があったのだろう。
**「私は、やるべきことをちゃんとやっている。」**
そんな静かな確信を抱いたまま、姉は何事もなかったように笑っていた。
「……そう。そういう態度で来るわけね。」
ジスは唇を尖らせた。
母との電話を切ったあと、胸の奥に残った苛立ちはまだ消えていない。
彼女はベッドの上でスマートフォンを握り直し、すぐに別の番号へ電話をかけた。
「お義兄さん、私です。ジス。」
いつもの少し甘えた声。
語尾を柔らかく伸ばし、小さく笑いを混ぜる。
その声を聞いた瞬間、義兄の声色がぱっと明るくなった。
「ああ、うちの義妹か。」
電話の向こうで笑う気配がする。
「ご飯は食べた? 今日はなんだか元気そうだね。」
「やだ、お義兄さん。」
ジスはくすっと笑った。
「今ダイエット中なんですよ。お義兄さんこそ、お食事されました?」
そして少しだけ声を落とす。
「実は……今日はお天気はいいのに、気分があんまりよくなくて。」
ため息まじりの声を漏らした。
その小さな弱音が、なぜか義兄の心を強くくすぐったらしい。
「えっ、どうしたの!」
急に声が大きくなる。
「誰かうちの義妹を困らせたのか? 嫌なことされた?」
「もう、お義兄さんったら。」
ジスは肩を揺らすように笑った。
「そんなんじゃ、な・い・で・す。」
少し間を置いて、甘えるように続ける。
「それより、お義兄さん。一つお願いを聞いてもらえませんか?」
「お願い?」
義兄は即座に答える。
「もちろん。何でも聞くから、言ってみなさい。」
ジスは微笑みながら、どう切り出そうか一瞬だけ考えた。
けれど結局、遠回しな言い方はやめた。
「……お金、貸してください。」
電話の向こうが一瞬静かになる。
「お金?」
義兄の声に戸惑いが混じった。
「急にどうしたんだ。まさか……何か困ったことに巻き込まれてるんじゃないよね?」
「違います、違います。」
ジスは慌てたように笑う。
「ただ、急いで買いたいものがあるだけなんです。」
「そういうことなら問題ないよ。」
義兄の声はすぐに柔らかく戻った。
「それで、いくら必要なんだ?」
彼は理由を詮索しようとはしなかった。
けれどジスは、自分から話すことにした。
「実は、パソコンを一台買いたくて。」
指先でシーツをなぞりながら続ける。
「できればマイクとかカメラも揃えたいんです。」
そのあとジスは、自分がこれから始めたい仕事について簡単に説明した。
動画配信。
文章を書く仕事。
まだ形にもなっていない将来の話。
義兄は最後まで黙って聞いていた。
そして何でもないことのように言った。
「そんなことなら、もちろん応援するよ。」
笑いを含んだ明るい声。
「うちの義妹の将来への投資なんだから。」
少し誇らしげに続ける。
「それで、結局いくらあれば足りる?」
義兄から借りた金を握りしめ、ジスは家電量販店ではなく、小さなパソコンショップへ向かった。
店内には新品の機械の匂いが漂っている。
彼女は迷うことなく、デスクトップパソコン一式を現金で購入した。
さらにオーディオ機器、マイク、カメラまで揃える。
頭の中には、すでに一つの計画があった。
あとは、本当に始めるだけだった。
対応した店員は、ジスと同じくらいの年齢に見えた。
伝票を書き終えると、彼は少し驚いたような顔で言った。
「もしよければ、今日このまま設置までしますよ。」
「えっ、本当ですか?」
ジスが目を丸くすると、彼は照れくさそうに笑った。
「車もあるので、運べますから。」
そう言って、わざわざ店の外へ車を回してきた。
助手席のドアまで開けてくれる。
ジスは笑顔で頭を下げた。
「ありがとうございます。じゃあ、私の家まで案内しますね。」
店員は頬をかきながら小さく笑った。
「そんなふうに言ってもらえたら、むしろ僕のほうがありがたいですよ。」
初対面の相手にまで自然と笑顔を向けさせてしまう。
ジスは昔から、そういうところがあった。
狭いワンルームに着くと、店員は手際よく機材を運び込み、配線を始めた。
壁際に机を寄せ、モニターを置き、ケーブルを一本ずつ繋いでいく。
やがて彼は壁の端子を確認して顔を上げた。
「よかった。この建物、インターネット回線もう来てますね。」
そのまま設定まで済ませ、接続確認まで丁寧に終えてくれた。
すべて終わった頃には、夕方の光が部屋の床へ細長く伸びていた。
「お疲れさまでした。」
ジスは冷蔵庫を開け、小さく困った顔をする。
「これ、帰りにどうぞ。」
差し出したのは飲み物ではなく、一本の棒アイスだった。
店員は少し驚いたあと、嬉しそうに受け取る。
「ありがとうございます。いただきます。」
「家に水しかなくて……。」
ジスは照れ笑いを浮かべた。
「気をつけて帰ってくださいね。」
「はい。何かあったらまた連絡してください。」
玄関のドアが閉まる。
部屋は急に静かになった。
新品のパソコンだけが、低い起動音を立てている。
ジスは椅子に座り、モニターの光を見つめた。
インターネット配信用のチャンネルを作成し、プロフィールを書き、カメラの位置を何度も調整する。
マイクに向かって小さく挨拶をしてみる。
最初の配信ボタンを押した瞬間、胸が少しだけ高鳴った。
これで変われるかもしれない。
姉とは違う人生を、本当に始められるかもしれない。
そんな期待があった。
だが、一か月後。
画面に表示される数字は、ほとんど変わらなかった。
視聴者は増えない。
反応も少ない。
配信を終えたあとに残るのは、機械の冷たい光と、自分の呼吸音だけだった。
思い描いていた未来は、まだどこにも見えていなかった。
「どうして……。」
深夜の部屋に、ジスの声だけが小さく響いた。
「どうして誰も登録してくれないの?」
何日経っても、彼女の配信チャンネルの数字はほとんど動かなかった。
雑談をする。
食べたものを映す。
今日あった出来事を話す。
そんな、どこにでもある配信ばかりだった。
画面の向こうには誰もいない。
再生数だけが冷たく表示されている。
ジスは机に突っ伏し、唇を噛んだ。
「どうして私は、お姉ちゃんみたいになれないのよ……。」
その瞬間だった。
頭の奥で何かが弾けたような気がした。
姉のようには生きない。
そう誓って家を飛び出したはずなのに、気づけばずっと姉の影を追いかけている。
その矛盾に気づいたとき、不意に別の考えが浮かんだ。
誰も見てくれないなら、見ないではいられないものを作ればいい。
ジスはゆっくりと顔を上げた。
モニターの光が瞳に映る。
まるで新しい世界が開けたようだった。
その日から配信の内容を変えた。
服装を変え、カメラの角度を変え、話し方まで変えた。
すると数字は驚くほど素直に反応した。
再生数が増える。
登録者が増える。
通知が鳴り続ける。
ジスは確かに有名になった。
ただし、それは姉とは正反対の種類の「有名」だった。
コメント欄には毎日のように言葉が流れ込んでくる。
『本当に感じ悪い。そこまでして稼ぎたいの?』
『また始まった。最近、胸までいじった?』
『承認欲求の塊だな。』
見ないようにしようと思っても、文字は勝手に目へ飛び込んでくる。
ジスはスマートフォンを投げ出し、苛立ったように呟いた。
「私の人生に、あんたたち何の関係があるのよ。」
息が荒くなる。
「こういうこと言う人に限って、家に閉じこもって人の悪口ばっかり書いてるんだから。」
以前、偶然読んだ本にこんな一節があった。
人を執拗に貶す感情は、多くの場合、羨望や嫉妬から始まる。
その言葉を思い出すたび、ジスは自分に言い聞かせる。
きっと羨ましいんだ。
本当は自分も注目されたいのに、できないから私を叩いているだけ。
そう考えれば少しは楽になれる気がした。
けれど、どうしても理解できないことがあった。
辛辣なコメントを書いてくる相手の多くは女性だった。
そして男性のコメントの多くは、彼女をからかうような下品な冗談ばかりだった。
羨望なのか。
軽蔑なのか。
欲望なのか。
ジスにはもう分からない。
ただ確かなのは、画面の向こうの無数の視線が、毎日少しずつ自分の心を削っていくということだけだった。




