6.
久しぶりに、姉から連絡が来た。
「法事があるから来て。」
それだけの短いメッセージだった。
どうして自分まで呼ばれたのか、ジスにはよく分からなかった。
それでも、断る理由も見つからず、とりあえず行ってみることにした。
義兄の実家は地方にあるため、まだ夜が明ける前に出発するという。
前日の夜は姉の家に泊まり、翌朝三人で向かうことになった。
窓の外がようやく薄青くなり始めた頃、三人は起き出した。
義兄は夜勤明けだった。
深夜まで働き、そのまま帰宅して、ほとんど休む間もなく運転席に座っている。
その姿を見て、ジスは少しだけ戸惑った。
姉にも運転免許がある。
車だって持っている。
それなのに、なぜ疲れ切った義兄が運転するのだろう。
昨夜の光景を、ジスは思い出していた。
義兄が遅い時間に帰宅したあと、姉は「ちょっと子どもを見ていて」と言い、ソファに座って録画していたドラマを何本も続けて見始めた。
義兄は疲れた顔のまま子どもを抱き上げ、静かに遊び相手をしていた。
車が高速道路へ入っても、ジスは眠らないようにした。
義兄が居眠り運転をしないよう、途切れない程度に話しかけ続ける。
窓の外では、まだ眠ったままの街灯が流れていく。
助手席の姉は毛布を膝にかけ、うとうとしていた。
せめて運転を代わってあげてもいいのではないか。
そんな思いが胸の奥で小さく疼く。
そして、そのたびにジスは姉を少しだけ憎んだ。
後になって、姉はこんなことを言ったことがある。
「だって、私の家じゃなくて義実家へ行くんだもの。運転するのは当然、夫でしょう?」
そのときもジスは返事ができなかった。
けれど心の中では、どうしても引っかかっていた。
では、義実家から実家へ向かうときも、やはり義兄が運転するのだろうか。
もし「夫の家へ行くから」が理由なら、帰り道の理屈はどうなるのだろう。
考えれば考えるほど、うまく噛み合わない。
だがジスには、その矛盾を指摘する言葉が見つからなかった。
ただ、眠気をこらえながらハンドルを握る義兄の横顔を見つめ、
流れていく暗い窓の外を黙って眺めていることしかできなかった。
姉が義実家で料理の支度をしているあいだ、ジスもできる範囲で手伝った。
義兄は夜勤明けの疲れた体を引きずるようにして部屋へ入り、そのまま横になった。
帰りの車の中で、姉はそのことを直接責めはしなかった。
けれど、窓の外を見ながら漏らす言葉の端々には、棘のようなものが混じっていた。
義兄は、もう慣れているのだろう。
小さく「ごめん」と謝り、姉の機嫌を損ねないよう静かに気を遣っていた。
ジスはぼんやりと思う。
母の世代は、正月も法事もすべて自分たちで切り盛りしていた。
台所に立ち続け、親戚に頭を下げ、休む暇もなく働いていた。
それに比べれば、姉の世代も自分たちの世代も、ずっと自由で、ずっと楽になっている。
そのことだけは確かだった。
姉が口にする「男女差別」は、本当にそれだけなのだろうか。
義父は姉を可愛がっている。
問題になるのは、たいてい義母との関係だ。
そして「不公平だ」と怒り、「女らしさ」を否定しながら、愛嬌のある可愛い女性を批判していた人たちの多くも、結局は女性だった。
そんなことを考えるたび、ジスの胸には言葉にできない違和感だけが残った。
ある夜、ジスは泥酔したまま自分の部屋へ戻ってきた。
面接には何度も落ちた。
かろうじて続けていた仕事も、思うようにはいかなかった。
靴を脱ぐのも乱暴になり、鞄を床へ投げ出す。
胸の奥に溜まっていた苛立ちが、酒の熱で一気に膨れ上がっていく。
気づけばスマートフォンを掴み、姉へ電話をかけていた。
コール音が数回鳴ったあと、姉はいつもと変わらない声で出た。
「ジス? どうしたの。何かあった?」
その落ち着いた声を聞いた瞬間、ジスの中で何かが切れた。
「そうよ。」
息が荒くなる。
「全部、お姉ちゃんのせいだから。」
一瞬、電話の向こうが静まり返る。
「……え?」
姉の短い問い返しだけが、冷たく耳に残った。
「お姉ちゃんは、一体何がそんなに不満だったの?」
ジスの声は、酒で熱く濁っていた。
「本当は何が不満だったのよ。よく考えてみれば、お姉ちゃんは公務員になるのだって、就職するのだって、今ほど大変じゃなかったでしょう?」
言葉が止まらない。
「受験競争だって、今みたいにこんなに激しくなかった。あの頃は、首都圏の大学を出ただけでも、もっといい大学を出ればなおさら、すごく優遇された時代だったじゃない。」
呼吸が荒くなる。
「でも、今は違う。私は家の顔色ばかりうかがって、大学にだって行けなかったんだから……。」
興奮したまま吐き出した言葉を、姉は冷たい声で遮った。
「それが、私のせいだって言うの?」
一拍置く。
「本当にそう思ってるの、ジス。」
「そうよ!」
ジスは叫んだ。
「そう思ってるから言ってるんじゃない!」
「お酒飲んでるでしょう。」
姉の声は低く、静かだった。
「自分が勉強できなかったことまで、人のせいにしないで。」
さらに続ける。
「私だって、ずっと楽だったわけじゃない。親の期待だって……。」
そこまで言ったところで、ジスは耳を塞ぎたくなるほどの声を上げた。
「うるさい! うるさいって言ってるでしょ!」
姉はため息を押し殺すように言う。
「今電話をかけてきたのは、私じゃなくてあなたよ。」
「とにかく!」
ジスは言葉を重ねた。
「周りの話を聞いてると、職場の上司ってお姉ちゃんくらいの世代の人が多いんだよ! しかも、その人たちが一番ひどいって!」
「何を言ってるの。」
姉の声に呆れが滲む。
「子どもみたいなことばかり言わないで。かなり酔ってるわね。」
少し間を置いて、疲れたように続けた。
「分かったから、もう寝なさい。」
姉は完全にうんざりしているようだった。
ジスが普段からそんなことを考えているのも、おそらく薄々気づいていたのだろう。
このまま適当に宥めて、電話を切るつもりなのだ。
その態度が、ジスには余計に腹立たしかった。
「寝るのはそっちでしょ!」
ジスはほとんど叫んでいた。
「おかしなこと言ってるのはお姉ちゃんのほうだよ! まるで自分だけ被害者みたいに!」
息を切らしながら、最後の言葉を吐き捨てる。
「とにかく、私はお姉ちゃんみたいには絶対ならないから。せいぜい見てなよ!」
そのままスマートフォンを勢いよく放り投げた。
しかし、落ちた先は布団の上だった。
鈍い音を立てて沈み込み、壊れることもなく静かに止まる。
部屋には荒い呼吸だけが残った。
翌朝。
耳障りな着信音で、ジスは目を覚ました。
頭が重い。
口の中は乾ききっている。
薄く目を開けたまま、手探りでスマートフォンを掴んだ。
「……もしもし。」
受話器の向こうから、怒気を含んだ女性の声が飛んでくる。
「あなた、今ちゃんと正気なの? そうじゃないの?」
寝ぼけたままのジスは眉をひそめた。
「……どちら様ですか。」
目も開けられないまま、ジスは布団にうつ伏せになり、受話器の向こうの声を必死に思い出そうとした。
「お酒を飲むなら、ちゃんと飲みなさい。」
苛立った女の声が耳に刺さる。
「お姉ちゃんに、あんな言い方をするなんて、どういうつもりなの?」
「お姉ちゃん」という言葉を聞いた瞬間、ジスは跳ね起きた。
乱れた髪が頬に張りつく。
そこでようやく、相手が母だと気づいた。
「私、何も間違ったこと言ってないけど!」
寝起きの掠れた声で叫ぶ。
「私の言ってること、間違ってないでしょ!」
「まだそんなことを言ってるの?」
母は呆れたように息をついた。
「あなたは小さい頃からそうだった。お姉ちゃんに譲ることも、負けてあげることも当たり前なのに、いつも張り合って、勝とうとして、一人で競争して、一人で劣等感を抱えていたじゃない。」
その言葉は、眠気の残る頭に鈍く響いた。
「お母さんの娘って、お姉ちゃん一人だけなの?」
ジスの声が震える。
「どうして私ばっかり譲らなきゃいけないの!」
「またわけの分からないことを言って。」
母は強引に話題を変えた。
「そんなことより、最近どこで何をしてるの?」
「お母さんには関係ないでしょ。」
ジスは唇を噛んだ。
「ちゃんとやってるから心配しなくていい。お母さんは、お姉ちゃんと仲良くしてればいいじゃない。」
言い終わる前に、ジスは乱暴に通話を切った。
部屋が静まり返る。
スマートフォンを握りしめたまま、ジスは吐き捨てるように呟いた。
「……ほんと卑怯。」
喉の奥が熱くなる。
「すぐお母さんに言いつけるんだから。」
その言葉は怒りというより、子どもの頃から胸の奥に沈んでいた寂しさの残り火のようだった。




