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5.

姉とは違う人生。


 それだけが、あの頃のジスの支えだった。


 姉は、ジスが家を出たことを知っていた。


 それでも、自分から連絡をしてくることは一度もなかった。


 家では勉強さえできて、親の言うことさえ聞いていれば、それだけで十分に愛されてきた姉。


 何不自由なく、大切に育てられてきた。


 だからこそ、社会へ出て初めて他人と比べられ、自分の限界や現実に直面したとき、「自分は不幸だ」と口にするようになったのではないか。


 ジスには、そんなふうに思えてならなかった。


 どこか、不公平だとも感じていた。


 実際、姉は社会へ出ても長く働くことはなかった。


 短い社会人生活を送っただけで職場を離れ、その後もしばらく仕事には就かなかった。


 それなのに、自分より苦しい立場にいる女性も、男性も、この世にはいくらでもいるということを、どうして知らないのだろう。


 ジスは考える。


 もしかすると、それは友人の少なさと関係があるのかもしれない。


 自分とは違う人生を歩む人たちの話を聞く機会が少なかった。


 悩みや価値観を本音で語り合える相手も、あまりいなかった。


 だから世界が、自分の見えている範囲だけになってしまったのではないか。


 そんな気がしていた。


 今の姉は、子どもが少し大きくなると保育園へ預け、母親同士が集まるコミュニティへ顔を出すようになった。


 美容のためにエステへ通い、ときにはベビーカーを押しながら街を歩く。


 生活費は、義兄から渡されたカードで支払っていた。


 穏やかで、何不自由ない毎日。


 少なくとも、周囲の人々にはそう映っていた。


 それでもジスは思う。


 姉は、きっとまた社会へ戻る。


 子育てだけで満足できる人ではない。


 仕事に対する執着もある。


 そして何より、人に負けたくないという気持ちが誰よりも強い。


 子どもがいるから。


 家庭があるから。


 そんな理由だけで、自ら仕事を諦めるような人間ではないことを、ジスは誰よりもよく知っていた。



 家を出てからのジスは、お金こそなかったものの、不思議と気持ちは自由だった。


 身を寄せたのは、一年前に別れた恋人の家だった。


 三歳年上の彼とは久しぶりの連絡だったが、突然電話をかけても迷惑そうな声ひとつ返ってこなかった。


 それどころか、


「久しぶり。元気だった?」


 そう言って笑ってくれた。


 彼には、それ以来ずっと恋人がいなかった。


 二人が別れたのも、嫌いになったからではない。


 すれ違いが積み重なり、自然と距離ができてしまっただけだった。


 少なくともジスにとって彼は、世間で言うような「どうしようもない男」でも、「性格の悪い人」でもなかった。


 配送会社で働く、ごく真面目な人だった。


 ある休日、冷蔵庫の中を補充しようということになり、二人で近くのスーパーへ買い物に出かけた。


 果物を選び、夕食のおかずを買い、最後に十キロ入りの米袋まで購入した。


 帰り道。


 荷物をすべて持っていた彼の表情が、ふっと曇る。


「どうしたの?」


 ジスは首を傾げた。


「重いの?」


 配送の仕事をしている彼にとって、これくらいの荷物は何でもない。


 ジスは、そう思い込んでいた。


「いや。」


彼は苦笑して首を振る。


「こんなの、仕事に比べたら全然重くないよ。」


 そう言いながらも、その手はすでに赤くなっていた。


 ビニール袋の持ち手が指に深く食い込み、関節には赤い跡がくっきりと残っている。


 十キロの米袋も、右手から左手へ、何度も持ち替えていた。


「その袋、私が持つよ。」


 ジスが手を差し出すと、彼は少し困ったように笑った。


「……ごめん。」


 少し言いにくそうに視線を逸らしてから、小さく続ける。


「実は、腰をちょっと痛めちゃってさ。」


「腰?」


「うん。仕事中に少しやっちゃったみたいで。だから今日は休みを取ったんだ。」


「そんなに大変なの?」


 彼は肩をすくめる。


「配送の仕事なんて、どこもこんなものだよ。」


 そう言って笑う顔は、なぜか申し訳なさそうだった。


 謝られる理由なんて、どこにもないのに。


 それでも彼は、自分が弱音を吐いてしまったことを気にしているようだった。


 ジスは、その横顔を見つめながら、ふと気づく。


 毎日、何十個もの荷物を運び続ける人でも。


 十キロの米と、買い物袋をいくつも抱えれば、やはり重いのだ。


 疲れるのだ。


 痛いものは、痛いのだ。


 当たり前のことなのに、ジスはその日まで一度も考えたことがなかった。


 しばらく黙って歩いたあと、ジスは静かに尋ねた。


「……それ、本当に重い?」


 彼は少し驚いたようにジスを見て、それから柔らかく笑った。


「え?」


「もちろん重いよ。」


 そう答えたあと、米袋を抱え直しながら続ける。


「ジスにはもっと大変だから。」


「俺は大丈夫。」


「だから、これは俺が持つよ。」


 その言葉を聞いた瞬間、ジスは胸の奥が少しだけ痛んだ。


 「男だから平気。」


 そんなふうに決めつけていたのは、世間だけではなかった。


 自分もまた、知らないうちに同じ思い込みを抱いていたのかもしれない。


 そのことに気づいたのは、赤く跡の残った彼の指先を見つめた、あの日が初めてだった。


ジスは、彼の肩に担がれた米袋を指先で軽くつついた。


「貸して。」


 二人の身長はほとんど変わらない。


 ジスは百六十八センチあり、並んで歩けば見上げるほどの差はなかった。


 だからこそ、自分にも持てると思った。


 彼は困ったように笑う。


「いや、大丈夫だから。」


 しかしジスは引かなかった。


 その場に立ち止まり、両手を差し出したまま動こうとしない。


 まるで米袋を渡してもらうまで、一歩も歩くつもりはないという顔だった。


 彼は苦笑すると、小さく息をついた。


「……じゃあ、三秒だけ。」


「うん。」


 次の瞬間。


 彼の肩から十キロの米袋が、そっとジスの肩へ移された。


 ずしり。


 その重みは、想像していたものとはまるで違った。


 肩が沈む。


 膝が震える。


 体の奥から痙攣のような力が走り、その場へ崩れ落ちそうになる。


 三秒どころではなかった。


 一秒も経たないうちに、米袋は再び彼の腕の中へ戻っていた。


「どう?」


 彼は笑いながら尋ねる。


「重いでしょ?」


 ジスは何も言えず、小さくうなずいた。


 すると、不思議なことに彼の表情が少しだけ柔らかくなった。


 どこか安心したような、肩の力が抜けたような笑顔だった。


「仕事でも……。」


 ジスは思わず敬語になっていた。


「仕事でも、いつもあんな荷物を運ぶんですか?」


「そうだよ。」


「じゃあ、重いものを持つことに慣れたら、もう重く感じなくなるんですか?」


 彼は少し目を丸くして、それから笑った。


「そんなわけないよ。」


 首を横に振る。


「五キロでも十キロでも、重いものは重い。」


「じゃあ、どうやって……。」


「どうやってって?」


 彼は照れくさそうに笑った。


「我慢して運ぶだけだよ。」


 その一言は、とても静かだった。


 自慢でもなければ、愚痴でもない。


 ただ、それが自分の日常なのだという事実を口にしただけだった。


 きっと姉には、一生分からない世界だろう。


 そう思った。


 ジスは急に笑顔になると、彼が持っていた果物の袋をひったくるように受け取った。


「じゃあ、これは私!」


 そう言って笑うと、彼もつられるように笑った。


 もし、この人が勉強のできる人だったら。


 もし、誰もが羨むような才能を持っていたら。


 もし、生まれ育った家に十分なお金があったなら。


 この人の人生は、少し違っていたのだろうか。


 そんなことを、ジスはぼんやり考えた。


 ジスも、ネット通販が好きだった。


 注文した荷物が届く日を、子どものように楽しみに待つこともある。


 けれど、その箱を玄関まで運んでくれる人がいる。


 重い荷物を抱え、雨の日も、暑い日も、寒い日も歩き続ける人がいる。


 もし誰もが、苦しい仕事を嫌だと言って辞めてしまったら。


 もし誰もが、自分の好きなことだけを選んで生きるようになったら。


 あの荷物は、いったい誰が届けてくれるのだろう。


 そんな当たり前のことを、ジスは初めて真剣に考えた。


 その日の夜、ジスは夕食を作った。


 料理は決して得意ではない。


 味見をしても、自分ではあまり納得がいかなかった。


「ごめんね、あんまりおいしくないかも。」


 そう言うと、彼は首を振った。


「そんなことないよ。」


 特別に褒めるわけでもなく、かといって不満を口にすることもない。


 黙って箸を進め、最後まできれいに食べてくれた。


 自分のほうが料理は上手だ、などと口にすることもなかった。


 その静かな優しさは、どんな褒め言葉よりも、ジスの心に深く残った。



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