4.
ジスは、姉とは決定的に違うところがあった。
友人が多かったこと。
そして、その中には男友達も少なくなかったことだ。
姉はいつも「男性」という存在を社会全体の話として語っていたが、ジスは違った。
彼らがどんな毎日を送り、何に悩み、何を我慢して生きているのか。
それを知りたいと思っていた。
これまで付き合った恋人たちも、似たような話をよく口にしていた。
「会社で仕事を押しつけられるんだ。」
「重たい荷物を運ぶのは、いつも俺。」
「上司が気を遣わない人でさ。それが逆につらいんだよ。」
最初は、ただの愚痴なのだと思って聞いていた。
けれど話を聞けば聞くほど、それは単なる不満ではなかった。
本来なら自分の仕事ではないものまで押しつけられ、終わりの見えない業務に追われる。
重い荷物を運び続けたせいで腰を痛めたり、体のどこかを壊してしまったりする者もいた。
そんな話は、一人や二人ではなかった。
「だったら、嫌だって言えばいいじゃない。」
ジスは素直な疑問を口にした。
すると彼は苦笑しながら首を振る。
「それが、言うほど簡単じゃないんだよ。」
「……そうなの?」
社会へ出たことのないジスには、その一言がどうしても理解できなかった。
嫌なら断ればいい。
そのはずなのに、大人たちは皆、口をそろえて「それができない」と言う。
その理由だけは、どうしても分からなかった。
男と女を比べ、不平等や差別について語り続けてきた姉。
そんな姉は、一生結婚などしない人なのだと、ジスはどこかで思い込んでいた。
しかし、その予想はあっさりと裏切られる。
ジスが大学へ進学した頃。
三十歳になった姉は結婚した。
相手は、世間から見ても申し分のない人物だった。
端正な顔立ちで、将来を嘱望される若い弁護士。
すでに姉自身も名の知られた存在になっており、その結婚は周囲から祝福をもって迎えられた。
さらに結婚から一年も経たないうちに、姉は第一子を授かった。
そして、その頃からジスには、姉の様子にいくつか違和感を覚える出来事が増えていった。
ある日、二人で家でテレビを見ていたときだった。
妊婦について特集した番組が流れている。
姉は画面を見つめたまま、不意にぽつりと呟いた。
「妊娠すると、つわりがあったり、急に食べたいものが変わったりするっていうでしょう。」
一度言葉を切る。
「でも……私は、そういうのは違う気がするの。」
あまりにも唐突な言葉だった。
ジスは意味が分からず、隣に座る姉の横顔をただ見つめることしかできなかった。
姉がその言葉に何を込めたのか、そのときのジスには、まだ知る由もなかった。
ある日、二人でテレビを見ていると、妊婦についての特集番組が流れ始めた。
画面を見つめていた姉が、不意に口を開く。
「赤ちゃんって、まだ味なんて分からないでしょう。匂いが気持ち悪いとか、そんなことも分からないはずなのに……。」
そのまま視線をテレビに向けたまま続けた。
「急に辛いものが食べたくなったとか、酸っぱいものが欲しくなったとか、今まで嫌いだったものを食べたくなるとか……あれって少し無理があると思わない?」
少し鼻で笑うように言う。
「つわりだってそう。結局は、自分を特別扱いしてほしいから言っているだけなんじゃない?」
ジスは思わず首をかしげた。
「違うよ、お姉ちゃん。」
学校で習ったことを思い出しながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「赤ちゃんがお腹の中で動いたり蹴ったりするでしょう? 胎動っていうんだけど、お母さんと赤ちゃん、二人分の栄養が必要になるから、そういう変化が起きるって習ったよ。」
最後まで聞き終える前に、姉は鋭い声を上げた。
「ジス!」
部屋の空気が一瞬で張りつめる。
「そんなの全部嘘よ。」
姉は言い切った。
「もし私が妊娠したとしても、私は絶対にあんなことはしない。」
その言葉は妙に強く、どこか自分自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。
実際に姉が妊娠してからも、その考えは変わらなかった。
お腹が大きくなり、動きづらそうにしていることはあっても、それ以外に目立った変化は見せなかった。
つわりを訴えることもない。
突然何かを食べたいと言い出すこともない。
以前、自分が口にした言葉を証明するかのようだった。
ジスは時折、その姿を見ながら思うことがあった。
もし姉が少しでも吐き気を訴えたり、急に食欲が増えたりしたら、あの日の言葉をそのまま返してやりたい。
そんな気持ちが胸をよぎることもあった。
だが、そのたびに思いとどまる。
姉ではなく、お腹の中にいる子どもには何の罪もない。
そう思うと、結局何も言えなかった。
義兄は、とても穏やかな人だった。
姉が何も口にしなくても、
「何か食べたいものはない?」
「欲しいものはある?」
「仕事の帰りに買ってくるよ。」
そう声を掛ける人だった。
一日中仕事に追われ、疲れた体で帰宅したあとですら、まず気遣うのは妻のことだった。
家を守ってくれている姉のためなら、それくらいは当然だと言わんばかりに。
ジスがそんな義兄の優しさを知っていたのには理由がある。
こうしたことがあるたび、義兄は決まってジスへ電話を掛けてきたからだ。
「夜遅くにごめんね、義妹さん。」
「いえ、大丈夫ですよ。」
「寝てたところじゃなかった?」
「大丈夫です。どうかしましたか、お義兄さん。」
少し照れたように笑ってから、義兄は本題を切り出す。
「実はね、お姉さんが急に果物を食べたいって言い出してさ。」
「え?」
「普段、何が好きだったかなって思って。」
「ああ……。」
そんな電話は一度や二度ではなかった。
「お姉さんの好きな食べ物って何かな。」
「前に欲しいって言っていたもの、何か覚えてる?」
義兄はいつも、姉のことばかりを気に掛けていた。
そして電話を切る前には、決まって優しく付け加える。
「義妹さんも、食べたいものがあったら遠慮なく言ってね。」
一呼吸置いて、照れくさそうに笑う。
「欲しいものでもいい。僕が買えるものなら、何でも買ってあげるから。」
その言葉を聞くたびに、ジスは思ってしまう。
**姉は、本当にこの人と結婚して幸せなのだろうか。**
それとも、幸せというものさえ、自分の考えで否定してしまうのだろうか。
義兄は、ジスをとても可愛がってくれた。
その理由を考えるたび、ジスは思う。
姉と結婚したことへの、どこか拭いきれない同情。
そして、それだけでは説明できない何かがあったのではないかと。
学生時代から、ジスは姉とは違っていた。
「かわいいね。」
「本当に愛嬌がある。」
そんな言葉を、友人や知り合い、これまで付き合ってきた恋人たちから何度も掛けられてきた。
甘えること。
人に優しく接すること。
言葉を柔らかく選び、明るく笑うこと。
姉には、どれも苦手なことだった。
ジスは、それを演技だとは思っていない。
人と心地よく生きていくための振る舞い。
生きていくうえで、ときには必要な技術なのだと思っていた。
そして、それは女性だからこそ持てる一つの強みでもある。
ジスは、そう信じていた。
姉を見ていると、時々思うことがある。
自分に与えられたものを使おうともせず、自分には向いていない生き方ばかりを選び、そのたびに人生を恨み、不幸だと嘆く。
どうして、そんな生き方しかできないのだろう。
正直に言えば、愚かだと思った。
けれど現実は、ジスの考えとは違っていた。
姉は世間の注目を集め、多くの人に名前を知られる存在になっていた。
SNSでは共感や同情を集め、現実でも支持する人が増えていく。
そのうえ、誰もが羨むような夫まで手に入れた。
それを見ていると、ふと自分の考えのほうが間違っているのではないかと思う瞬間さえあった。
人というものは、本当に不思議だ。
この世界もまた、理解できないことばかりだった。
嫌だと言いながら、その嫌な話をわざわざ探しに行く。
腹を立て、傷ついたと言いながら、何度も同じ場所へ戻ってくる。
たとえ、それが誹謗中傷で埋め尽くされた場所だったとしても。
読まなければ済む話なのに。
見なければ、それで終わるはずなのに。
それでも人は、自ら傷つきにいく。
ジスには、その理由が最後まで分からなかった。
姉のことが嫌いだった。
だからこそ、姉とは正反対の人生を歩もうと決めていた。
二十歳になった頃、ジスはほとんど何も持たずに家を飛び出した。
将来の計画などなかった。
仕事も、住む場所も、何一つ決めていなかった。
あの家を出た先に何が待っているのか。
それが自分の人生をどう変えるのか。
そんなことは考えもしなかった。
ただ一つだけ確かなことがあった。
**姉と同じ人生だけは、絶対に歩みたくなかった。**




