3.
ジスは、姉の学校から電話があったことを母に伝えようともしなかった。
そのときは大したことだとは思わなかったからだ。
けれど、母が電話口で次第に表情を曇らせていくのを見ているうちに、何を話しているのか気になって仕方がなくなった。
母のすぐ隣まで歩み寄ると、聞こえるはずもない受話器に耳を近づけるように背伸びをした。
もちろん、先生の声はほとんど聞き取れない。
それでも、とぎれとぎれに言葉だけが耳へ届いた。
「ですから、お母様……。
高校三年生という時期でもありますし、生徒同士の対抗意識もございます。
それに、お嬢さんは人から頼まれる
と断れない性格で、怒ることもできないお子さんです。
このままでは勉強に支障が出るのではないかと心配になりまして、ご連絡いたしました。」
「そうでしたか……。ご連絡いただいて、本当にありがとうございます。」
母は安堵とも困惑ともつかない声で答えた。
ジスが隣で不思議そうに見上げていることなど、まるで気にも留めていない。
「そうですか……先生。あの子が、どうしてそんなことをしたのか、私にも見当がつきません。」
受話器の向こうから、担任は静かな口調で続ける。
「ともかく、ご家庭でも少し様子を見てあげてください。よろしくお願いいたします。」
「もちろんです。本当に申し訳ありません。そして、ご連絡ありがとうございました。」
母は何度も頭を下げるように礼を言い、静かに受話器を置いた。
電話が切れたあとも、その表情は晴れることはなかった。
部屋には、どこか重苦しい沈黙だけが残っていた。
そして夕食の時間。
食卓には母と姉、それにジスの三人が向かい合って座っていた。
カレーの香りが部屋いっぱいに漂っているというのに、空気は妙に張り詰めている。
しばらく無言のまま食事を続けていた母が、不意に箸を止めた。
「ねえ。」
その一言で、食卓の空気がぴたりと止まる。
「今日ね、あなたの担任の先生から電話があったの。」
姉はスプーンを持つ手を止めることもなく、まるで機械のように抑揚のない声で答えた。
「そうですか。……何とおっしゃっていましたか?」
その隣で、何も知らないジスだけは夢中でカレーをご飯に混ぜ、頬いっぱいに頬張っている。
母は娘の顔をじっと見つめたまま、静かに問いかけた。
「……あなた、学校で友達と一緒にタバコを吸ったの?」
「違います。」
姉は先ほどと何ひとつ変わらない口調で答えた。
抑揚のない声。
そのまま何事もなかったかのように、スプーンでカレーをすくい、口へ運ぶ。
母はそんな娘をじっと見つめたあと、小さく息を吐いた。
「お母さんはね、タバコを吸ったことくらいで怒っているわけじゃないの。」
一度言葉を切る。
「もちろん褒められることではない。でも、それくらいなら分かるのよ。」
母の声は少しだけ柔らかくなる。
「それよりも、お母さんが心配なのは、あなたが学校でいじめられているんじゃないかってこと。」
「……違います。」
姉は短く答えた。
「そんなことはありません。」
「だったら、どうして友達の宿題を代わりにやったの? どうして自分でまとめたノートをコピーして、クラスのみんなに配ったの?」
母の声は一気に鋭さを増した。
九歳のジスには、何が起きているのか分からない。
母と姉がこんなふうに向き合う姿を見るのは初めてだった。
大きな黒い瞳を何度も瞬かせながら、母と姉の顔を交互に見つめる。
胸の奥がそわそわして、理由も分からないまま不安になる。
手の中のスプーンを落としてしまわないよう、小さな指に力を込めてぎゅっと握りしめた。
「タバコは……。」
姉はまるで世間話でもするかのような口調でそう言うと、キムチを一切れ口へ運び、水をひと口飲んでから静かに続けた。
「男子が、『吸ってみろよ』って渡してきたんです。」
少し間を置く。
「それから、ノートのコピーは……。」
「何ですって?」
母の声が食卓に響いた。
「そんなのが理由なの? 渡されたって、吸わなければいいじゃない!」
母は机を叩きそうになるのを堪えるように拳を握る。
「ノートだって、どうしてコピーさせたの? 宿題まで、どうしてあなたが代わりにやる必要があるの!」
姉は表情ひとつ変えなかった。
「男子が吸えと言ったから吸いました。」
「コピーは女子が欲しいと言ったから渡しました。」
「宿題も、やってほしいと言われたのでやっただけです。」
あまりにも迷いのない返答だった。
そこには言い訳をしている様子も、反省している様子もない。
ただ事実だけを順番に並べているような声音だった。
その答えを聞いた母は、信じられないというように額へ手を当て、大きくため息をついた。
「はぁ……。」
力任せにコップへ水を注ぐ。
勢い余った水は縁を越え、透明な雫となって食卓へ広がっていった。
ゆっくりと広がる水たまりを、ジスはしばらく黙って見つめていた。
何も言わず椅子を降りると、小さな足で台所へ向かい、雑巾を持って戻ってきた。
その場で水を拭き始める幼い背中を見ても、母も姉も、誰一人として口を開こうとはしなかった.
テーブルに置かれた母の手が、小さく震えている。
ジスは、その震えを見逃さなかった。
それでも姉は何事もなかったように、ご飯とカレーを静かに混ぜ、黙々と口へ運んでいる。
まるで、自分だけが別の時間を生きているような表情だった。
幼いジスは二人の顔色をうかがいながら、食卓にこぼれた水を懸命に拭き続ける。
そんなジスの姿に気づいた母は、小さく肩を震わせると、努めて優しい声を出した。
「ジス、その雑巾はお母さんに渡して。あなたはご飯を食べなさい。」
「うん。」
ジスは素直にうなずき、雑巾を母へ渡すと、自分の席へ戻った。
拭きかけの雑巾を受け取った母は、水滴をゆっくりと拭き取りながら、二人に語りかけるように静かな声で言った。
「誰かに言われたとしても、自分がやりたくないことまで無理にする必要はないのよ。」
少しだけ手を止める。
「嫌なら、嫌だと言いなさい。」
そして、自分に言い聞かせるように続けた。
「……この社会では、それができなければ生きていけないの。」
幼いジスには、その言葉の意味は分からなかった。
それでも母の真剣な表情だけは伝わってきて、何度もうなずきながら、
「うん、分かった。」
と答えた。
しかし、姉の口から返ってきたのは、まったく別の言葉だった。
「社会って、本当に不公平ですよね。」
姉は母を見つめたまま、淡々と続ける。
「お母さんだって、嫌だとは言えなかったじゃないですか。」
一瞬の沈黙。
そして姉は、まるで今までの会話とは無関係であるかのように微笑み、
「でも、お母さんの作るカレー、本当においしいです。」
と言った。
母はしばらく何も答えられなかった。
やがて小さく息をつき、かすかに笑みを浮かべる。
「……そうね。」
その笑顔は、どこか寂しげだった。
「まずは、ご飯を食べましょう。」
その日の夜、父が帰宅すると、家の中は小さな騒ぎになった。
居間から聞こえてくる大人たちの声は、閉め切った部屋の扉越しでもはっきりと耳に届いた。
ジスはその声から逃げるように自分の部屋へ入り、スケッチブックを広げる。
色鉛筆を手に取り、笑顔の家族を描いた。
仲良く並ぶ四人家族。
父がいて、母がいて、自分がいて。
そして、一番大きく描かれていたのは姉だった。
母は結婚を機に、長年勤めていた会社を辞めた。
あの時代は、それが当たり前だった。
嫁げば夫の家に尽くすものだと言われ、実家へ帰れば「夫を立てなさい」と繰り返し言い聞かされた。
法事や祭祀のたびに、嫁として誰よりも働くことが求められた。
夫の妹は結婚して家を離れ、義実家で母を助けてくれる人は誰一人いなかった。
だからこそ、あの食卓で娘たちに向けて口にした言葉は、本当は二人のためだけではなかったのかもしれない。
「嫌なことは、嫌だと言いなさい。」
あれは、若かった頃の自分自身へ、何十年もの時を越えてようやく掛けることのできた、遅すぎる言葉だったのかもしれなかった.




