2.
ジスの姉――ジソンは、有名な人物だった。
もちろん、生まれつき名を知られていたわけではない。
ただ、いつしか彼女の名前は学校の誰もが知るものとなり、その存在は学年を越えて語られるようになっていた。
ジソンは、誰よりも勉強ができた。
努力を重ねたことは間違いない。
しかし、それ以上に、生まれ持った才能と運に恵まれた人間でもあった。
そして何より、彼女は群を抜いて頭の回転が速かった。
数年に一人現れるかどうかと言われるほどの秀才。
テレビの特集番組で取り上げられても不思議ではない。
そんな評価を受けるほどの生徒だった。
運動は得意ではなく、人前で話すことにも慣れていない。
けれど、文章を書かせれば、彼女に敵う者はいなかった。
言葉を紡ぐ才能だけは、誰もが認めていたのである。
その反面、人付き合いはあまり得意ではなかった。
自分から輪に入ることはなく、誰かに自分を売り込むこともしない。
そのため、校内の催しやコンテストで実力を発揮する機会があっても、彼女の名前を推薦する生徒はほとんどいなかった。
「なあ、俺さ。ジソンの妹のこと、少し知ってるんだ。」
「妹? ジソンに妹なんていたのか?」
「いるよ。妹が一人。ジソンとは全然違うタイプだけど、小柄で、すごく利口な子なんだ。何でも見透かしてるような目をしてる。」
「へえ。でも、なんでそんなに詳しいんだ?」
「俺の弟が、その子と同じクラスなんだよ。」
「そうだったな。お前の弟、一つ下の学年だったか。」
生徒たちは声を潜めながら話を続け、ときおりジソンへ視線を向けた。
羨望。
好奇心。
そして、ほんの少しだけ悪意。
その視線には、さまざまな感情が入り混じっていた。
理由は単純だった。
勉強ができる者は、それだけで人と距離を置かれる。
しかもジソンは問題を起こすこともなく、人を見下すこともなければ、自分の才能を誇示することもなかった。
そういう人間ではなかったし、そもそも、そんな振る舞い方すら知らなかった。
だからこそ、人は彼女を尊敬しながらも、どこか遠い存在として見つめていた。
誰もが彼女の名前を知っている。
けれど、本当の意味で彼女を知る者は、一人もいなかった。
授業が始まれば誰よりも真面目に机へ向かい、音楽の時間になれば静かに歌い、美術の時間には黙々と絵を描く。
試験の日になれば、いつもと変わらぬ表情で問題用紙に向き合った。
どこにでもいる、ごく普通の生徒。
そう見えるはずだった。
ただ一つ違っていたのは、昼食だけはいつも一人だったということだ。
クラスメートは彼女を陰で笑うこともあれば、まるでそこに存在しない人間であるかのように扱うこともあった。
しかし、誰も彼女をいじめようとはしなかった。
それは優しさからではない。
どこか近寄りがたい空気が、彼女の周囲には漂っていたからだ。
ジソン自身も、そんな学校生活に不満を口にすることはなかった。
ただ毎日、自分のやるべきことをこなし、授業を受け、静かに一日を終える。
それだけを繰り返していた。
そんな彼女には、一つだけ不思議なところがあった。
教師たちは彼女を深く信頼していた。
その一方で、ときおり言いようのない違和感を覚えることもあった。
クラスメートもまた、困ったことがあれば彼女を頼った。
宿題を見せてほしいと言われれば見せる。
ノートを貸してほしいと言われれば黙って差し出す。
断ることはほとんどなかった。
まるで相手に頼まれることが、自分の役目であるかのように。
その姿を見ていると、ときどき彼女が何を考えているのか分からなくなる。
感情がないわけではない。
けれど、それを表に出そうとは決してしなかった。
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ある日、ジスは幼い頃のアルバムを開いていた。
そこには幼いジソンと、まだ若い父と母の姿が写っていた。
姉妹が並んで笑っている写真も何枚もある。
自分が幼すぎて覚えていないだけで、あの頃の家族は何度も旅行へ出かけていたのだろう。
遊園地。
公園。
海。
そして渓谷。
ページをめくるたびに、新しい思い出が現れる。
写真を見つめながら、ジスはそっと口元を緩めた。
「……楽しそうだったんだね。」
ジスには、両親と一緒に旅行へ出かけた記憶が一度もなかった。
それを物語るように、アルバムには幼い自分の姿が一枚も写っていない。
姉と二人でどこかへ出かけた思い出もなければ、家族そろって遠出をした記憶もなかった。
ある日、ジスは母に尋ねたことがある。
「お母さん。どうして私は、一度も家族旅行に連れて行ってもらえなかったの?」
母は少しだけ困ったように笑い、静かに答えた。
「あなたが生まれた頃はね、家計に余裕がなくて、お父さんもお母さんも毎日仕事で手いっぱいだったの。そんな時に、あなたが生まれたのよ。」
ジスは、それ以上何も聞かなかった。
不満はなかった。
傷つくこともなかった。
彼女の周りには、いつも友達がいた。
困ったことがあれば手を差し伸べてくれる人もいたし、お金に困れば助けてくれる友人さえいた。
だから、寂しいと思ったことはなかった。
ある日、友人がふと思い出したように口を開いた。
「そういえばさ、ジスのお姉さんって、結構有名な人なんだよね?」
「お姉ちゃんのことは、私もあんまり知らないんだ。」
ジスは肩をすくめて笑う。
「家でもほとんど話さないし。ただ、小説がたまたま売れただけ。時代背景を扱った作品が注目されて、その流れに乗っただけだと思う。」
ジスと付き合っていた恋人の中には、ジソンの小説に否定的な人も少なくなかった。
「へえ、そうなの? でも普通、姉妹ってもっと仲がいいものじゃない?」
「そうでもないと思うよ。」
ジスは苦笑しながら答えた。
「どうしたの? もしかしてサインでも欲しいの?」
「サインなんていらないよ。」
彼は肩をすくめる。
「俺にはジスがいるし。それに、ああいう話は現実離れしすぎていて、正直あまり好きじゃない。」
「そうかもしれないね。」
ジスは少しだけ考え込むように視線を落とした。
「お姉ちゃん、自分自身にいろいろ思うところがあるんじゃないかな。……特に、女として生きることに。」
「女だから生きづらいってこと?」
彼は小さく鼻で笑う。
「そんなの、男だって楽じゃないだろ。」
ジスと姉の間には、十歳の年の差があった。
そのことを友人に話すと、決まってこう言われる。
「十歳も離れたお姉さんがいるなら、家ではずいぶん可愛がられたんじゃない?」
けれど、現実は少し違っていた。
両親はいつも、姉とジスを比べていた。
一九八二年生まれの姉、ジソン。
そして、一九九二年生まれのキム・ジス。
「ジスも大きくなったら、お姉ちゃんみたいによく勉強して、ちゃんと言うことを聞く子になりなさい。いいわね?」
「うん、分かった。」
幼いジスは素直にうなずいた。
だが、成長するにつれ、その言葉は少しずつ形を変えていく。
「ジス! 少しはお姉ちゃんを見習いなさい。」
「毎日何をしているの? 勉強はどうしてそんなにできないの?」
「いったい誰に似たのかしら。」
両親は何かあるたびに姉と比べた。
不思議なことに、それを恨んだことはなかった。
ジスには一つだけ、揺るがない考えがあったからだ。
――お姉ちゃんは、お姉ちゃん。
私は、私。
それでいい。
両親の小言さえ我慢すれば、自分のほうがずっと自由に生きられている。
ジスはそう信じていた。
家では期待を背負い、学校では教師たちから模範生として見られる姉。
そんな毎日を送る姉の姿は、ジスにはどこか無理をして演じているように見えた。
本当の自分を押し殺し、誰かの期待に応え続ける人生。
そんな生き方を、ジスはどこか痛々しく感じていた。
「いつか、お姉ちゃんはそんな自分を後悔する日が来る。」
その予感は、まるで予言だった。
ある時期を境に、ジソンは自らを「不幸な人間」だと語るようになった。
いや、それだけではない。
自分と同じ時代を生きる人々の苦しみや、生きづらさについて、自らの言葉で語るようになっていった。
その文章は冷静で、論理的だった。
だからこそ、多くの人の心を動かした。
やがて彼女は、自分の思いや考えをインターネットの掲示板へ投稿し始める。
その文章は瞬く間に広まり、共感する者もいれば、強く反発する者もいた。
称賛の声も、激しい批判も、等しく彼女へ向けられた。
その理由は、彼女の作品や文章の多くが、男女それぞれの生き方や社会の在り方を題材としていたからだった。
賛否は絶えなかった。
それでも、彼女の名は広く知られるようになり、多くの読者、とりわけ女性たちから強い支持を集めていく。
ジスは苦笑しながら、小さくつぶやく。
「……本当に、お姉ちゃんの文章力だけは誰にも負けないんだから。」
ジスには、姉が訴えていることがどうしても理解できなかった。
両親と暮らしていた頃、姉は勉強以外のことをほとんどしたことがない。掃除も、洗濯も、食器洗いも、一度として任された記憶はなかった。
家事を任されるのは、いつもジスの役目だった。
ジスが家で少しでも手が空いていると、
「お姉ちゃんの部屋も片づけなさい。」
「お皿を洗って。」
「洗濯を済ませておいて。」
母は次々と家事を言いつけた。
一方で、姉には何ひとつ頼まない。
それがあまりにも当たり前だったせいか、姉自身も何の疑問も抱いていないようだった。
家のことは、自分とは無関係であるかのような顔をしていた。
姉が書き残した文章を読み返しながら、ジスはあることに気づく。
姉が「差別」と呼んでいたものは、本当に差別だったのだろうか。
家では何もせず、勉強だけをして育った彼女は、
社会へ出て初めて、自分の意思とは関係なく何かをしなければならない現実に直面した。
その積み重なった不満を、「差別」という言葉に置き換えていただけではないのか。
そんな考えが、ふと胸をよぎった。
ジスは幼い頃、母と姉が衝突した日のことを思い出した。
もっとも、それは「口論」と呼べるものではなかった。
一方的に母が声を荒らげ、姉は黙ってその言葉を受け止めているだけだった。
あの日の始まりは、一本の電話だった。
当時、ジスはまだ九歳。
家の電話が鳴り、何気なく受話器を取ると、聞き慣れない男性の声が耳に届いた。
「……キムさんのお宅でしょうか。私は、お嬢さんの担任をしております。」
姉の担任教師だった。
どこか落ち着かない、心配を押し隠すような口調だった。
幼かったジスには、その声色の意味までは分からない。
「お姉ちゃん、今はいません。」
「そうか。君は妹さんかな。お姉さんじゃなくて、お母さんかお父さんはご在宅かな?」
「いいえ、いません。」
「そうか……。では、ご両親は何時ごろお戻りになるか分かるかな。」
担任の先生だと分かったジスは、母が帰宅する時間を思い出して答えた。
「五時くらいには帰ってきます。」
「分かった。ありがとう。」
電話はそこで切れた。
夕方になり、帰宅した母は、その電話のことを聞くとすぐに学校へ連絡を入れた。
受話器を握る母の声には、不安が滲んでいた。
「えっ……先生、どういうことでしょうか。」
一拍置いて、母は少し強い口調になる。
「うちの娘が、そんなことをするはずありません。」




