刹那の夜
## 刹那の瞬間
高層ビルの屋上から見下ろす街は、宝石を散りばめたように輝いていた。
どこまでも続く灯り。
息を呑むほど美しい夜景だった。
けれど、その美しさは彼女の胸を慰めるどころか、かえって深く締めつけていく。
彼女は真っ白なハイヒールを脱ぎ捨てると、屋上の手すりへ静かに足を乗せた。
細い縁の上を、ふらり、ふらりと歩く。
まるで綱渡りを楽しむ子どものように。
一歩踏み外せば、そのまま夜の闇へ吸い込まれてしまいそうな危うさを抱えながら。
それでも彼女は笑っていた。
くすり、と。
何がそんなにおかしいのだろう。
笑うたびに大きく丸い瞳は三日月のように細まり、すっと伸びた口元は優しく吊り上がる。
やがて彼女は足を止めた。
ポケットからスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで画面を操作する。
そして、小さく息を吸い込んだ。
「最後に、みんなへ一つだけ聞かせて。」
一拍置いて、彼女は誰かを探すように夜の街へ視線を向ける。
「……それと、お姉ちゃん。」
微笑みは消えなかった。
「お姉ちゃんがここにいることくらい、ちゃんと分かってるから。」
彼女は手すりの上で足を止めた。
ゆっくりと夜空を見上げ、指を一本ずつ折りながら数を数えていく。
そのとき、遠くの空をゆっくりと進む飛行機の灯りが目に入った。
規則正しく瞬くその光を、彼女は静かに目で追う。
空を舞ったのは、ほんの一瞬だった。
次の瞬間、地上には鈍く重たい音が響き渡る。
次の瞬間だった。
周囲の空気が凍りつく。
やがて――
鈍く重たい衝撃音が夜の静寂を切り裂いた。
地震でもないのに、大地はほんのわずかな時間だけ震えたように感じられる。
その音に、道行く人々は一斉に悲鳴を上げた。
それは、まるで巨人が大地を踏み鳴らしたかのような轟音だった。
その音は、一瞬だけ周囲の空気を震わせ、人々の心臓を強く掴んだ。
通りを歩いていた人々は一斉に足を止める。
「きゃっ……!」
「い、今の音……!」
「あっ……! う、上……! 上から!」
誰かが震える声を漏らした。
やがて一人が何かに気づいたように空を見上げ、顔色を変える。
「う、上から……!」
その叫びに導かれるように、周囲の視線が一斉に高層ビルの屋上へ向けられた。
静まり返った街に、誰かの震える声だけが響く。
「人が……。」
「人が落ちたぞ!」
誰もが言葉を失った。
信じ難い光景を前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
地上にいた人々は、誰もが目を疑った。
信じ難い光景だった。
天使が舞い降りてきたわけではない。
一人の人間が、空から落ちてきたのだ.
「あ……あの子、誰?」
「どこかで見たことがある気がする……。」
「ま、まさか……。」
「さっき、ネット配信みたいなのをやってなかった?」
「ジス?」
「ジスって……あのジス?」
「そうだ、間違いない。さっきまで配信してた……。」
「そんなこと言ってる場合じゃない! 早く救急車を呼んで!」
人々のざわめきが、彼女の耳に届くことはもうなかった。
鼓動を止めた彼女の唇が、再び言葉を紡ぐこともない。
それでも、その瞳だけは何かを見つめ続けているように映り、その表情には、どこか穏やかな面影が残っていた。
まるで、最後に伝えたかった言葉だけが、まだそこに留まっているかのように。
「お姉ちゃん……。
私は、お姉ちゃんみたいには生きたくなかった。」
彼女は、もう二度と目を覚ますことのない眠りに落ちていた。
瞳は開かれたままだ。
けれど、もう何かを見つめることも、考えることも、思い出すこともできない。
「……そう、ジス。
私の、たった一人の妹。」
静かな足音が近づいてくる。
群衆の隙間を縫うように、一人の女性がゆっくりとジスのもとへ歩み寄った。
黒いアスファルトを濡らす深紅の血は、まるで誰も近づくなと警告するかのように、静かにその範囲を広げていく。
やがて遠くから、パトカーと救急車のサイレンが夜の静寂を破った。
ほどなくして警察官と救急隊員が現れると、その場に集まっていた人々は、道を開けるように静かに後ずさる。
ジスの姉は、運ばれていく妹の姿をただ遠くから見つめていた。
引き止めることも、呼びかけることもなく、ただその場に立ち尽くしたまま。
こうして、刹那の瞬間は過ぎ去った。
誰にも止めることはできなかった。
誰にも救うことはできなかった。
気づいたときには、すべてが終わっていた。
そして夜だけが、何事もなかったかのように静かに更けていくのだった。




