第5話 孤児の扱い
静まり返ったレグニスの広い執務室で、エレノアは執務机を挟んでレグニスと向かい合っていた。
皇宮に着いた頃はぽつりぽつりと降っていた雨は少しずつ勢いを増し、雨が降りしきる音だけが、窓を介して室内に響いている。
その雨音が場の緊張感を強めている。
レグニスが向ける冷徹な眼差しを、正面から受けるエレノアは、それでもなお笑顔を保っていた。
いくら婚約破棄を告げられようと、その書類に署名をしに来ようと、彼女が皇太子を愛していることに変わりはない。
レグニスが静かに口を開いた。
「昨日ぶりだな。変わりないようで何よりだ」
その口調は冷え切っている。婚約破棄を告げた時と同じ、ただ事実だけを確認するものだ。
その言葉を受け、エレノアは穏やかに返答した。
「いいえ、レグニス様。変わったことはございますわ」
「ほう? 私には何一つ変わっていないように見えるがな。まあ、いい。早いところエレノアの署名を書いてもらおう。でなければ話が進まぬからな」
レグニスは机をコツコツと指で叩き、書類を示した。
エレノアに対する情など消え失せているかのような発言に、彼女は小さく溜め息を漏らした。
聞こえていたはずのレグニスは何も言わなかった。
書類を手に取り、エレノアは内容に目を通す。
既に『レグニス=アウレリア』と、彼の署名は流麗な文字で記入されていた。まだ書いたばかりなのか、彼が使用するインクの匂いがふわっと鼻腔をくすぐった。
エレノアはその下に『エレノア=ヴァルシュタイン』と優しくも力強い文字で、署名した。
ペン先が紙を擦る乾いた音が静かな室内に響いた。
これでこの書類は正式なものとなった。
レグニスに返し、彼はエレノアの名前が書いてあることを確認し、口角を持ち上げた。
「おい、これを持っていけ」
レグニスは部屋の隅に控えていた少女に声をかけた。
エレノアが視線を向けると、彼女は身体を固くしていた。
ひどく緊張しているようだ。
「エマ、聞こえなかったのか?」
「ひ……も、申し訳ございません……」
レグニスの鋭い声に、エマと呼ばれた少女は顔を強張らせたまま、エレノアたちの方に歩み寄ってきた。
前髪の隙間から見える顔は自信なさげだ。
「さっさとしろ」
「は、はい……すぐに」
急かされたエマの足がもつれ、転びそうになる。
「危ない!」
さっとエレノアが彼女を支えたとき、小さく震えていることに気づいた。
整った顔立ちで、目の下の隈が目立ち、疲労感が滲み出ている。
それよりも気になったのは、彼女の香りだ。
レグニスが愛用する香水と同じ香りを仄かに感じたのだ。
「あ、ありがとうございます」
エレノアを見上げる顔はどこか安堵していた。
「エマ、何度も同じことを言わせるな」
だが、レグニスの声が聞こえた途端、顔を引きつらせて慌ててエレノアの腕から離れた。
すぐに婚約破棄に関する書類を受け取って、一礼すると退室していった。
その様子を目で追っていたエレノアがレグニスに視線を戻す。
「以前は見なかった侍女ですわ」
「なに、孤児を手に入れたのでな。なかなかに優秀な拾い物だ」
レグニスは悪びれることなく、氷のような表情を浮かべたまま続けた。
「私自ら、私好みに徹底的に教育しているところだ。昼も夜もよく泣く面白い女だぞ」
それでレグニスの香水の匂いがエマからしたのか、とエレノアは納得した。
「ひどく疲れた顔をしていましたけれど」
「それがどうした。私が可愛がってやっているんだ。エレノアが口を出すことではない」
今のエレノアはレグニスの婚約者ではない。余計なことを言うべきではないことは分かっている。
言いたい言葉を飲み込んで、別の話題に変える。
「わたくしに声をかけてくださる殿方がおりますわ」
ここにきてようやくレグニスの表情が動く。
僅かな変化だが、驚きが垣間見えた。
「ほう? 私に婚約破棄を告げられ、実家には内通疑惑があるお前にか。孤立しているエレノアに、これほど早く接触するとはな。どこのどいつだ?」
レグニスの試すような口調に、エレノアは冷静に答える。
「セドリック様です」
「セドリック……ローゼンフェルト公爵家の当主か。ふん、いい相手を見つけたようだな」
面白くなさそうにレグニスは吐き捨てた。
「ええ。セドリック様は孤児院を運営されています。もっとも、孤児の扱いはレグニス様とはまったく異なるようですけれど」
エマについて言及すべきではないが、セドリックの孤児院で見た子どもたちと比較してしまう。
だが、レグニスはまったく堪えていない。
「私が目をかけてやっているんだ。エマも喜んでいるぞ」
そう言って、彼は薄く笑った。
「それにしてもセドリックか。ここしばらくあいつには顔を合わせていないが、どんな様子だ?」
セドリックがエレノアに言ったように、彼は少し前から社交界に顔を出していない。
「孤児院に力を入れていて社交界どころではないそうですわ。わたくしのことを守ってくださるとも仰っておりました」
「エレノアを守る? 片腹痛いな」
クックッと笑うレグニスを、エレノアが咎める。
「そのように軽んじてはいけません、レグニス様」
「セドリックがどうお前を守るのか見物だと思ってな。それで? セドリックに変わった点はなかったか?」
仮にも臣下の一人であり、レグニスなりにセドリックの動向を気にかけているのかもしれない。
「わたくしも元々セドリック様と交友があったわけではございませんので……そう言えば、セドリック様の孤児院を訪問しましたけれど、低品質な茶葉を使っておりましたわ」
「孤児院なんぞするから、金が吸い取られるんだ。愚かな男だな」
会話が途切れ、再び雨音だけが聞こえる部屋に、扉のノック音が響いた。
「入れ」
レグニスが短く答えると、エマが入室した。
「先ほどの書類を提出しました」
「それはよきかな。エレノア、もう用はない。下がれ」
興味を失ったように、レグニスはエレノアに告げた。
「……はい。失礼いたしますわ」
エレノアは軽く膝を折ってから、踵を返す。
エマとすれ違うとき、彼女のすがるような視線を受けた。
「ごめんなさいね。今のわたくしでは貴女に手を差し伸べることはできません」
だが、エレノアはそう言うしかなかった。
◆
手続きとレグニスとの会話を終えたエレノアは、あとは実家に帰るだけだ。
雨足は少し弱まったものの、しとしとと降り続ける雨が寂しさを助長する。
濡れながら帰るしかないと覚悟を決めたとき、声がかかった。
「エレノア嬢!」
声の主はセドリックだった。
雨避けに外套を羽織り、フードを被った彼は、その手にもう一着外套を持っていた。
「良かった。間に合いましたね。雨がひどくなったので、貴女が濡れてはいけないと思い、急いで取りに戻ったのです」
そう言って、持っていたものをエレノアに差し出した。
「いえ、そこまでしていただくわけにはまいりませんわ」
「風邪を引いてはいけません。どうか使ってください。それに、今にも泣きそうな令嬢を放っておくなどできません」
エレノアは今頃エマが受けているであろう仕打ちを考え、浮かない顔をしていた。
本来、人に見せるべきではない、貴族令嬢らしからぬ表情だ。
「さあ、どうぞ、受け取ってください」
セドリックはレグニスのものとは全く異なる、優しい言葉でエレノアに語りかける。
エレノアは差し出された外套に手を伸ばすと同時に、潤んだ瞳でセドリックの顔を見上げた。
「……どうされたのですか、エレノア嬢」
「レグニス様の孤児への所業が――」
エレノアはレグニスのエマに対する発言を漏らさずセドリックに伝えた。
「殿下がそのような扱いを孤児に……? もし本当なら許しがたい」
セドリックが握った拳を震わせ、皇宮を睨みつける。
エレノアはそんなセドリックを見つめた。
(ああ、この方は本当に……)
「エレノア嬢、きっとその孤児を助けましょう。悔しいですが、今できることはありません」
セドリックはまっすぐにエレノアを見つめ、声を震わせて言った。
エレノアは少し考えてから答える。
「そう、ですわね……このような見苦しい姿をお見せして申し訳ございません」
エレノアが顔を伏せ、恥ずかしさを隠すように決めていたことを口にする。
「それと……」
父フリードリヒから預かった寄付金のことだ。
「ぜひ、セドリック様の事業に参加させていただきたく存じます」
その提案に、セドリックは微笑んだ。
「それはありがたい。この恩に報いるためにも、殿下に非道な扱いを受けているエマという孤児を助け出さないと」
「はい。少しでも早く孤児を助けましょう」
二人で顔を見合わせ、頷き合った。
雨の影響もあり、夕方だというのに薄暗い。
本格的に暗くなる前に、セドリックがエレノアをヴァルシュタイン公爵邸まで送るため、移動を開始したのだが――
「あれは……殿下?」
セドリックが指さした先を見ると、レグニスの背格好によく似た人物がいた。
その人物は外套のフードを深く被り、夕闇に紛れ人目を避けるように走り去った。




