第2話 託される金貨
ヴァルシュタイン公爵邸に戻ったエレノアを出迎えたのは、不安そうな表情を浮かべた使用人たちだった。
いつもてきぱきと仕事をしている彼らだが、どこか仕事に身が入っていない。
エレノアがレグニスに婚約破棄されたことが既に伝わっているのかもしれない。
あるいは、ヴァルシュタイン家の魔族との内通疑惑も既に耳にした使用人がいる可能性もある。
このような情報が出回るのは本当に早い。
万が一にも公爵家が没落するようなことがあれば、彼らも露頭に迷う。ゆえに、とくに悪評には敏感なのだろう。
使用人にさえ目を逸らされる重苦しい空気の中、エレノアはひとり廊下を進む。
豪奢なドレスの衣擦れの音だけが、静かな廊下に響いた。
廊下は隅々まできれいに掃除され、壁に取り付けられた魔導灯が行く先を照らしているはずなのに、まるで薄暗い影が忍び寄ってくるように感じられた。
それでも、公爵令嬢然とした立ち居振る舞いは堂々としていた。
主たるエレノアが暗い雰囲気を出せば、使用人たちの不安はより強まることに繋がるのだ。
彼女は一直線に父であるフリードリヒの執務室に向かった。
彼は夜遅くまで仕事をしていることが多い。特に今日は夜会を途中で抜けてきたので、まだ働いているはずだ。
何より、エレノアはフリードリヒと今後のことについて話し合わないといけない。
だから、夜会用のドレスからゆったりとした室内着に着替えるよりも、まずは父に会うことを優先した。
やがてフリードリヒの執務室に着いた。
扉をノックすると、すぐに中から「入りなさい」と声が返ってくる。
父もエレノアがすぐに話に来ることが分かっていたようだ。
よく磨かれた手すりに手をかけ、そっと押し込むと、重厚な扉が音もなく滑らかに開いた。
「失礼いたします、お父様」
扉を閉めたエレノアは軽く膝を折る。
執務室の空気はいっそう重たいものだった。
フリードリヒは書類の積まれた書斎机に向かい、何やら難しい顔で一通の手紙を見ていた。
エレノアを見て少しだけ和らいだが、隠しきれない緊張が滲み出ている。
「夜会はどうだった?」
彼は開口一番にそう尋ねた。
「レグニス様に婚約破棄を告げられました。エスコートさえされず、拝顔して早々に婚約破棄だ、と。わたくしの話は一切、聞き入れていただけませんでした」
エレノアは父の書斎机の前に立つと、気丈にも淡々と事実だけを述べた。
公爵令嬢たるもの、感情を隠すことに長けてなくてはならない。
「そうか。実は先ほど、皇宮からの早馬で私にもその報せが届いたところだ」
フリードリヒは持っていた手紙をひらひらと振った。
エレノアが視線を机に落とすと、便箋があった。割られた封蝋の印は皇室のものに間違いない。
「さすがレグニス様ですわ。わたくしに婚約破棄の宣言をすると同時に、すでに外堀まで埋めていたのですね」
彼女の言葉に、フリードリヒは首肯した。
「エレノアは殿下から婚約破棄の理由をなんとお聞きした? 手紙にも書いてあるが、お前の口から聞きたい」
ふと窓の外でごうっと強い風が吹き、庭木がざわめいた。
「……ヴァルシュタイン公爵家が魔族と内通している、と。その疑惑がある以上、婚約の継続は帝国の危機に繋がる、とも」
エレノアは目を伏せレグニスに言われたことをそのまま父に伝えた。
フリードリヒは娘の話を聞き、沈痛な面持ちで頷いた。
「手紙の内容と同じだな。どうやら殿下は本気のようだ」
エレノアはばっと顔を上げて、父に言った。
「……レグニス様にもお考えがあるのでしょう。わたくしは婚約破棄されても、レグニス様のことが……」
「分かっている。お前が殿下を本当に愛していることは、私も知っている……だが手紙の内容はそれだけではないのだ」
エレノアが眉を寄せる。
フリードリヒは深い溜め息をついてから、話を続けた。
「殿下からの手紙にはこう書かれている。近々、我が屋敷に厳しい監査が入る、とな」
そう言って、手紙をエレノアに差し出した。
手渡された上質な紙からは、レグニスが好んで使う特注のインクの匂いが微かに漂ってきた。
そして、そこに書かれた流麗な文字は、まぎれもなくレグニスのものだ。愛する人の筆跡を見間違えたりはしない。
無情な言葉が並ぶ文面に目を通しながら、エレノアは手紙の端を握る指先を白くなるほど強く食い込ませ、唇をわなわなと震わせる。
こみ上げてくるものを必死に堪えるように、彼女は深く、震える息を吐き出した。
「……レグニス様は本気なのですね」
エレノアは一度文面の文字をなぞってから、フリードリヒに手紙を返した。
二人の情報のすり合わせはできたが、大事なのはここからだ。
これからどうするかの話し合いをしなければならない。
「それでお父様。今後はどうされるおつもりですか?」
むろん、ヴァルシュタイン家に魔族との繋がりはないのだから、厳しい監査も無事に乗り切るだろう。
だが、公爵家という立場上、敵が多い。監査する者の中に敵対関係にある貴族の手の者がいるかもしれない。
その者がなにか仕掛けてくる可能性もある。
そうなると、ヴァルシュタイン家自体の存亡に関わってくる。
歴史ある公爵家がいきなり取り潰しということにはならないだろう。
周囲への影響が大きすぎるからだ。
だが、段階的にその権力が削がれていくだろう。
国の要職からの追放、爵位の降格、そして私財の没収。
真綿で首を絞めるように、いずれは破滅へと追いやられてしまうだろう。
「もちろん、そのようなことは私がさせないがな。偽の証拠など仕掛けてこようものなら、私がその相手を潰すまでだ」
フリードリヒはにやりと口角を上げた。彼は現状に絶望し、諦めるのではなく、逆に利用しようとすらしているようだ。
エレノアは我が父ながら逞しいと苦笑した。
「だが、私はしばらくその対策につきっきりになるだろう。だから、対外的なことはエレノアに任せたい」
「もちろんですわ。お体が弱く、病気がちなお母様にご負担を強いるわけにはまいりませんもの」
申し訳なさそうなフリードリヒに、エレノアは力強く頷いた。
「すまないな。誰に似たのか、エレノアが逞しく育ってくれて嬉しいよ」
「きっと育て方が良かったのでしょう」
二人の軽口に、場の空気が少しだけ軽くなった。
悪いことばかり考えていても、気が滅入るだけだ。
とはいえ、それで問題が解決するわけではない。具体的な方針を決めないことには、エレノアとて動きようがないのだ。
「どのようなことをいたしましょう」
フリードリヒが顎に手を当て、考える。
やがて、ぽつりと漏らした。
「我が公爵家の潔白を示すために何かしらの慈善事業をするのはどうだろうか」
貴族が行う慈善事業となると、売名や民衆の支持集めという側面もある。
だが、やらないよりはやった方がいいのは確かだ。
「貧困層への炊き出し、治療院への出資、教育環境の整備などいろいろ考えられますわ」
監査までの期間が短いので、それを踏まえると時間のかかるものには手を出さないほうがいい。
「その選定からエレノアにしてもらいたいのだよ」
「責任重大ですわ」
肩を竦めるエレノアだったが、ことをうまく運ぶためにはその程度のこと、できなくて何が公爵令嬢だと考える。
フリードリヒの逞しさはしっかりとエレノアに受け継がれていた。
「何をするにしても一からだと時間がかかりすぎてしまいます……」
準備もなくぽんと始められることなどそうそうない。
やがて、一つの考えに至る。
「それなら、治療院や教会への寄付などいかがでしょうか。お金さえあればすぐに可能ですわ」
その言葉にフリードリヒは大仰に頷くと、書斎机の下から袋を取り出した。
机の上に袋を置くと、じゃらりと金属音がする。
「お父様、これは?」
「エレノアならそう言うと思って、用意しておいた」
袋の口を開けると、中には硬貨が入っていた。
「金貨、ですか。今時珍しいですわね」
近年は金銭のやり取りに、教会が発行する便利な魔導具のカードを用いるのが主流だ。
わざわざ重たい現物を用意したことに、エレノアは少し驚いた。
「貧困層や孤児院にはカードを持たない者もいるから、現物の方が便利だろうと思ってね。実は別の支援のために用意していた資金なのだが、出所が分かるようにあらかじめ我が家の印を入れてある。急ぎで流用できるものはこれだけだが、必要ならさらに用意しよう」
「さすがお父様。準備が良いですわ」
半ば呆れ混じりにエレノアが呟いた。
「これをしかるべき場所に寄付できればいいのだが」
フリードリヒがじっとエレノアの瞳を見つめる。
期待のこもった父の視線を受け、エレノアは躊躇うことなく金貨の入った袋を手に取った。
エレノアは金貨袋を大事に抱える。
掌にずっしりとした金属の重みが伝わる。
額でいうと、けっこうな金額になるだろう。
彼女は父をまっすぐに見返し、静かに、しかし確かな意志を込めて告げた。
「わたくしにお任せください。必ずや、良い寄付先を見つけ、使わせていただきます」
こうして、金貨の使い道はエレノアに一任されたのだった。




