第1話 婚約破棄
「今宵、この場においてお前との婚約を破棄することとする。これは決定事項だ。異論は認めん」
アウレリア帝国ヴァルシュタイン公爵家令嬢・エレノア=ヴァルシュタインは一方的に告げられた。
他でもない、婚約者である皇太子・レグニス=アウレリア自ら、夜会に集まる多くの貴族たちの前で高らかに宣言されたのだ。
冷え切った笑みを浮かべて放たれた言葉は、レグニスの登場とともに静まり返った夜会会場によく響いた。
◆
宮廷楽団が心地よい音楽を奏でている。
天井から下がるシャンデリアからはキラキラとした光が降り注いでくる。
レグニスが登場するまで、エレノアは貴族令嬢と歓談をしていた。
「ついにエレノア様との結婚を発表されるのかしら」
令嬢たちからの探るような問いを受けたのは一度や二度ではない。
エレノア自身、レグニスからは結婚の話は聞いていないので、曖昧に笑うことしかできなかった。
エレノアは貴族令嬢の質問を適当に躱しつつ、周囲の声に耳を傾けた。
もっぱらの話題はレグニスとエレノアの結婚についてのものだが、中には口元を隠しながら声を潜める者たちもいる。
「……ヴァーミリオン魔国との戦争は……」
「……ええ、魔族には幻魔法で姿を偽る者もいるとか……」
「……まさか、帝国内にも? 我々の安全はどうなる……」
緩やかな音楽とグラスが触れ合う軽やかな音の裏では、終わりの見えない戦争と見えない敵への不安が垣間見えた。
前線で戦う者よりも自分たちの心配をする貴族に少しだけ辟易しながら、エレノアは夜会の喧騒に身を預けていた。
ふと緩やかな音楽が止んだかと思うと、階上からレグニスが姿を現した。
きれいな黒髪に整った顔立ち。
見るものを魅了するような美貌には、氷のような冷たい表情が浮かんでいる。
レグニスは堂々と階段の中央を下りてくる。
質のよい絨毯は音をまったく立てない。
静かに鋭い目つきで会場全体を見渡しているのは、エレノアを探しているのだろう。
エレノアはじっと、婚約者の姿を目で追った。
周囲の者も固唾を飲んで、レグニスの一挙手一投足を見守っている。
レグニスはエレノアを見つけると、彼女のほうに歩み寄った。
だんだんと静かな会場のあちらこちらで、小さなざわめきが起こる。
エレノアの周囲にいる貴族令嬢も「告白の時間ですわ」などと黄色い声を上げている。
レグニスはエレノアの前に立ち止まる。
婚約者として、その手を取るのが最低限のマナーだ。
だが、彼は手を差し出すことなく、凍りそうな視線でエレノアを見下ろした。
「エレノア」
冷ややかな声が落ちるとともに、ざわめきが再び収まった。
その声音はとても婚約者に向けるものとは思えない。
「ごきげんよう、レグニス様」
それでもエレノアは失礼のないように、静かに膝を折って頭を下げた。
背筋がスッと伸びた、見事なカーテシーだ。
その様子を見たレグニスは鼻で笑った。
「今宵、この場においてお前との婚約を破棄することとする。これは決定事項だ。異論は認めん」
そして、エレノアに婚約破棄を告げたのだった。
突然の婚約破棄の宣言に、エレノアの呼吸が浅く、速くなった。
目を見開き、指先は震える。
困惑と動揺は周囲にも広がっていく。
皆がこの場はレグニスとエレノアの結婚の発表の場だと思っていたのだ。
だが、実際にはその真逆のことが起こった。
「以上だ。もう、お前に用はない。さっさとこの場から消えろ」
エレノアが言葉を発せずにいると、レグニスがそう言い捨てた。
彼はそのまま踵を返し、立ち去ろうとする。
「お、お待ちください、レグニス様。話をさせてください」
その背中に声をかけた。
「無用だ。繰り返すが、これは決定事項だ」
しかし、レグニスは聞く耳を持たず、歩を進める。
エレノアはそんな彼を追いかけ、縋るようにレグニスの手を取った。
「せめて理由を……理由をお聞かせください」
振り返ったレグニスはエレノアの手を振り解き、眉をひそめた。そして、汚いものを見るような視線をエレノアに向ける。
「分からないのか?」
「わ、分かりかねますわ。何も分からないまま、婚約破棄だなんて言われても、納得できません」
それはそうだ、と周りの貴族から同情の声が上がる。
レグニスは周囲を軽く一瞥してから、エレノアに視線を戻した。
「私は構わんが、お前は後悔することになるぞ?」
「……構いませんわ。ですから、なにとぞ教えていただきたく存じます」
その言葉にはエレノアの覚悟が聞いて取れた。
「……ふん、いいだろう。エレノア、お前の父――ヴァルシュタイン公爵がかかっている疑いを知っているか?」
レグニスはまっすぐエレノアの瞳を見つめた。
だが、エレノアには思い当たる節などない。
「疑い、ですか? わたくしの父はこれまで帝国に義を尽くしてまいりました。そしてこれからもそれは変わりません。そんな父にどのような疑いがあるというのでしょうか?」
ヴァルシュタイン公爵家は代々皇帝を支えてきた名門であり、現当主である父フリードリヒもまた、その忠義を尽くしている。
エレノアとレグニスの婚約は皇家と公爵家の繋がりをより強固にするためのものでもあった。
そんな父が不義を働くなど、エレノアは信じない。
「お前の父には魔族に内通しているという疑惑がかかっている」
周囲に再びざわめきが広がる。「まさか公爵が……?」「事実だとしたら大事件だ」などと口々に話す。
噂に目がない貴族にとって、権力を持つ公爵家の没落は格好の娯楽だ。
レグニスの告発に、エレノアの扇子を握る手に力が入る。
いかに皇太子の言うことであろうと信じることなどできない。
「わ、わたくしはそのようなこと存じ上げませんわ」
だが、レグニスは鼻で笑った。
「あの公爵が娘とは言え、お前に教えるとは思えんな。裏でしていることをわざわざ教えるほど愚かではあるまい」
エレノアは公爵家の仕事をある程度知っているし、その手伝いをすることはある。だが、当主の仕事のすべてを把握しているわけではない。
だからこそ、周囲の者から見れば、娘である彼女が何も知らされていない可能性は十分に考えられるのだろう。
「ですが、レグニス様。父は絶対に魔国と内通など……証拠は、証拠はあるのですか?」
「証拠? あったとして教えると思うか? 裏工作されては敵わん。それに証拠を見せたとて、お前はそれを信じるのか?」
それはない、とエレノアは内心で思った。
なんでもすぐに信じるほど、お花畑ではないと自覚している。
ふとレグニスの口角が持ち上がる。
「だが、そうだな。エレノアがもしヴァルシュタイン公爵が密通していない証拠を提出できたなら、婚約続行を検討してやってもいい」
「そんな……ないことの証明なんて……」
それほど困難なことはない。
「できぬなら諦めることだな。もっとも、内通の疑いがある時点で、その家族であるエレノアとの婚約など破棄してしかるべきだがな」
皇家の威信、ひいては国家の存亡にまで関わることだ。内通者の身内を皇家に入れるなど、別の火種にしかならない。
だから、エレノアは何も答えずにいた。
「話は以上だ。後日、正式な手続きを行うから、皇宮に来い」
冷たく言い放ち背を向けるレグニスに、エレノアはぼそりと呟いた。
「それでも、わたくしはレグニス様のことが……」
その言葉がレグニスに届いたかは分からない。
分かることは、レグニスからの告発により、エレノアの立場が危うくなったということだ。
弁明することもできただろうが、それをしたところで、どれだけの意味もないだろう。
真偽のほどはどうであれ、皇太子の言葉には力があるからだ。
貴族たちから好奇と恐怖が入り混じった視線が突き刺さった。
そちらを向けば目を逸らされ、さっとエレノアから距離を取られる。
レグニスが現れるまで仲良く談笑していた令嬢たちでさえ、怯えたように後ずさっていく。
広い会場の中で、エレノアの周囲にだけぽっかりと生まれた空白。
完全に孤立したのだ。
誰一人として目を合わせようとしない空間で、エレノアは己の置かれた状況を悟った。
人の口に戸は立てられない。まして貴族の間で悪評が広まるのは恐ろしく早い。
この夜会での致命的な孤立は、明日からの公爵家の存亡に直結するだろう。
いつの間にか緩やかな音楽は再開していたが、エレノアの耳には届かない。
魔導灯のシャンデリアからは変わらず眩い明かりが夜会会場を照らし、エレノアの足元に濃い影を落とした。
父フリードリヒと話し合いをしなければならない。
それだけを胸に、エレノアは重い足取りで味方のいない会場を後にした。




