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第二部-36 約束は果たされた

米国代表団、少し遅れて各国代表団、最後に電話で離れていたロシア大使も席に戻ったことで、会合が再開される。この時点でコルヴァンの立ち居振る舞いは何も変わらないように、アルドナには見えていた。


だがしばらくして、彼女はマイクを引き寄せた。

いつも通り穏やかな口調で、まるで最初からそう考えていたかのようにしゃべりだす。


「議長。合衆国は人道状況への深い懸念から次の措置を提案します」


彼女は手元の紙を読み上げた。


「医薬品、食料、上下水道の維持に必要な部品について、委員会の異議がない限り一定期間で承認する手続きを試験的に導入する。保留を行う場合は理由を書面で示し、期限を設ける。懸念品目の一覧は専門家による検討を経て今後作成する」


部屋の何人かが顔を見合わせた。合衆国の提案。そう言ったのだ。

イギリスの代表が一瞬だけコルヴァンの横顔を見た。何も聞かされていなかった顔だった。それから何も言わずに手元の書類に視線を戻した。米国がそういうのであれば、彼に否はなかった。


議場の流れが変わる中、アルドナは斜め前のロシア国連大使の背中を見た。

大使は驚いていない。彼が休憩の最後に席を外したとき、電話の相手が誰だったのか。

アルドナには察しがついてしまった。一時間前まで一歩も引かなかった国が、自分から同じ中身を差し出してくる。その間に議場の外で何かが動いたのだ。


だが何が差し出されたのかはまだ分からなかった。


「異議のある代表団は」


議長が部屋を見渡した。

誰も手を上げなかった。ルワンダの代表のペンが机の上で止まった。


「ではコンセンサスにより採択とします」


木槌の代わりに議長はペンで軽く机を叩いた。




廊下は地下らしく空気がこもっていた。

各国の代表団が三々五々エレベーターへ向かう中、アルドナは資料を抱えて壁際に立っていた。

ロシア大使はまた電話をかけに行っている。彼女はそれを待ちながら流れる人々を眺めた。


足音が近づいてくる。


コルヴァンが書記官を先に行かせて一人で立ち止まった。

二人の間には腕一本ぶんの距離があった。それが4年の間に彼女らを隔てた絶対的な空間の広さであった。


「見事だったわ」


口調は穏やかだが、相手を対等と認めていない。社交辞令の温度だった。


「ありがとうございます、大使」

「ミュンヘンの話は余計だったかしら」


アルドナは少しだけ考えた。何か特別なことを言う必要はもはやない。

交わした熱は失われたのだ。道は分かたれた。


「いいえ。大使のご経験は本物です」

「でもあなたはそれを使って、私を刺した」

「大使が先に使われましたので」


コルヴァンは小さく笑った。


「一つだけ、覚えておいて」


彼女は声を落とした。


「今日のあれは、あなたの論理で勝ったものではないわ。あなたの上司がどこかで代金を払ったのよ」


アルドナは黙っていた。そんなことは言われなくても百も承知だった。


「何を払ったのか、あなたは知らないでしょう」

「……存じません」


アルドナは正直に答えた。


「ですがあの人は払えるものしか払いません」


コルヴァンは少しだけ首をかしげた。4年前と同じ仕草だった。


「覚えているわ。あなたのこと」


アルドナは何も言わなかった。


「あなたは、変わったわね」

「いいえ」


アルドナはまっすぐに彼女を見た。

芯のある声だった。


「私はあの日教わった言葉を今も信じています」


コルヴァンの表情は動かなかった。あなたは正しいことをした、そういったのは彼女自身だった。

信頼を差し出したのは彼女だったのだ。ほんの一拍だけ何か言いかけたように唇が開き、それから閉じた。


「ごきげんよう、カヴァラウスカイトさん」


彼女は踵を返し、エレベーターの方へ歩いていった。小柄な背中は一度も振り返らなかった。

アルドナはその背中が見えなくなるまで立っていた。そして右手に目を落とす。

あの日と同じ細い指だった。けれど今は誰の手のぬくもりにも包まれていなかった。


書類の山の下から、今日いくつかの命が引き出された。その代わりにどこかで誰かが、その山の下に置かれたのかもしれない。アルドナは資料を抱え直し、エレベーターとは反対の手を振って戻ってきたロシア大使のほうに向けて歩き出した。




1994年8月上旬。モスクワ。

大統領府の執務室の窓を開けると、乾いた夏の風が書類の端をめくった。ヴィクトルは文鎮を置き直し、机の上に並んだ3枚の電文を順に眺めた。


1枚目はニューヨークからだった。661委員会の試験手続きに基づく最初の承認分が、ヨルダン経由でイラクへ出荷された。抗生物質や乳児用の栄養剤、浄水場のポンプの部品。塩素そのものはまだ審査の列に並んでいる。米英が建前だけではない、本当の意味で危険と判断したものを止めに来ていると、彼は察し指を滑らせた。


2枚目は安保理の議事の要約だった。ハイチの決議は採択された。ロシアは約束どおり棄権し、対価を受け取っていた。グルジアでのロシアの平和維持活動を支持する決議も、反対なく通ったのだ。


3枚目はチェルノフが手書きで添えた短いメモだった。

ノルドセキュリティグループ、登記完了。

ヴィクトルはそのメモだけを引き出しにしまい、鍵をかけた。


扉が軽く叩かれ、アルドナが入ってくる。


「戻りました、閣下」


ニューヨークから戻って数日、まだ時差が抜けきらない顔をしている。彼女は机の前に立ち、1枚目の電文を横から覗き込んだ。


「……届いたんですね」

「最初の分だけだ。塩素はまだだ。彼らの懸念を解かなければならん、イラク自身も」

「ええ」


アルドナは電文から目を上げた。そこで彼の顔を見て何か言いかけて、口を閉じる。

あなたの上司がどこかで代金を払ったのよ。

アルドナは訊かなかった。いや、訊けなかった。


訊けば彼は答えるだろう。ただ冷静に、隠しもせず、飾りもせず。それは彼との間に一つの貸し借りを作ることになる。彼女は少しだけ考えて、微笑んだ。


「お茶を淹れてきます」


彼女はそれだけ言って部屋を出ていった。ヴィクトルは閉じた扉をしばらく見ていた。それから引き出しの鍵を指先で一度だけ確かめた。何をなしたのか、それが何を変えるのか。

彼はかすかに感慨にふけり、仕事に戻った。




同じ8月。バグダッド。

病院の前庭の、水の涸れた噴水の縁に、ハーリドは腰を下ろしていた。

朝の光はもう白く、砂埃が空を灰色に濁らせている。いつもと同じ空だった。


「先生」


アッバースが木箱を一つ抱えて歩いてきた。蓋にはヨルダンの税関の印と国連の管理番号が刷られている。


「今日の分です。栄養剤が二箱。抗生物質が一箱」

「発注した分にはまだ足りないな」

「ええ。足りません」


アッバースは箱を地面に置き、その上に腰を下ろした。


「だが先月は一箱も来なかった」


ハーリドは答えなかった。代わりに膝の上の帳簿を開いた。

表紙はさらに擦り切れ、背は糸で縫い直してある。紙は相変わらず貴重で、字は相変わらず小さかった。


彼は少しだけ数字を眺めた。見る必要もない程度に悔やみ、脳に焼き付いた数字だった。

微かに、少しだけ目を湿らせる。8月に入って死者の数は明確に減りつつあった。


昨日の欄には11と書かれていた。


ハーリドはその数字を指でなぞった。減っている。確かに減っている。だがゼロにはならない。11人は11人だった。一人ひとりに名前があり、未来があり、泣いていた母親がいた。


それでも、減っている。


南の地区の浄水場では先週、塩素注入ポンプが一基だけ動き出した。部品が届いたからだ。肝心の塩素はまだ足りず、技術者たちは残りの在庫を量りながら少しずつ注ぎ込んでいる。それでも蛇口から出る水の色は、先月より少しだけ澄んでいた。


そこで病棟の奥から声が聞こえた。ハーリドは顔を上げた。

赤ん坊の泣き声だった。

細くかすれた、途切れがちな声。それでも確かに泣いていた。


この病院で赤ん坊が泣くのを聞いたのは、いつ以来だろう。

泣いている。声を上げて何かを求めている。

アッバースも同じ方を見ていた。元兵士の硬い顔がほんの少しだけ緩んだ。


「……生きてますね」

「ああ」


ハーリドは帳簿の新しい行に今日の日付を書き込んだ。数字の欄はまだ空けておいた。今日はまだ日が高い。


あのロシア人は帳簿を捨てるなと言った。


ハーリドはあの小柄な男の背中を思い出した。砂漠の熱と鉄の匂いと、どこか遠い国の怒りを背負っていた男。あの男が何をしたのか、ハーリドは知らない。ロシアで何が起き、ニューヨークで誰が何を言い、どこで何が取引されたのか。この帳簿にはどこにも書かれていない。


ただ変わったのだ。明日を生きる希望ができる程度には。

ハーリドは帳簿を閉じ、空を見上げた。

砂埃に濁った灰色の空だった。その向こうで夏の太陽がかすかに光っていた。


「ありがとう」


彼は小さく呟き、立ち上がった。泣き声の聞こえる病棟へゆっくりと歩き出した。

【第二部あとがきです】

場末の謎の小説を書いてる作者です。

政治的にセンシティブを100回くらい踏んでる作品ですが、皆さんお読みいただきありがとうございます(汗)。


さて、第二部は構想から相当ずれました。内政がりがり書くぞ~っと決めてたんですが、

途中で映画『大統領のケーキ』の話を見て"人道"を書いてみたくなったのが原因ですね。


あと私の別の作品で書いてたバルト非市民問題を少しだけ盛り込みたかったということで、方向性が暴走した、というのが正直なところです。


ただClaude Opus 5.5とChatGPT 6が出てくれたので、調べながらがりがりと書けました。

Geminiじゃあ足りなかったのです。資料精度が。


さて第三部こそ内政、内政……でも地獄のユーゴ内戦の途中の、クライナ……西スラヴォニア。

さらっと20万規模で追放された結果、すべてを塗り替えたあの戦いを少しだけでも書いて、こういったことの元ネタを調べてもらえればなと思いながら投稿します。今後ともよろしくお願いします<(_ _)>。

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