第二部-35 決着
コルヴァンは手元の水に口をつけた。ゆっくりとグラスを置き、それから部屋を見渡した。
「皆さん。私はプラハで生まれました」
誰も予想していなかった言葉だった。アルドナの指がファイルの上で止まった。
「1938年、ミュンヘンで大国が独裁者と取引をしました。平和のためだと言って、人道のためだと言って。その結果、私の祖国は売られました」
コルヴァンの目がテーブルの端のチェコの代表に向いた。
「独裁者に譲歩すれば彼らは次を要求します。その教訓を私たちは血で学んだはずです。この部屋でもう一度ミュンヘンを繰り返すわけにはいきません」
重い沈黙が落ちた。チェコの代表は何も言わずに目を伏せた。
アルドナはゆっくりと息を吸った。
胸の奥で何かが冷たく固まっていくのを感じた。あの日、教壇から同じ声で語られた言葉。
祖国を二度失うことがどういうことか知っているから。それを政治的な言葉に変換したのだ。
彼女は冷えた胸の中で怒りが盛り上がっていくのを自覚した。
「議長」
アルドナは言った。
「発言をもう一度だけ許していただけますか」
議長はロシア大使を見た。大使は小さく頷いた。
「どうぞ」
アルドナはコルヴァンを見た。まっすぐに。
「大使のおっしゃる通りです。ミュンヘンでは大国が小国を売りました」
彼女は一語ずつ区切った。
「ですがミュンヘンで売られたのは、チェコスロバキアの民でした。民が、独裁者へ売られたのです」
コルヴァンの表情が初めて動いた。
「今この部屋で書類の山の下に置かれているのも、独裁者への贈り物ではありません。バグダッドの宮殿の男は栄養剤がなくても死ぬことはない。死ぬのはミュンヘンで売られた人々と同じ、誰にも選ばれなかった人々です」
誰も口を開かなかった。
「私は独裁者への譲歩を求めていません。制裁の解除も求めていません。武器も転用できる物資も政権の懐に入る金も、好きなだけ止め続けてください」
アルドナはファイルを閉じた。
「ただ止める側が理由を明確に示せといっているのです。ただそれだけのことです。今は通してほしい側がすべてを証明しなければならない。子供たちの命を書類の山の下に置いたままで」
テーブルの端でチェコの代表がゆっくりと顔を上げた。
彼は苦渋に満ちた声で言葉をひねり出した。良心と責務で挟まれた声で。
「議長。我が国としては……懸念品目の明示には、意義があると考えます。透明性は、制度への信頼を高めるはずです」
コルヴァンの表情は変わらなかった。
ただ、アルドナには見えた。襟元のブローチに彼女の指がほんの一瞬だけ触れたのが。
フランスの代表が手を上げた。
「フランスはロシア提案の方向性を支持します。制裁の目的は決議の履行であって、飢餓ではありません」
中国の代表も短く続いた。
「中国も人道原則に基づく見直しに賛成します」
イギリスの代表は腕を組んだまま何も言わなかった。コルヴァンを横目で見て、彼女の反応を待っている。テーブルの反対側でルワンダの代表は椅子にもたれたまま、ただペンを指でいじっていた。この議論の間、彼は一度も発言しなかった。まるで喜劇に飽きた観客のように。
議長が腕時計に目を落とした。
「一時間の休憩とします。各代表団は本国との協議を」
議場は煮詰まるばかりであった。
モスクワ。午前零時を回った大統領府の執務室で、ヴィクトル・ペトロフは受話器を耳に当てていた。
机の上にはニューヨークの代表部から届いたばかりの電文がある。論戦の要旨。欧州の数か国が揺れている。だがアメリカは折れていない。
「……ええ。ハイチの決議には、こちらは拒否権を使いません。棄権します」
ヴィクトルの返事に、受話器の向こうでロバート・フィッシャーが短く息を吐くのが聞こえた。
『それだけで我々が折れると?』
「いいえ。もう一つあります」
ヴィクトルは電文を指で揃えた。
「バルカンです。クロアチアで今後何が起きようと、ロシア政府は公式には口を出しません。クライナのセルビア系を理由に安保理で拒否権を振るうこともしない」
受話器の向こうがしばらく静かになった。
『……本気で言っているのか。セルビアはあなた方の弟だろう』
「弟の面倒を見る余裕は今の我々にはありません」
『ロシア国内の民族派が黙っていない』
「それはこちらの仕事です」
フィッシャーは答えなかった。ヴィクトルには受話器の向こうで彼が何を天秤にかけているのか、手に取るように分かった。
「その代わりにグルジアでの我々の平和維持活動を、安保理として支持していただきたい。ああそれと、ニューヨークの件です」
ヴィクトルは淡々と続けた。
「すべてとは言いません。医薬品と食料、上下水道の部品。それと保留には理由と期限をつける。それだけで結構です」
『あなたはハイチとバルカンを人質に取るのか』
「いいえ」
ヴィクトルは窓の外のクレムリンの尖塔を見た。
「取引です。あなた方の裏庭の平和と、我々の裏庭の平和。そしてどちらの裏庭でもない国の子供たち」
『……大使は承知しないだろう』
「それを承知させるのはあなたの仕事でしょう」
ヴィクトルの声は変わらなかった。
「それに大使は今頃あの部屋で言い負かされているはずです。面子を守る出口を探している。こちらから出口を差し上げるだけのことです」
長い沈黙があった。
『……検討する』
絞り出すような声とともに、回線が切れた。
ヴィクトルは受話器を置き、机の端のチェルノフを見た。
「高くついたな」
チェルノフは冷めたコーヒーを新しいものに替えた。それから珍しく自分から口を開いた。
「閣下。クライナのセルビア系は見捨てるのですか」
「公式には、な」
ヴィクトルはカップを受け取った。
「フョードル。空挺軍を退役した連中を集めろ。腕が良くて、口が固くて、食い扶持に困っている者を。民間の警備会社として登記する。名前は……そうだな。ノルドセキュリティグループ」
チェルノフの手が一瞬止まった。
「FSKがしっぽを捕まえた。アメリカも民間の会社の名前で退役将軍を送るそうだ。ならば我々も同じ扉を使う。政府は口を出さない。約束は守る」
ヴィクトルはコーヒーを一口飲んだ。
「政府は、な」
チェルノフは長い間、上司の横顔を見ていた。
「……黄金の鎖の宿題、少し分かった気がします」
「ほう」
「鎖は一本に見えて二本あるのですね。表の鎖と、裏の鎖と」
ヴィクトルは答えなかった。ただ口の端がわずかに動いた。
ワシントン、国務省本館にて。
受話器を置いたあと、ロバート・フィッシャーはしばらく動かなかった。
窓の外では午後四時の陽がまだ高い。ニューヨークの会議室では今頃、一時間の休憩が半分ほど過ぎているはずだった。
彼は引き出しからレポート用紙を一枚取り出した。ハーバードの院生時代からの癖だった。考えがまとまらない時は天秤を紙に書く。
左にイラク。右にハイチ。バルカン。ペン先が左の欄の上で止まった。
イラク。正直に言えば、自分はあの国に何の執着もない。制裁を始めたのは前の政権だ。あの戦争を自分の勲章だと思っているのは、テキサスの一家とその取り巻きたちであって、今のホワイトハウスではない。今の大統領にとってイラクは前任者から押し付けられた負債にすぎない。
そして11月には中間選挙がある。
机の端に例の報告書が載っていた。大使に「最後まで読め」と言われて、結局まだ半分しか読んでいない。だが半分で十分だった。地味な数字の列。独立した調査員の署名。これが選挙の前に新聞の一面に載ればどうなるか。子供を殺す制裁を続ける政権と書かれるのは、前の大統領ではなく彼の今のボスだ。
ホワイトハウスの政治顧問たちは先週から神経を尖らせている。イラクを静かにしておけ。それが本音だった。フィッシャーはよどんだ目で右の欄を見た。
ハイチ、そうハイチだ。大統領がこの夏どうしても通したい決議だ。軍政を倒し、フロリダに押し寄せる難民の波を止める。ロシアが拒否権を振るえば、それだけで数か月が飛ぶ。
そしてバルカン。ペン先がその文字の上で強く止まった。
クロアチアとの訓練契約はまだ紙の上の話だ。退役した将軍たちが民間の会社の名前でザグレブへ飛ぶ。来年クロアチア軍が動く時、背後でロシアが安保理を揺さぶれば、全てが台無しになる。セルビアの弟を守れとモスクワの民族派が騒ぎ立てれば。
それをペトロフはよりにもよって自分から差し出してきた。公式には口を出さない、と。
だが不気味だった。フィッシャーが欲しかったもの、秘匿しているはずの作戦まで知っているかのような口ぶりだった。彼は背筋を寒くしながらその言葉を頭の中で繰り返した。
公式には。公式には、だと。
「……食えない男だ」
彼は小さく呟いた。分かっている。あの男が言ったのは、ロシア政府は口を出さないということだけだ。政府ではない誰かが何をするかについては、何も約束していない。
だがそれはこちらも同じだった。合衆国政府はクロアチアに軍を送らない。送るのは民間の会社だ。
同じ扉を互いに使う。それを承知の上で互いに扉の存在を口にしない。
それで十分だった。安保理で拒否権が振るわれないこと。それさえ保証されれば、戦場で何が起きようと、ワシントンの机の上では何も起きなかったことにできる。
フィッシャーは左の欄に小さく書き足した。医薬品、食料、上下水道の部品の試験導入。
それからペンを置いた。安い、確かに安いのだ。
イラクの人道物資を少し通すだけで、ハイチの一票とバルカンの自由が手に入る。天秤は比べるまでもなかった。
ただ胸の奥に残るものがあった。ジュネーブでも自動車産業の時も、あの男はいつもこちらが一番欲しいものを、こちらが一番払いやすい値段で取引材料としてくる。そして気づいた時にはロシアの取り分の方が大きくなっている。
つまりまた出し抜かれる可能性が、ある。
フィッシャーは口が苦くなるような気分で受話器を取り、ニューヨークの代表部の番号を回した。
呼び出し音が二度鳴り、コルヴァンが出た。
『ロバート。今休憩中よ』
「知っています。結論から言います。医薬品と食料、上下水道の部品について異議なしで手続きの試験導入を認めてください。保留には理由と期限を」
受話器の向こうで息を呑む気配がした。
『……冗談でしょう。あなたが、先週』
「状況が変わりました。ホワイトハウスの意向に沿うためです」
『理由は』
「ハイチ。それとバルカンです」
長い沈黙があった。フィッシャーには彼女の頭の中で何が起きているかが分かった。あの部屋であのリトアニアの女に言い負かされかけている。それを認めずに済む出口を彼女も探しているはずだ。
「大使。これはロシアの提案ではありません」
彼は静かに言った。
「合衆国の提案として出してください。人道状況への深い懸念から。合衆国が主導する改善策として」
受話器の向こうでまた沈黙が落ちた。
『……ロシアに、借りを作ることになるわ』
「借りではありません。取引です」
フィッシャーはさっきペトロフが使った言葉を、そのまま口にしていた。自分でも気づかないうちに。
『……分かったわ』
回線が切れた。フィッシャーは受話器を置き、天秤を書いた紙を二つに折った。それから四つに折り、シュレッダーの口に差し込んだ。
機械が低く唸り、紙を細い帯に変えていった。




