第二部-34 利害
1994年7月。ニューヨーク。国連本部。
661委員会の会合は議場ではなく地下の会議室で開かれた。窓のない部屋に15の国の代表と随員が長方形のテーブルを囲む。記者はいない。傍聴席もない。ここで決まったことは議事録の要約だけが外に出る。
空調の低い唸りが壁の奥でずっと鳴っていた。
アルドナはロシア大使の斜め後ろの席で、分厚いファイルを膝に載せていた。付箋は色で分けてある。赤は決議の条文。青は保留案件の記録。黄色はシグリたちの報告書。
議長が眼鏡を押し上げた。
「ではロシア代表団の提案について審議を続けます。ロシア大使」
ロシア大使は短く頷いた。
「提案の法的な根拠については技術的な説明が必要です。当代表団の法律顧問から説明させたい」
「異議があります」
コルヴァンの声だった。柔らかいがよく通る。
「議長。その顧問の方の国籍を確認させていただけますか。この委員会は理事国の代表のための場です」
部屋の視線がアルドナに集まった。
アルドナは立ち上がった。そして何ごとでもないかのようにはっきりと告げる。
「ソビエト連邦です」
短い沈黙が落ちた。イギリスの代表がわざとらしく眉を上げた。
「存在しない国の国民が安保理の委員会で発言するのですか」
「存在しない国の席をこちらのロシア政府が継いでいます。その席に私は随員として登録されている形です」
アルドナは静かに返した。そして鋭く発言を突き返す。
「名簿は事務局に提出済みです。手続きに疑義があるなら、事務局の法務部に照会していただいて構いません」
イギリス代表は肩をすくめた。議長は手元の名簿を確かめ、小さく咳払いをした。
「……手続き上の問題はありません。発言を許します」
コルヴァンはそれ以上何も言わなかった。ただ指先でペンを一度だけ机に置き直した。
この発言がアルドナの心理を乱すための行動なのは明らかだった。
だがアルドナは指の震え一つ見せずに、ファイルの赤い付箋を開いた。
「議長。決議661号の第3項を読み上げさせていただきます」
彼女は条文を英語で読んだ。
「加盟国はイラクへのあらゆる物資の供給を禁止する。ただし厳密に医療目的の物資、および人道的状況における食料を除く」
彼女は読み上げると会議参加者を一瞥した。
「この決議を起草し採択したのはここにいる理事国の皆さんです。医療物資は最初から制裁の対象ではありません。それにもかかわらず現在この委員会は抗生物質の一件一件にまで申請を求め、審査の名の下に何か月も保留にしています」
イギリスの代表が手を上げた。おそらく彼は本国政府から下がるなときつく言い含められているのか、議事を止める意図が見え透いていた。
「保留には理由があります。申請書類の不備、数量の過大、転用の懸念など。少なくとも理由なき停止ではありません」
「その理由は申請者に開示されていますか」
イギリスの代表は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……すべてではありません。懸念の根拠には各国の情報機関の分析が含まれます。開示すれば情報源を危険にさらすことになる」
「では議長にだけ非公開で示してください」
アルドナは即座に言った。指で禁止品目扱い同然の保留リストをたたきながら。
「申請者に見せられないのなら、この委員会の議長に。それもできないのなら、その保留は根拠がないのと同じです」
「それは委員会の運用を根本から変えることになる」
「運用が決議を踏み越えているからです」
アルドナは青い付箋のページを開いた。
「こちらに保留されたまま期限の定めのない案件の記録があります。小児用の点滴セット。透析用の液剤。ワクチンを保管するための冷蔵庫。どれも決議が最初から除外している医療目的の物資です。保留には理由も期限も示されていません。保留は事実上の拒否として機能しています」
フランスの代表がゆっくりと頷くのが見えた。中国の代表はメモを取る手を止めない。
イギリス代表はかすかに歯ぎしりをしたが反論はしなかった。
彼も馬鹿ではない、この委員会の運用が恣意に歪んでいることなど承知の上だった。
ここでコルヴァンが彼にうなずくとマイクを引き寄せた。
「法律顧問の方の説明には敬意を表します」
アルドナは彼女を見た。
「ですが一つ大切な事実が抜けています。国連はイラクに道を示しました。管理の下で石油を売り、その代金で食料と医薬品を買う枠組みを三年も前に、です。それを拒んだのはバグダッドの政権であることを忘れないでいただきたい」
コルヴァンの声は穏やかだった。
「医薬品が届かないと嘆くなら、まずあの男に枠組みを受け入れさせるべきです。私たちではなく」
アルドナは頷いた。
「その通りです。枠組みを拒んだのは、バグダッドです」
コルヴァンの目がわずかに細くなった。
「ですからその枠組みの残りの部分もここで確認させてください」
アルドナは黄色い付箋のページをめくった。
「売れる石油の量には半年ごとの上限がありました。売上は国連の管理口座に入り、クウェートへの賠償基金と国連の経費が先に差し引かれる仕組みでした。自国の資源の代金を自国の政府が一切管理できない。バグダッドはそれを主権の侵害だと言って拒みました」
「独裁者の言い分です」
「ええ」
アルドナはあっさりと認めた。
「それが独裁者の傲慢であることを私は否定しません。けれど大使、その交渉のテーブルに子供たちの命は載っていませんでした。貴国も他の参加国家も、当時のソビエト連邦もそれを斟酌などしなかった」
部屋が静まった。
「あの男が拒んだ枠組みの代償を、その交渉に一度も呼ばれなかった子供たちが払っています。私たちは独裁者の傲慢を罰する代わりにその国の子供を罰しているのですか?」
コルヴァンは手元の書類に視線を落とした。それからゆっくりと顔を上げた。
「あの男は子供を盾にしているのです」
その声には初めて温度があった。
「病院の写真を世界に流し飢えた子供を見せて、制裁を解かせようとしている。ここで私たちが譲れば、彼はそれを勝利と宣伝するでしょう。盾が効いたと。ここで下がれば、次の独裁者も同じ盾を使うでしょう」
「では」
アルドナは静かに訊いた。
「盾にされた子供を盾ごと撃ち抜くのが制裁の目的ですか」
コルヴァンの唇がわずかに引き結ばれた。
イギリスの代表が割って入った。
「言葉が過ぎます! 議長、私は彼女に発言の訂正を求めたい!」
「失礼しました」
アルドナは軽く頭を下げた。だが言葉は撤回しなかった。
イギリス代表がもはや睨みつける中、議長が咳払いをした。
「あー技術的な論点に戻りましょう。合衆国代表」
コルヴァンは書類を揃え直した。表情はもう元に戻っていた。
「では技術の話をしましょう。浄水場に必要な塩素は化学兵器の原料になります。発電機の部品は軍の施設にも使えます。イラクがこれまで査察を妨害し、何を隠してきたか。この部屋の全員が知っているはずです」
彼女は一呼吸置いた。
「民生品を原則として通せば抜け穴が生まれます。私たちはその穴から毒ガスが漏れ出すのを見過ごすわけにはいきません」
「では列挙してください」
アルドナは即座に返した。
部屋の空気がわずかに張りつめた。
「何をあなたたちが恐れているのかを列挙してください。塩素の量、発電機の型式、化学物質の種類。今懸念されたものは当然あなた方の専門家が列挙し、リスト化したうえで正確に把握しているはずです」
アルドナはファイルの上で指を組んだ。
「そしてそのリストに載らなかったものはあなた方が恐れていないと認めたことになります。栄養剤、包帯、浄水用のフィルター、子供用の粉ミルク。それらを一件ずつ審査する理由はもうどこにもなくなるはずです」
「リストは完全にはなりません」
コルヴァンはすぐに返した。
「どれほど専門家を集めても必ず漏れが出る。そしてイラクはその漏れを突いてくる。リストは独裁者のための買い物表になるだけです」
「では委員会がいつでも改定できるリストにすればいい」
アルドナは首を縦には振らなかった。
「漏れが見つかればその日のうちに加える。今の方式は完全を求めるあまり何も通さない方式です。完全なリストが作れないという理由で栄養剤まで止める。それは安全のための制度ではありません。何もしないための制度です。失礼ながら、技術的完全性が満たされることがないことは承知のうえでしょう」
「配布の保証はどうなります」
イギリスの代表が言った。
「通した物資が政権の手で軍に流れないという保証は」
「国連の人道機関に配布を監視させればいい」
アルドナは答えた。
「すでに現地には国連の職員がいます。彼らに倉庫と病院を確認させる。監視は止めるためではなく届けるために使うべきです」
ニュージーランドの代表が小さく手を上げた。
「議長。一点だけ合衆国代表に伺いたい」
コルヴァンが顔を向けた。
「懸念品目を明示した場合、具体的にどのような不利益が生じるのでしょうか。我が国にはその不利益が見えません」
彼は同盟国への義理と国際的な視点の前で知らぬふりはできないとの感情で、揺れ動いているように見える。コルヴァンもそれを察してほんの一瞬だけ答えを探した。
「……明示すれば、イラクは私たちが何を把握しているかを知ります。それ自体が情報の漏洩になります」
「彼らが恐れているものを知るのは悪いことですか」
ニュージーランド代表の困惑した声が議場に響く。これでは古代中国の隠された刑法ではないかと。
だがここでオマーンの代表が低い声で遮った。彼の国は中東の安全を合衆国に依存するGCCの一員だった。そしてイラクへの懲罰意識を持つGCCの他の加盟国の意向を背負ってもいる。オマーン自身はともかく、中東を荒らしたあの国を野放しにしたくないというのがリヤドやクウェートの意向だった。ゆえにさすがに一言口をはさむ必要があった。
「恐れているものが分かればイラクはそれを避けるでしょう。それこそ制裁の目的では」
対立する利害で議論は暗礁に乗り上げつつあった。部屋のあちこちで紙を擦る音が続く。誰もが相手を押し込める論理を探しているのだ。




