第二部-33 演説
1994年6月末、ニューヨーク。国連本部。
安保理議場の裏手にある小さな控室は、イースト川に面した窓から六月の白い光が差し込んでいた。壁際の長机にはロシア語と英語の資料が二つの山になって積まれている。
アルドナが英語の山の一番上の冊子を取り、付箋の位置を確かめていると扉が開いた。
外務大臣アンドレイ・コズイロフが珍しく少壮の気鋭を見せて入ってきた。仕立てのいい紺のスーツに少しだけ緩めたネクタイ。手には演説の草稿を丸めて握っている。その紙は端がもう柔らかくなっているようだ。
「カヴァラウスカイトさん」
アルドナは顔を上げた。
「お早いですね、大臣」
「眠れなかったのでね」
コズイロフは苦笑し向かいの椅子に腰を下ろした。
アルドナは内心で小さく瞬いた。カヴァラウスカイトさん。ロシア人から呼ばれるときとしては珍しく父称は付いていない。
「……正しく呼んでいただけるんですね」
「何がです?」
「私の名前です」
コズイロフは一瞬きょとんとして、それから気づいたように頷いた。
「リトアニアでは父称を使わないと聞いています。違いましたか」
「いいえ。合っています」
アルドナは微笑んだ。クレムリンの誰かさんはもう2年近く直らないのに。
コズイロフは丸めた草稿を机の上で広げた。赤鉛筆の書き込みで行間がほとんど埋まっている。
「一つ確認させてください」
「どうぞ」
「この資料と、この演説の骨子。これは副長官の意向が入っていますか?」
アルドナは少しだけ間を置いた。
「数字は、そうです。大統領府が集めてノルウェーの調査員たちが検証したものです」
「では言葉は」
「言葉は台本には書いてあります。ですが私は大臣ご自身のものであってほしいと思っています」
コズイロフは彼女をじっと見る。かすかに警戒する雰囲気を漂わせた。
人の良さの中に普段は見せないテクノクラート上がりの芯の強さが見え隠れする。
数瞬の後、彼はそっと尋ねた。
「副長官にそう言えと?」
「副長官は何も言っていません」
アルドナは首を振った。
「ただ副長官の台本を読む大臣を、あの議場の人たちは見抜きます。コルヴァン大使は特に」
コズイロフの眉がわずかに動いた。
「彼女をご存じなのですか」
「昔一度だけ講義を受けました」
それ以上はアルドナは口をつぐんだ。コズイロフも無理にそれ以上は訊かなかった。
しばしの沈黙の間、窓の外を観光船がゆっくりと川を下っていく。
「正直に言いましょう」
コズイロフは草稿の上に両手を置いた。
「私はこの2年ワシントンと話せる関係を作ることに全てを賭けてきた。副長官、つまりあなたの上司がそれを何度も踏みつけてきたこともよく知っている」
「はい」
「今日ここでアメリカを批判すれば、私が積み上げたものの多くが崩れてしまう。それでも私はこれを読むべきだとあなたは思いますか?」
アルドナはすぐには答えなかった。
「大臣はあの各団体の報告書を最後まで読まれましたか」
「何度も読み返しました」
「どう思われましたか」
コズイロフは長く息を吐いた。
「……恥ずかしかった」
アルドナは黙って続きを待った。
「私は外交官になった時から西側の言葉を信じてきた。人権、法の支配、人間の尊厳。ソ連の中でそれを信じるのは簡単なことではなかった。私自身が西側で生まれて幼少期を過ごしたから、こういった思考を持つのかと何度も自分を疑ったものです」
彼は草稿の一行を指でなぞった。
「だから私は……。私は自分が閣僚としてその力をふるえるようになった時、ただ単純にうれしかった。崩れかけの祖国のために西側の言論の力をふるえることが」
彼は一瞬瞑目し、絞り出すように言った。
「私も知っていたんです。報告されるまでもない、外務大臣として世界情勢を取りまとめていたのは私だったのですから」
それは懺悔だった。アルドナは一瞬口を挟もうとして言葉をしまった。
「私は数字として見逃しました。ソ連は、古き祖国は朽ちて倒れた。でもそこにいる人たちを見捨てるわけにはいかない、ゆえに私は西側との友好を……」
そこで微かに首を振って彼は疲れた微笑を浮かべた。
「ナイーブと言われても仕方ありませんね。民間から詳細な報告書が出たら騒ぐなんて。私も、おそらくは私が信じた相手の大半も自分たちの掲げた言葉を踏みにじった。そして私はそれを内心理解しながらも黙ってきた」
アルドナはそっと彼を見つめた。微かに迷いを瞳に載せて告げる。
「ですが大臣、過ちは贖うしかありません」
「死んだ人間にそれは意味をなさない」
コズイロフは顔を上げた。徐々に瞳に覚悟を決めていく。
「だからこそ、だからこそ。ただ私にできるのは言葉を使って彼らに信を問う。武器でも脅しでもなく、彼らが私たちに教えた言葉で」
アルドナは自分の胸の奥で何かがかすかに鳴るのを感じた。
「それが一番効きます」
彼女は静かに言った。
「西側の言葉で西側を批判する人を、彼らは宣伝だと切り捨てられません」
コズイロフは小さく笑った。
「1年半前ストックホルムで一度だけ芝居を打ったことがある。強硬な演説をして1時間後に撤回した。保守派が政権を取ればこうなると見せるためにね」
「存じています」
「今日は芝居はしない」
彼は草稿を丸め直し、立ち上がった。それから扉の前で一度だけ振り返った。
「カヴァラウスカイトさん。最後に一つだけ」
「はい」
「あなたは誰のためにここにいるのですか」
アルドナは少しだけ考えた。
「報告書の中の子供たちのためと言えば信じていただけますか」
「いいや」
コズイロフは即答した。
「副長官のためと言っても、たぶん信じない」
「では」
「だが」
彼は扉の取っ手に手をかけた。
「今日のところはそれで十分です」
扉が開いた。廊下の向こうから議場のざわめきが流れ込んでくる。各国の代表団が席に着き、通訳ブースの窓に明かりが灯り始めていた。アルドナは資料を抱えコズイロフの半歩後ろについた。
議場の扉をくぐった時、馬蹄形のテーブルの向こう側にアメリカの席が見えた。
小柄な女性が襟元のブローチに光を受けて座っていた。
議長の木槌が一度だけ鳴り、議場のざわめきが引いていった。
馬蹄形のテーブルに15の国の名札が並ぶ。アルドナはロシア代表団の後方席に腰を下ろし膝の上の資料に手を置いた。前の席のコズイロフの背中が見える。紺の肩がわずかに上下していた。
「ロシア外務大臣に発言を許します」
コズイロフはマイクのスイッチを入れた。
丸めた草稿は机の上に置かれたままだった。広げもしない。アルドナは息を止めた。
「議長。理事国の皆さん」
ロシア語が議場に響き、通訳ブースから英語とフランス語が追いかけていく。各国の代表がイヤホンに指を添えた。
「最初に申し上げなければならないことがあります」
コズイロフは一度だけ言葉を切った。
「1990年8月、決議661号が採択された時ソビエト連邦は賛成票を投じました。我が国はその席を継いでいます。つまり今日ここで私が語ることは他人の過ちの告発ではありません。我々自身の過ちの告白です」
議場の空気がわずかに揺れた。アメリカの席で誰かがペンを止める音がした。
「皆さんのお手元に欧州の人権団体による報告書があります。数字の出どころはロシアです。しかし検証したのは我々ではない。我々の影響の及ばない独立した調査員であることを、先に申し上げたい」
コズイロフは報告書に手を置いた。開きはしなかった。
「皆様もご確認になられた通り、イラクでの病院は発電機の部品を、浄水場は塩素のポンプを待っています。そして子供たちは何よりも栄養剤を待っています。待っている間に、死んでいくのです。毎日、ただそこにいるというだけで!」
アルドナは視線を横に滑らせた。
テーブルの端にルワンダの名札がある。そこに座る男は椅子の背に深くもたれていた。指先でペンを一本ゆっくりと転がしている。口の端がほんのわずかに上がっているように見えた。
笑っているのか。それとも、そう見えるだけなのか。アルドナには分からなかった。
ただその男の国で今この瞬間に何が起きているかを、この部屋の誰もが知っている。そしてこの部屋の誰もがそれを正しい名前で呼ぼうとしない。アルドナは彼から視線をはずした。
「私はソ連の外務省で育ちました」
コズイロフの演説が続いていく。声が少しだけ低くなった。
「その頃、私たちに人権という言葉を教えてくれたのは西側の皆さんでした。1975年、ヘルシンキで東西が署名した最終議定書。人間の尊厳は国境を越えて守られるべきだという約束。私はその言葉を信じて外交官になったのです。率直に言えば私はあなたたちの姿にあこがれたのです」
アルドナは前の席で草稿が丸まったまま動かないのを見ていた。
最初から彼は台本を見る気などなかったのだ。
「今回、我々は制裁の解除を求めているのではありません」
コズイロフは続けた。
「武器は止め続けるべきです。軍事に転用できるものも、政権の懐に入る金も。しかし民生品を一件ずつ審査し、許可が下りるまで何か月も待たせる今の方式は改めるべきです。禁止するものを列挙し、それ以外の人道物資は原則として通す。我々はそれを人道物資包括許可方式として提案します」
欧州の席で何人かが資料をめくる手を止めた。チェコの代表が隣の書記官に何か小さく耳打ちするのが見えた。コズイロフは向かいのテーブルに目を向けた。まっすぐに、アメリカの席を。
「我々は自分たちが掲げた言葉に、自分たちで答える義務があります。私は今日その義務を果たしに来ました。私たち大国が今後の世界に範を示すことができるように。以上です」
マイクのランプが消えた。
拍手はない。安保理に拍手の習慣はない。それでも議場には重い沈黙が落ちた。紙の擦れる音だけがあちこちで小さく響いていた。
「アメリカ合衆国代表に発言を許します」
コルヴァンがマイクを引き寄せた。
「ロシア外相の真摯な発言に敬意を表します」
柔らかい声だった。英語がそのまま議場に流れていく。
「私たちもまたイラクの子供たちの死を深く悼んでいます。その痛みを知らない者はこの部屋に一人もいないでしょう」
彼女は一呼吸置いた。
「しかしその責任がどこにあるのかを見誤ってはなりません。イラクは石油製品の交換を禁止されているのではありません。国連の枠組みで石油製品の対価(算定価格)として食料と医薬品を交換することは明確に許可されています。それを拒み、国民ではなく宮殿と軍に資源を回しているのはバグダッドの政権自身です」
コルヴァンは手元の書類を揃えた。
「制度の見直しについては委員会で慎重に検討しましょう。ただし譲歩したという事例を、我々は示すべきではないと申し上げたい」
発言が終わった。
コルヴァンはマイクから手を離し、ふと顔を上げた。ロシア代表団の席を、そしてその後ろの列を。
コルヴァンの視線がアルドナの目をとらえる。アルドナは視線を逸らさなかった。
ほんの一瞬コルヴァンの目の奥で何かが動いたように見えた。四年前の教室のあの温かい光の残り滓のようなものが。それから、それは瞬く間に消えた。
彼女は何事もなかったように隣の書記官へ顔を向け、小声で何かを言った。
アルドナは膝の上で両手を重ねた。右手がかすかに冷たかった。
議長の木槌が鳴る。
「本件は、661委員会での審議に付します」




