第二部-32 国務省
1994年6月。ワシントン。
ポトマック川から上がってくる湿気が、フォギー・ボトムの街をぬるい湯のように包んでいた。国務省本館の廊下は冷房が効きすぎていて、ホワイトハウスでの閣議を終えたコルヴァンは上着の前をそっと合わせた。
次官室の前で秘書の若い女性が立ち上がった。
「大使。次官は中でお待ちです」
「ありがとう、ジェニー。お母様の手術はどうだった?」
秘書の顔がぱっと明るくなった。
「おかげさまで無事に。覚えていてくださったんですね」
「当然よ。落ち着いたらまた話を聞かせてね」
コルヴァンは微笑み、扉を開けた。
ロバート・フィッシャーは窓際の机で書類に目を通していた。顔を上げずに手だけで椅子を示す。
コルヴァンはかすかにため息をついて荷物を席に下ろした。
彼女は彼が悪気なくこういった態度をとることにあきれた様子だった。
「人が訪ねてきたときは顔くらいあげなさい」
フィッシャーはぎくりと肩を震わせ、ばつが悪そうに微笑む。
「すいません、レディ。どうも癖が抜けなくて。閣議はどうでした」
「ボスニアの話ばかり。あなたの好きな数字は一つも出てこなかったわ」
「それは残念」
フィッシャーはようやく書類から手を離した。
そして軽口から真面目な表情に。共和党と民主党両方を渡り歩く歴戦の官僚の表情へと切り替わる。
「で、ニューヨークの戦況は?」
コルヴァンは鞄から薄い冊子を取り出し、机に置いた。
表紙にはヘルシンキ合意で名が知られた複数の人権団体の名前が連なっている。
「読んだ?」
「要約だけは」
「全部読んでおくようにいっておいたでしょうに」
フィッシャーは表紙を指で弾いた。
「そうはいっても情報源はロシア政府でしょう。数字を並べて同情を買う。いつもの連中のやり口だ」
「数字を出したのはロシアよ。でも検証したのは彼らなの」
コルヴァンは冊子の上に手を置いた。
「厄介なことに、私たちの影響が効きにくい各団体の調査員が同じ結果を出してる。ロシアの宣伝だけならあなたとこんな話しないのよ」
「では?」
フィッシャーは彼女の意見を傾聴するために手を前で組んだ。
彼は少なくとも目の前の女性がただの人の好い女性とはかけらも思ってはいない。
そんな女性はそもそも国務省でのし上がれない。
「委員会でロシアはこれを突きつけてくるでしょうね。被害の大きさを取り上げて大きな声で。実際ホワイトハウスが握りつぶしていた情報に、いくつかの国はもう揺らされてる」
それはある種良心の呵責もない言葉だった。だがフィッシャーはそれを気にしない。彼と彼女の関係にホワイトハウスの行動を批判するというカテゴリはなかった。彼は椅子の背にもたれた。
「大使。あなたはこの報告書を読んでどう感じました」
コルヴァンは少しだけ黙った。
「……ひどい話だと思ったわ」
「ええ」
「子供が死んでる。それは事実でしょう」
「事実です」
フィッシャーはあっさり認めた。
「そしてその責任はバグダッドの男にある。彼は石油を売れる。国連の枠組みで食料も買える。それを宮殿と軍に回しているのは彼自身だ」
嘘ではなかった。ただし国連制裁委員会の監視の下で、だ。それが適正な価格ではないこと、国際市場の中で消化されないことなど彼らの考慮には値しない。
「分かってる」
コルヴァンは頷いた。その言葉に彼女自身の迷いはなかった。
「私たちが譲歩すれば得をするのはあの男よ。独裁者に屈した例を生み出すわけにはいかない」
「その通り」
フィッシャーは満足げに頷き、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
「ついでにこれも見ておいてください。あなたとやりあうロシア代表団の出席者名簿です」
コルヴァンは紙を受け取った。大使、次席大使、書記官、法律顧問。見慣れたロシア人の名前が並ぶ末尾に一つだけ響きの違う名前があった。
アルドナ・カヴァラウスカイト(ソビエト連邦)。
指が止まった。カヴァラウスカイト。その名前を彼女は知っていた。4年前の秋、ジョージタウンの教室。国籍法の起草委員会の末席にいたと、はにかむように言った若い法律家のことを。両手で包んだ手の細い指の温かさを思い出す。
あの子だ。
一瞬だけ口元が緩みかけた。それから括弧の中の国名が目に入った。
ソビエト連邦、その単語を見た瞬間彼女の表情から温かさが抜けていく。
「……モスクワに渡ったのね」
「ああ、その女ですか。ヘルシンキでバルトの結束を割った女ですよ。今はペトロフの私設顧問だ」
フィッシャーが言った。
「法律の魔女、とモスクワでは呼ばれているとか」
コルヴァンは名簿を机に戻した。その手つきはもう何の迷いも見せていなかった。
「覚えておくわ」
それだけだった。
フィッシャーは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。外では夏の陽がリンカーン記念堂の白い屋根を焼いている。
「もう一つ」
彼は声を落とした。部屋には二人しかいないのに、耳打ちするような声だった。
「今度送るクロアチアへの訓練支援。あれが動き出す前に、ロシアに譲歩の姿勢は見せられません」
コルヴァンは目を細めた。訓練支援。退役した将軍たちが民間の会社の名前でクロアチアへ飛ぶ話だ。名目は軍の近代化と民主化の指導。だが彼らが何を教えに行くのか、この部屋の二人は知っていた。セルビア系の武装勢力が居座る土地をクロアチアが取り戻すための、攻勢の準備のためだ。
「そちらもそうだけど、そもそもベルリンの頭を押さえられそう?」
「やってみせましょう。クロアチアへの影響を連中に振るわせるわけにはいかない」
フィッシャーはかすかな笑みでそう返した。冷戦終結後、ドイツは欧州の主要大国として返り咲くためにユーゴ解体に手を突っ込んだ。それを国務省は決して快く思ってはいない。覇権は一つでなければならないのだ。
「さてロシアに話を戻しましょう。イラクで一歩引けば、モスクワは次にバルカンで口を出してくる。連中の欲は際限がない」
フィッシャーは続けた。
「あの国はセルビアを弟だと思っている。今のロシアには口を出すだけの体力がある」
「分かってる」
コルヴァンは答えた。彼女に迷いはなかった。クロアチアは小さな国だ。ベオグラードの共産主義者たちに踏みにじられ、村を焼かれてきた。
そしてあの下品な男、共産主義者上がりのベオグラードのあの男は、ボスニアで今も同じことをしている。それに対抗する弱き者に武器と知恵を渡し、虐殺者の足元を切り崩す。それのどこに恥じるところがあるだろう。
だがふと別の考えが頭の隅をかすめた。取り戻された土地から今度は誰が出ていくのか。荷物をまとめる家族。親の手を握って、どこへ行くのかも分からずに歩く子供。
それは2歳だった自分、11歳だった自分。ほんの一瞬だけ、コルヴァンの指先が襟元のブローチに触れた。だが彼女の思考を遮る無意識のノイズはすぐに消える。指は何かを失ったかのように力なく離れた。
「必要なことよ」
彼女は言った。それはまるで夕食が決まったかのように平静な声だった。
「ええ、必要なことです」
フィッシャーの頷きを見てコルヴァンは報告書と名簿を鞄に戻し、立ち上がった。
「ニューヨークに戻るわ。委員会は来週よ」
「健闘を祈ります、大使」
扉の前でふとコルヴァンは一度だけ立ち止まった。
「ロバート」
「はい」
「あなたはあの報告書を最後まで読むべきよ」
フィッシャーは少しだけ眉を上げた。
「読んだら何か変わりますか」
コルヴァンは答えなかった。それは彼女自身が一番よく知っていた。彼女は返事をせずにそのまま廊下に出る。冷たい空気の中で秘書のジェニーがもう一度立ち上がり、にこやかに会釈した。コルヴァンは温かく微笑み返した。
その笑みには一片の嘘もなかった。




