第二部-31 仰いだ旗の先
モスクワ、ノヴィンスキー並木通り。
アメリカ大使館の領事窓口は5月の午後の光で白く乾いていた。
アルドナは防弾ガラスの下の隙間からパスポートと書類を差し入れた。ロシア外務省の口上書と代表
団の名簿の写し。そして深紅の表紙に金色のソ連国章が刻まれたソ連様式のパスポート。
使うものが少なくなった、ロシア政府が管理するパスポートだった。
若い領事官がそれを開いた。写真とアルドナの顔を一度だけ見比べる。それから口上書に目を落とし、しばらく動かなかった。
「ロシア国連代表団の顧問、ですか」
「はい」
領事官はペンの尻で申請書の一か所を叩いた。空欄のまま残された欄だった。
「国籍は?」
アルドナは口を開いた。ほんの一瞬だけ言葉が喉の手前で止まる。リトアニア、と言いかけた唇を彼女は意思の力で閉じた。その国の名簿から彼女の名前はもう消されている。
「ソビエト連邦です」
領事官が顔を上げた。
窓口の向こうとこちらで短い沈黙が落ちた。後ろの待合の長椅子で誰かが咳をした。
横目で見ると、米国の旅行者がこちらを見ている。何をふざけているのかという目つきだった。
「……ソビエト連邦」
領事官はオウム返しに繰り返しその言葉を申請書に書き込もうとするも、ペン先がわずかに迷ったのが分かった。目の前にいる女性の出生地も名前も、どう見てもバルトのものだった。それでも旅券は有効で、国籍欄に書くべき答えも一つしかない。
彼はあきらめて、すでに実態が消滅した紙の上の国の名前をアメリカの公文書に記す。
「審査には少しお時間をいただくかもしれません」
「承知しています」
アルドナは微笑んだ。この国が手続きの上では彼女を拒めないことも、それでも時間をかけることはできることも、彼女はよく知っていた。ふとガラス越しに領事官の背後の壁が見えた。星条旗と大統領の肖像画がかかっている。
昔同じ旗の国に訪れた際、彼女は手を握られたことがある。
1990年、秋。ワシントンでのことを彼女は思い出した。
ジョージタウン大学の赤煉瓦の壁に色づいた蔦が絡んでいた。独立回復法に署名してから半年が経過し、アルドナが28歳を目前にしたころのことだ。
彼女は独立政府の命でワシントンの大学に短期留学していた。西側との顔つなぎと同時に経済的なバックアップや法的立場を確立するために。
「では私自身の話から始めていいかしら」
その日の教壇の教授は小柄な中年の女性だった。襟元の小さなブローチが窓からの光を拾っている。コルヴァンと名乗った彼女は胸に手を当て自己紹介を穏やかに始めた。
「私は昔プラハで生まれたの。最初に祖国を追われたのはナチスが来た時。まだ2歳にもならない子供だったわ」
教授は教室を見渡した。その瞳は澄んだ光をたたえている。
「戦争が終わって確かに一度は帰れた。けれど3年後、今度は共産党が来て私の家族はまた荷物をまとめることに。あの時の辛さを忘れたことはないのよ」
前の席のポーランド人が小さく頷いた。彼もまた祖国に巣くう共産党にあらがった一人なのだろう。
「だからこそ私はあなたたちの側にいたい。祖国を二度失うことがどういうことか知っているから。そして合衆国もまた、あなたたちが自分で道を歩めるように寄り添いともに歩んでいく。これが私があなたたちにできる自己紹介よ」
ウインクした彼女の言葉に教室は沸いた。共産党政府に、あるいはモスクワに頭を押さえつけられた彼らにとって、それは干天の慈雨に等しい励ましだった。アルドナもまたその輪の中で歓喜に沸いたことを覚えている。
収まらない熱狂をコルヴァン教授が抑え、授業に入っていく。その日はちょうど東欧の政治史だった。終わり際に教授は一枚の資料を掲げた。
「最後にリトアニア国籍法の話をしましょう。この国は民族を問わずすべての住民を国民として迎えました」
教室の後ろでアルドナは息を止めた。
「独立の熱狂の中でこれを選ぶのは簡単なことではありません。これこそが自由な国の始め方だと私は考えます。みなさんも自由な国家でともに歩む同胞を大切にしてほしい。それが民主国家だから……というところで今日の授業は終わりにしましょうか」
瞳が微かにうるんだことをアルドナは覚えている。そして講義が終わるとコルヴァン教授は出口に立ち、一人ひとりと握手をしていく。しばらくしてアルドナの番になった時、教授は名札に目を落とし首をかしげた。
「リトアニアの方ね」
「はい」
「あの法律についてあなたはどう思う?」
アルドナは少し迷ってから答えた。
「……起草委員会の、末席にいました」
教授の目が見開かれた。
「本当に?」
「議論はひどいものでした。ポーランド系やロシア系を国民にするなら独立の意味がないと言う人もいました。私も何度も裏切り者と呼ばれました、けれど」
「それでも通したのね」
「隣人を切り捨てる国を作りたくなかったので」
教授はしばらくアルドナの顔を見ていた。それから両手で彼女の手を包んだ。
「あなたたちは正しいことをした。いい? 忘れないで」
「はい」
「私たちはあなたたちの味方よ。どんなことがあっても」
その手は確かに温かかった。もう遠い、四年前の秋のことだ。
「カヴァラウスカイトさん」
領事官の声でアルドナははっと顔を上げた。ガラスの下から受付票が一枚差し出されていた。
「一週間後にもう一度お越しください。パスポートはこちらでお預かりします」
「一週間ですか」
「規定の範囲内です」
領事官は目を合わせずに言った。アルドナは受付票を受け取り、礼を言って窓口を離れた。
大使館の外に出ると、並木通りのポプラが白い綿毛を飛ばしていた。五月の終わりを告げる雪のような綿毛が宙を舞っていく。
通りの向こうでチェルノフが車の脇に立っていた。彼女に気づくと、ほっとしたように片手を上げた。
アルドナは歩きながら一度だけ自分の右手を見る。
あの温かい手の持ち主は今ニューヨークにいる。合衆国国連大使として。
来月、彼女とアルドナは再びあいまみえることとなるだろう。
今度はテーブルの向こう側で、敵として。アルドナは右手を握りしめ、通りを渡った。




