第二部-30 人道
扉が閉まる音がした。
廊下を遠ざかっていく二人分の足音がやがて玄関の向こうへ消える。車のドアが閉まる音がしてエンジンがかかり、それもすぐに住宅街の静けさに呑まれていった。
イェンス・エーゲルはしばらく閉じた扉を見ていた。それからテーブルの向こうへ目を移した。
シグリ・ホーゲは座ったままだった。さっきまでロシアから来た二人を相手に軽口を叩き皮肉を返し、一歩も引かずにやり合っていた彼女だ。その彼女が今は口を閉ざし、テーブルの上のファイルに片手を置いている。
その手は固く握りしめられていた。指の関節が白くなるほどに。
エーゲルには彼女の頭の中で何がぶつかり合っているのか、おおよそ見当がついた。
ヘルシンキ委員会の人脈を通じてようやく手にしたHRW欧州での発言力。ノルウェー外務省から降りてくる調査委託の予算。同盟国である米英を名指しで告発することになるかもしれない報告書。そしてそれらすべてを天秤に載せてもなお、目の前の紙束から目を逸らせない彼女自身の性分。
昔、高校時代。上京してきた田舎娘だったころから彼女はそうだった。不正義を許せない、子供じみているといってもいい。だがそこにひかれたのだ。エーゲルは一度だけ目を閉じた。
「シグリ」
返事はなかった。
「僕は仕事上この件を政府に上げなければならない」
シグリは顔を上げなかった。握った拳もほどかなかった。
「君が何を考えているかは分かる。分かるが……冷静になってくれ」
長い沈黙のあと乾いた声が返ってきた。
「誰もが分かっていたことでしょう。私も、あなたも」
彼女はようやくファイルから視線を上げた。
「こうなることくらい」
エーゲルは答えられなかった。そうだ、分かっていたことだった。
制裁、罰則、賠償金。同盟国がそれらを子供のように無邪気に振り回すのを誰も止めなかった。止めるために話をつける手間を誰もが厭った。
ソビエトが倒れ、その後継国家が旧東側の一部しかまとめきれないと見えた時点で、西側にはもう正義を演じてみせる相手がいなくなった。だから皆、自分自身を映す鏡を伏せたのだ。
そして自分もその一人だった。
3年前、制裁の継続を支持する公電の草案を書いたのはほかでもない自分だ。上司の手を経てそれは本国の立場としてニューヨークへ送られた。会議の席で誰かが医薬品の審査の遅れを口にしかけた時も、自分は黙って議事録にペンを走らせていた。
訊かなければ知らずに済む。知ってしまえば目を伏せればいい。
自分には関係のないことだ、あるいはあの国の自業自得だと。
もし同じことが自分の身に起きれば泣き叫び、飢えに苦しみ、子を失う悲しみに押し潰されるくせに。
それが彼の内心の一部だった。だが外交官としての彼が口にした言葉はまったく別のものだった。
「制裁は正当な手続きに基づいている。安保理で承認された決議だ」
自分の声がひどく平板に聞こえた。
「ソ連も賛成票を投じた。ロシアはその席を継いでいる。今日この話を持ち込んだ国も署名者の一人なんだよ、シグリ」
「知ってる」
シグリは即答した。
「だから厄介なんでしょう」
彼女は握っていた手をゆっくり開き、ファイルの表紙を指先でなぞった。
「困り果てた国が泣きついてきたのなら話は簡単だった。同情して少し手を貸して、それで終わり。でもあの人たちは違う」
「ああ」
エーゲルは頷いた。
「彼らは計算してここへ来た、国家の意志として、だ。だからこれは慈善じゃない。力のある隣国の外交に君の名前を貸すということだ」
「それも分かってる」
シグリは窓の外に目をやった。オスロの空は朝の雨を引きずったまま低く垂れこめている。
「オスロの人はロシアを地図で見てるわよね」
その声から少しだけ角が取れた。
「私は窓から見て育った。フィンマルクの冬の夜は国境の向こうの灯りがよく見えるの。子供の頃、祖母がよく言ってた。向こうにいる人も何も変わりがない若者だったって。なんで、もめてるんだろうねぇって」
エーゲルは口を開きかけて、やめた。彼はオスロ出身だった。彼女のように隣人としてのロシア人を共有できない。ここで同意を示すのは少なくとも不誠実だと彼には感じられた。
「だからってあの人たちを信じるわけじゃない」
シグリは彼を見た。
「でも運んできたのがロシアだという理由だけで中身を捨てることもできない。それをやったら私たちは今までと同じで現実から目を背けることになる。何のために私たちは人道を掲げてるの?」
「その判断で君は多くのものを失うかもしれない」
「そうかもしれない」
彼女はあっさりと認めた。
「確かめもせずに捨てたらもっと大きなものを失う」
エーゲルは長く息を吐いた。反論の言葉ならいくらでも並べられた。同盟の結束、国益、彼女の将来、この国の立場。そのどれもが正しく、そのどれもが今の彼女には届かないことも分かっていた。彼はコートを手に取り立ち上がった。
扉の前で一度立ち止まり振り返らずに言った。
「報告は明日の朝に上げる」
シグリが顔を背ける気配がした。
「今夜のうちは、僕はまだ何も聞いていない。……それで精一杯だ」
やはり返事はなかった。エーゲルは扉を開け湿った夕方の空気の中へ出た。背後で扉が閉まる直前、紙をめくる乾いた音が一つ小さく聞こえた気がした。
エーゲルの足音が遠ざかり、玄関の扉が閉まった。シグリはテーブルの上のファイルを引き寄せ表紙を開いた。
一枚目から順に紙を広げていく。やはりロシア政府が集めたにしては驚くほど飾り気のない資料だった。読みながら彼女自身まだ決めかねていた。
確かめると言ったのは自分だ。だが確かめた先に何を書くのか。書いたものを誰の名前で、どこへ出すのか。エーゲルの言う通り、それは力のある隣国の外交に自分の名前を差し出すことでもある。
ペンを持つ手が止まる。アルドナ・カヴァラウスカイトの瞳を思い出す。
大きめのスーツに埋もれるような小柄な女性だった。女子学生と言われても信じたかもしれない。だが目は違った。こちらの疑いや皮肉も全部受け止めた上で一歩も引かなかった。
彼女は少なくとも自分たちにボールを投げた。ソ連が崩れていく中で、彼女たちに人権と人道を説いたのは西側だった。その人道を今ここで示せ、と。
無論そんな言葉は一言も彼女は口にしていない。ロシア政府に不利な結論でも書いてくれ、と言っただけだ。だがあの振る舞いそのものがその問いを投げてきていた。
甘さもあるのだろう。あるいは無邪気な善意なのかもしれない。祖国を追われた女がせめて誰かの役に立ちたいと願っているだけなのかもしれない。いや、まて。シグリは顔を上げた。
本当に、そうか?
彼女は立ち上がり壁際の戸棚を開けた。年ごとに束ねたファイルが背表紙を並べている。旧ソ連圏の少数民族。国境をまたぐ住民の権利。この十年、彼女が追いかけてきた仕事の山だ。指で背表紙をたどり一冊を抜き出した。背表紙はバルトの国籍問題。
机に戻り頁をめくる。ラトビアとエストニアはソ連時代に移住してきた住民を国籍から切り離した。国籍を持たない「非市民」が数十万単位で生まれ、今もその数は減っていない。どこにも行き場のない人々。報告書には決して書けない言葉が頭の中ではずっと鳴っていた。バルトのアパルトヘイト。シグリ自身、その問題で何本も報告書を書いてきたがそれを明記できなかった。
だがリトアニアは違った。
国内に住むすべての住民に民族を問わず国籍を与えた。いわゆるゼロ・オプション。当時、西側の人権団体はこぞってそれを称賛した。シグリの所属する団体もラトビアとエストニアを批判する報告書の中で、リトアニアを「見習うべき先例」として引いている。
ではその法律を誰が書いたのか。
独立の直前、確か90年……いや、違う。90年の独立回復法より前だ。89年。
頁をめくる手が速くなる。当時のリトアニアにはポーランド系とロシア系の住民が少なからずいた。独立の気運が高まるほど彼らは取り残される恐怖を募らせ、一部では自治を求める動きまで出ていた。一つ間違えば独立運動そのものが内側から裂けかねなかった。
その火種を国籍法でまとめ上げたのだ。民族主義に沸く運動の内部を説得し、すべての住民を国民として迎えるという、いちばん面倒な道を選ばせた。国籍法の最終案を起草した委員会。その委員名簿のコピーが報告書の付録に綴じ込まれていた。14人の参加メンバー。著名な法学者や議員、運動の幹部。その名前が並ぶ末尾近くに一つだけ若い名前があった。
アルドナ・カヴァラウスカイト。法学部、若手研究者。
シグリの指がその名前の上で止まった。彼女はかすかに机を叩いた。
甘さではない、請求なのだ。
西側は自分たちの言葉で語った。人権は普遍だと。民族や出自で人を国民から切り捨ててはならないと。ヘルシンキで交わされた約束は東の人間にも西の人間にも等しく適用されるのだと。
アルドナはその言葉を信じて、実行した。27歳の時独立運動の熱狂の中で、同胞に向かって「隣人を切り捨てるな」と言い続けた。その後ヘルシンキでは国を飢えさせないために裏切り者の汚名まで被った。
西側の言葉に対して彼女はもう支払いを済ませている。だから今、請求書を持ってきたのだ。あなたたちの言葉にはあなたたち自身の義務がついているはずだと。イラクの子供たちの分もその義務は例外なく適用されるはずだと。
シグリは名簿のコピーをイラクの資料の横に並べて置き、しばらくそれを見つめていた。窓の外はいつの間にか暗くなり始めている。エーゲルは、報告は明日の朝だと言った。
そして今夜のうちはまだ誰も何も聞いていない、と。
シグリは電話機を引き寄せ手帳を開いた。ブリュッセルの番号、ジュネーブの番号、ロンドンの番号。この時間でも受話器を取りそうな相手を頭の中で順に並べていく。最初の番号をダイヤルしながら、彼女は思った。請求された以上、支払うかどうかを決めるのはこちらの仕事だ。




