【幕間】本作での世界観と史実との違いについて
今回は少し本筋を離れて、この物語の世界について補足します。
見覚えのある国や組織が出てくるのに人物の名前が少し違う。知っているはずの事件が妙な形で起きている。あるいは起きるはずのことが起きていない。
ここまで読んでそんな引っかかりを覚えた方もいると思います。そのうちいくつかは意図して仕込んでいるものです。今回は普段あまり説明せずに通り過ぎている用語と、史実から分かれた道筋をまとめてみます。
内容は第二部のオスロ訪問までを含みます。未読の方は先に本編をお読みいただいた方が楽しめるかもしれません。
■1 「ソ連」と「ロシア」はどう違う?
まずこの物語を読むうえで大切なのが「ソ連」と「ロシア」の違いです。
ソビエト連邦はロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンなどの共和国から成る国家です。ロシアはその中で最も大きな共和国ですが、ロシア共和国の政府とソ連全体の政府は別に存在します。
つまり同じモスクワで仕事をしていても、ゴルバノフとエリツォンは同じ財布と同じ組織を動かしているわけではありません。連邦全体をどうするかを考える側と、まずロシア共和国をどう生き残らせるかを考える側では守りたいものの順番も変わります。
湾岸戦争の過去編ではこの違いがかなり危険な形で表に出ました。連邦政府が西側との協調を進める一方で、ロシア共和国側が資金を用意し、軍が別の判断で動く。同じ国の中に違う方向へ進もうとする権力が存在していたわけです。
■2 なぜRSFSRではなく、RSSRなのか
ここでロシアの名前についても触れておきます。
史実の正式名称はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国。英語の略称はRSFSRです。このFはFederative、つまり「連邦」を示しています。ソ連という連邦の内側でロシア共和国自身も連邦的な構成を持っていました。
本作ではこのFを抜き、ロシア・ソビエト社会主義共和国、ロシアSSRとしています。略せばRSSRです。第九話の前書きでも触れましたが、これは意図的な変更です。カイザーライヒへの小さなオマージュと、この世界が史実そのものではないことを示す目印でもあります。
もう一つ設定上の理由があります。史実のロシア共和国は長く共和国独自の共産党を持ちませんでした。他の共和国にはそれぞれ共和国の党組織があったのに、ロシアではソ連共産党の中央がその役割を担っていたのです。ロシア共和国共産党が成立するのはようやく1990年6月になってからでした。これが史実におけるロシアがグダグダになった大きな原因の一つだと、作者は考えています。
なので本作ではこの成立を早めています。ロシアにも共和国単位で政治を動かすための党組織がある。その前提を置くことで、連邦中央とロシア共和国の権力争いを描いています。
もちろん国名からFを取れば共産党が生まれる、という仕組みではありません。名称と党組織の設定を組み合わせて変えています。ロシアが多くの民族や地域を抱えていることまでなくなったわけではありません。※名前を弄ったのでチェチェンあたりをどう定義しようと思っていたのは内緒です。
■3 党と政府、ゴスプラン、レニングラード派
共産党と政府もそれぞれ別の組織です。
「第一書記」は党組織の指導者。「最高会議」は議会に相当する機関で、その議長は別の役職です。ヴィクトルが若い頃に会ったエリツォンは、スヴェルドロフスク州の党組織を率いる人物でした。彼が中央へ進み共和国の政治を握っていく過程では、肩書きとともに動かせる組織も変わっています。
ヴィクトルの出発点となったゴスプランは国家計画委員会です。何をどれだけ作り、資材をどこへ回すか。その大きな計画を扱います。ただ計画表に生産達成率105%と書けば、店先に製品が増えるわけではない。その数字と現場の食い違いが彼の仕事の始まりでした。
本作で登場しているレニングラード派も、そうした現場の経験から生まれた本作の人脈です。アレクサンドロフたちは市場経済の理論を学び、実際に試し、官僚組織の中で使える形へ変えてきました。彼らがまとまってモスクワへ入ったことで、エリツォンの政治力を政策として動かす手足がそろっています。史実にはいなかったフィクサーであり、本作を大きく変えたのはヴィクトルではなくこの派閥そのものだったりします。
■4 8月19日――クーデターの日を、条約会議の日に
本作で歴史はどこで大きく変わったのでしょうか。
読者から見てわかりやすいのは1991年8月19日だと思います。
史実ではこの日に保守派のクーデターが表面化しました。翌20日には各共和国への権限移譲を進める新連邦条約の調印が予定されていました。クーデターを起こした側にとって、その条約は従来の連邦を壊してしまうものに見えていたわけです。
本作ではその8月19日に新連邦条約の会議が開かれています。史実のクーデター開始日を物語では条約会議の日に置き換えました。そしてヤトフは軍を動かす代わりに、自分の軍服を脱いでゴルバノフを殴ります。
やっていることは結構雑です。この話を書いていた当時、作者はGemini 2.5とChatGPT 4oとソ連情勢を話している中で、クーデター側の理論をだらだら書いてそこにヴィクトルが行くよりも、そもそも権威を崩さなければいい。泥をかぶっても組織が政治に抑え込まれなければ、と考えた末、軍服を脱いで殴らせるという発想に至った形です。
本当はいつか真面目にいろいろネタを仕込んだ話を書きたいなあと思っています。
※デビュー作にしたかった、ほったらかし(3話だけ投稿)の『檻の中の信頼』は実はここら辺のネタをこすった話でもあります。
さてヤトフパンチ、この違いは後々まで響きます。軍全体が反乱の当事者になるのを避け、元帥個人の暴挙として収める。エリツォンは危機を収めた人物として名声を得て、ヤトフは傷を負いながらも軍をまとめる力を残す。ヴィクトルたちはその間に国家再編の実務へ入っていきます。
史実に似た顔ぶれが史実に似た日に争っていても、その後に残る組織と力関係が違う。その差が次の交渉の条件を変えています。
■5 湾岸戦争からジュネーブへ――変わった力関係
この世界の分岐は8月19日の一日だけで起きたものではありません。というかそれでは足りないなと思い、第一部ののちに『砂漠の嵐』編を投入しました。
作中では湾岸戦争中にソ連軍の精鋭が米軍部隊を攻撃し、その映像が世界へ流れました。兵器の評価だけでなく、軍の自信、ゴルバノフと西側の関係、連邦中央の統制まで変わっています。ヴィクトルたちが8月に使えた手札もその影響を受けています。
91年末のジュネーブ交渉はそこから進んだ先にあります。軍縮と核兵器の管理を条件に、西側の支援と経済政策の裁量を取りつける。工場と雇用を残すために軍が抱えてきたものを削る。以後のロシアはその取引を土台に動いています。
■6 まだ終わっていないソ連の解体
そして本作のソ連は、史実と同じ日取りですべての解体手続きを終えているわけではありません。
中央政府が国家を動かせなくなることと、その国家の権利や義務が法的に整理されることには時間差があります。軍は誰の命令を聞くのか。借金は誰が払うのか。国境はどこで、誰を国民とするのか。一枚の独立宣言だけでは片づかないものがいくつも残ります。
作中でソ連がまだ解体されていないことを根拠に、ラトビアとエストニアに関する外部からの介入を拒んでいるのはそのためです。国家としての実体が崩れつつあっても、残された法的な立場には使い道があります。史実ではなし崩しに倒壊した際、両国はまあひどいことをやっています。それをせめて本作の中だけでもマシにしたかったというのもあります。
■7 バルト三国とチェチェンの、違う進路
さてバルト三国の進路が分かれたことも大きな違いです。リトアニアはロシアとの取引で生活基盤を守り、ラトビアとエストニアは対立を続ける。三国をひとまとめに史実のように「西側へ向かった国々」として読むと、アルドナが引き受けたものが見えにくくなります。
チェチェンも、ロシアは軍事介入へ進む前に自治と収入、資金供与を組み合わせた合意を結びました。それで問題が永久に解決したかどうかはまた別の話です。少なくともその時点で戦争へ向かっていた道筋には、別の道ができています。
■8 NATO・CSTO・CSCE――似た略称、違う役割
安全保障の話に移ると、よく似た略称がいくつも出てきます。
NATOは北大西洋条約機構。米国と欧州諸国などが参加する軍事同盟です。ただ加盟国すべてが同じ利害を持っているわけではありません。ノルウェーはロシアの軍事力を警戒しながら、国境や海、漁業、資源開発をめぐってロシアと話し続ける必要があります。
一方、本作で旧ソ連圏の軍事協力を引き継ぐのがCSTO、集団安全保障条約機構です。
ここにも年代の変更があります。史実では集団安全保障条約の調印が1992年、機構化が2002年です。本作では1991年末の再編からこの枠組みが登場し、1994年にはNATOとの連絡窓口が議論されています。旧ソ連の軍事的なつながりを別の形へ組み直す動きが早く進んでいるわけです。
対してCSCEは全欧安全保障協力会議です。こちらは東西双方が参加する協議の枠組みで、軍事同盟とは役割が違います。軍備管理、人権、相互の安全保障などを話し合う場として作中にも登場します。
現在の名称であるOSCE、欧州安全保障協力機構に変わるのは1995年1月1日です。物語の現在は1994年なので本文ではCSCEを使っています。このあたりは時代に合わせています。
■9 ヘルシンキ合意・ヘルシンキ委員会・HRW
さらにヘルシンキ合意とヘルシンキ委員会も書いておきます。
ヘルシンキ合意は1975年にCSCEの枠組みで採択された最終議定書を指す通称です。欧州の安全保障や国家間の関係とともに、人権や基本的自由の尊重などが盛り込まれました。
それに対して「約束したことは守られているのか」と監視する側にいるのが、各地のヘルシンキ委員会などの民間団体です。合意は国家間の約束、委員会はそれを監視する団体。この二つは名前が似ていても別のものです。
HRW、つまりヒューマン・ライツ・ウォッチも、ヘルシンキ委員会などと同様に人権侵害を調査し報告するNGOです。こうした団体は自分で制裁を解除したり軍を動かしたりはできません。それでも政府の説明に対して別の調査結果を出すことには、政治的な意味があります。
現在アルドナたちが求めているのもまずはその検証です。ロシア政府がそう言っている、という段階から、別の立場の人間が調べても同じことを確認できるのか、という段階へ進もうとしています。
■10 KGB・GRU・FSK・FSOと、作中の軍の呼び方
情報機関と警護機関も少し整理しておきます。
KGBは国家保安や情報活動などを担い、GRUは軍の情報機関です。ヴィタリーが所属するのは後者です。国家の方針が割れれば同じ国の組織同士でも衝突する。過去編で彼が逃げ回っていたのはその割れ目でした。
FSKは防諜を担い、FSOは国家要人などの警護を担います。なお史実のFSOへの改称は1996年ですが、本作ではそれ以前からFSOの名称だった設定にしています。警護組織の改編と改称をその都度説明すると本筋が遠のくためです。ここは呼称を整理してあります。
軍についても「南西方面軍」など、一部に物語上の呼び方を用いています。史実では軍管区などの区分で扱われるものを、作中で追いやすい名称にまとめた箇所です。
例えば史実のバルト軍管区はのちに北西軍集団と名前がコロコロ変わっているので、どこだそれってなるのも困りますし。
■11 イラク編――人道物資と二重用途品
最後にイラク編で使っている「人道物資」と「二重用途品」について。
人道物資と聞くと、食料や薬なら通せばいいと思うかもしれません。ところが病院を動かすには水と電気が必要です。水を供給するにはポンプや配管、薬品、交換部品が要る。それらの中には軍事にも利用できるものがあります。
民間にも軍事にも使えるものを二重用途品と呼びます。作中の浄水設備はその境目で止まっています。薬だけが届いても、安全な水が戻らなければ患者は増え続ける。制度の上で品目を分けても、現場の生活はつながっています。
アルドナが持参した「人道物資包括許可方式」はその通し方を変えようとする作中の提案です。禁止する対象を定め、それ以外の人道物資を原則として通す。現在はその必要性を裏づける資料を第三者の検証へ渡したところです。これ自体は史実をかなり先倒ししたアイデアとなりますが、史実では大量の死者が明らかになった際に、政治的に踏みつぶせなくなった西側が最終的にこれでまとめています。
■12 小さな違いが、次の選択を変えていく
この世界では史実から変えた前提の上に、それぞれの人物が判断を重ねています。工場を守るために武器を売り、支援を得るために軍を削り、独立を守るために隣国と妥協する。その選択は次の人物にとっての条件になります。
見慣れた地名や日付の間に挟まっている小さな違いを、そんなふうに拾っていただければと思います。
以上となります。




