第二部-29 ヘルシンキ合意
首脳陣がそれぞれなにがしかの確信を得ていたころ、会場から少し離れたオスロ市内。
アルドナ・カヴァラウスカイトとフョードル・チェルノフは一本の細い住宅街の街路で車から降りた。式典会場の周囲にあった石造りの威厳も、政府施設の磨かれた床もない。
木造の家々が低い垣根を挟んで並び、庭には春を迎えたばかりの草が伸びている。その一角に目的の家はあった。二階建ての古びた一軒家だった。
壁の塗装はところどころ剥げ、玄関脇には修理されないまま傾いた雨樋がある。窓辺には植木鉢が三つ。うち一つは土しか入っていなかった。
政府関係者との会談場所にはとても見えない。
チェルノフは住所を書いた紙をもう一度確かめた。
「……ここで、間違いありませんよね」
アルドナは表札を見た。
「そうみたい」
そして躊躇なく玄関の呼び鈴を押した。数秒後、内側から足音が近づいてくる。
扉がぱっと開き四十代ほどの女性が顔を出した。髪は後ろで無造作に束ねられ、薄いセーターの袖を肘までまくっている。二人をみて、それから背後の通りへ視線をやった。
黒い車とロシア側のFSOの警備員。彼女は少しだけ考え、そしてさらに少し離れた場所の、ノルウェー外務省から付けられた監視役の外交官に目線をやった。
外交官は少しだけ頭を下げた。それが彼女がノルウェー政府にとっても少なくとも敬意を払う必要があることを示しているように、チェルノフからは見えた。
女性は嘆息し、何でもないことのように扉を大きく開けた。
「はい、上がって」
あまりに軽い声だった。チェルノフは一瞬その場に残った。
いいのですか? そんな視線をアルドナへ送る。
アルドナは意味が分からないというように首を傾げた。
そのまま靴底の泥を軽く落とし、家の中へ入っていく。
「アルドナ?」
振り返りもしない。チェルノフだけが玄関と通りの間で取り残された。
背後から声がした。
「あなたは入らないのですか?」
ノルウェー側の外交官だった。嫌味ではなく純粋な疑問らしい。
ロシア側の警護員まで無言でチェルノフを見ている。
「……入ります」
少し恥ずかしくなって彼も後を追った。
元反体制の革命家だった女性と、レニングラード上がりの官僚。
二人の違いはこういうところに出る。
チェルノフも危険な仕事をしていないわけではない。
ヴィクトルの側近としてソ連時代は粛清や権力闘争をくぐり抜け、軍部と官僚機構の間を何度も往復している。
だが彼にとって危険とは政治機構でのやり取りが主だった。
何もかもが曖昧なまま知らない家へ入るという経験は、残念なことに彼には初めてのことだったのだ。
結果、度胸という点では彼は彼女の足元にも及ばないことが証明された。
玄関を抜けると狭い廊下が続いていた。壁には写真が無造作に並んでいる。
東欧らしい街角や有刺鉄線の向こうに立つ兵士。
どこかの教会で何気なくとられた写真。
横断幕を掲げた群衆、おそらくはアフリカのもの。
チェルノフは一枚の写真の前で足を止めた。
若い女性が警官隊の前で紙を掲げている。
場所は分からない、だが撮影された年代はそう古くないように感じた。
「写真がお好きなんですか?」
広間で彼を待っている先ほどの女性が目を瞬いた。
自分でもあまりにも間の抜けた質問に、彼はかすかに赤面する。
「あ、いえ」
チェルノフは少し困ったように頭を掻いた。
「仕事柄、周囲を見る癖がありまして」
「官僚ね」
一言で見抜かれた。アルドナがそれをみて笑った。
「その通りです」
「あなたは?」
問いが向けられる。アルドナは考えるふりをした。
「今は書類整理手伝い、といったところです」
それを手伝いと呼ぶなら大統領府の半分が手伝いになる。
女性も冗談だと察したのだろう、楽しげに笑い手を差し出した。
「シグリ・ホーゲです。ご存じの通り拙いながらもNGOに所属しています。専門は北極圏からバルト地域、旧ソ連圏にかけての人権問題と国際法。特に国境をまたぐ少数民族問題と政府機関による人権侵害の調査を長く扱ってきました」
彼女はそう言って手を差し出した。
「ですからロシア政府の方とこうして向かい合うのも、これが初めてというわけではありません」
アルドナは手を差し出しながら軽く頷く。
「アルドナ・カヴァラウスカイトです。こちらはフョードル・チェルノフ。ノルウェー政府からお聞きの通りロシア政府の仕事で訪れました」
チェルノフが慌てて頭を下げたのを横目に、シグリは二人を奥へ案内した。居間はさらに質素の印象を受ける。大きなテーブルや不揃いなの椅子。
壁際には本棚。床には何冊もの資料が積まれている。
部屋の片隅には旧式のファクシミリと電話機が置かれていた。
その隣にはロシア語、ポーランド語、英語、ノルウェー語の新聞が入り交じっている。
そしてテーブルの向こうにはもう一人男がいた。
四十歳前後の灰色の髪の男、濃い色のジャケットを着ているがネクタイは外していた。
アルドナが入ってきたのを見ると立ち上がる。
「イェンス・エーゲルです」
一目でわかる官僚然とした男だった。
彼はポケットから軽くカードを出し、外務省の人間であることを二人に示す。
チェルノフがわずかに姿勢を正す。シグリが呆れたように言った。
「彼はまあ付き添いですね」
「付き添いとは失礼だな」
エーゲルが苦笑する。そしてどうぞと、アルドナとチェルノフに席を進める。
アルドナは軽やかに席に腰かけ、チェルノフもその隣へ腰を下ろす。
ここでシグリは全員を見渡した。
「それで」
先ほどまでの気軽さが消えた。
「ロシア大統領府の人間がわざわざ式典の日に、政府施設ではなく私の家へ来た」
目がアルドナへ向く。
「何を確認してほしいのですか?」
アルドナはすぐには答えず、バッグから薄いファイルを取り出す。
表紙には手書きで提出資料と書かれていた。
それをテーブルの中央へ置いた。
「イラクです」
室内の空気が変わった。エーゲルの表情が固まる。
シグリはファイルを見たまま、まだ手を伸ばさない。
「制裁に関しての資料?」
「その影響をまとめたもの、そう思っていただければと」
アルドナは答える。
「浄水設備の機能不全、発電機による都市部への供給状態。また病院に関するものも。小児用栄養剤の不足や産婦人科の推計稼働率。イラクにおける食料配給制度をバアス党がどのように切り回し、それらがどの段階で機能不全に陥ったかをまとめたものです」
シグリは目を細めた。
「もう一つ先に。ロシア政府として対象の制裁解除を求めたい?」
「違います」
即答だった。
「少なくとも今日ここでお願いしたいのはそれではありません」
アルドナはファイルを彼女の方へ押した。
「確認してほしいのです」
「何を?」
シグリはまだ資料に手を伸ばさなかった。恐れではなく、用心深さを表に出している。
「私たちが持っている資料が本当に事実なのか」
シグリはそこでそっとファイルへ手を置いた。
「ロシア政府自身が集めた資料を、私たちに?」
「ええ」
「あなた方はそれを信用していない?」
微妙な質問だった。この資料自体がロシアの諜報能力を明らかにするものだ。それを他国の人間、しかも微妙な関係にあるノルウェー政府に見える形で手渡された。シグリが問いかけるのも当然だった。
しかしアルドナは表情を変えなかった。
「信用しています」
そして続けた。
「だから私たち以外の人間にも確認してほしいのです」
シグリの指が表紙の端をなぞる。
アルドナは怖気を見せずにシグリの目を見て告げる。
「政府は自分に都合のよい現実を選んで見せる。ただそれはジャーナリストも研究者も同じです」
シグリの目もまたアルドナから離れない。
「だからこそ私たちが調べ上げたものを、あなたたちにお渡ししたいのです。隅々まで疑いなく確認頂くために」
短い沈黙が場に落ちた。
エーゲルは眉間に指をあてていた。持ち込まれたものは想像を超える厄介さだった。
だがシグリは違った。10秒程度目をつむると、ファイルをためらいなく開いた。
最初のページから、書式には文字と、かすめ撮られたぼやけた写真が貼られている。
病院名と患者数。医薬品の不足状態、病院からバアス党に上げられた悲鳴のような陳情の写し。それに対するバアス党の動きの鈍さと国連制裁委員会が容赦なく許可をはねのけた経歴が記されていた。
シグリが丁寧に数ページめくっていく。
だが彼女は気づいたようにアルドナを見た。死体や、やせこけた患者の写真は意図的に省かれていた。
「ずいぶん地味」
シグリの口元がほんの少しだけ動いた。
「ただ少なくとも、やせこけた赤ん坊の写真を最初に置く連中よりは信用できるかな」
チェルノフはその言い方に少し驚いた。直截な、ある種酷薄ともとられかねない言葉だった。
しかしアルドナは動じない。
「だからこそあなたにお願いしに来ました。ヘルシンキ合意を通してHRW欧州支部に影響力があるあなたに」
シグリは最後までファイルを読むと顔を上げた。数秒間、二人の女性は互いを見ていた。
エーゲルがそこで初めて前へ身を乗り出した。
「確認が取れたとして」
彼はアルドナへ尋ねる。
「その先にロシア政府は何を望んでいますか?」
アルドナはバッグからもう一枚、折り畳まれた紙を取り出した。
今度のものには題名があった。
――人道物資包括許可方式。
エーゲルの目がそこへ落ちる。彼はもう一度眉間を揉んだ。
見たくないとでも言いたいかのように。
「制裁をなくすのではありません」
アルドナはそういいながらA4の紙を広げる。
「武器、軍事転用可能品、政権中枢への資金などは止めるべきです。ただし民生品まで一件ずつ許可を求める現在の方式を改めたい。禁止するものを列挙し、それ以外の人道物資は原則として通すという形に」
シグリは資料を読みながら聞いている。
「私たちにその制度を支持してほしい?」
「いいえ」
アルドナは首を横へ振った。
「あなた方が調べた結果、現在の制度が民間人を不必要に傷つけていると判断したならそう書いてください」
「逆の結論なら?」
「それも書いてください」
シグリが顔を上げた。
「ロシア政府に不利でも?」
口笛でも吹くかのように軽い口調だった。だが表情は真剣だ。
アルドナは少し笑った。
「不利な報告書を書けない人にお願いする意味がありますか?」
今度はシグリが黙った。エーゲルは二人を見比べ、それから椅子へ背を預けた。
「なるほど」
ここまでのわずかなやり取りで、彼の声は老人のような疲労感を漂わせていた。
「本当に面倒がやってきたものだ」
チェルノフは反射的に口を開きかけた。
アルドナが横目で彼を見る、しゃべるなと。
言葉にしなくても目線が語っていた。
チェルノフは開きかけた口を閉じた。
やはり自分はこういう場所では彼女には太刀打ちできないのだな、と思いながら。




