第二部-28 妥協点
彼女は微笑みながら告げた
「一定規模以上の演習は六十日前にノルウェーへ通知していただきたいのですが」
「六十日は長すぎます」
「では五十日」
「三十日」
まるで値切るかのように、双方は妥協可能な数字を投げかけあう。
「短すぎます。監査船を準備する時間を考慮頂きたい」
彼女は真剣に問いかけた。だがヴィクトルも単純にうなづくわけにはいかなかった。
「我々にも軍事上の都合があります」
「こちらにも安全保障上の都合があります」
どちらも声を強めなかった。ただ数字だけがテーブルの上を往復する。
ブラントが四十日を出すより先に、ヴィクトルが折れた。
「四十五日」
「一定規模以上について解釈をいただきたい」
「陸海空を含みます。ただし潜水艦の哨戒行動は含めません」
そこはヴィクトルにも譲れなかった。特に今後砲艦外交の意味が薄れる。だが国家の最後の安全保障を担保する以上は、三元核の槍を道端に展示するわけにはいかなかった。
「演習への監視員は?」
「陸上部隊なら受け入れます」
「海軍も?」
ヴィクトルはかすかに考える。
「潜水艦は除外すると申し上げました。水上艦についてはそちらの行動をこちらからは掣肘はしない、ここまではお約束できます」
彼女は彼の目を見た。
「それは原子力艦で事故が起きた場合もですか?」
ヴィクトルは数秒考えた。そこは別問題だった。
原子力潜水艦は原子力という力以外にも国家規模の秘密の塊という矛盾を抱えていた。
過去冷戦においてさえ双方の原子力潜水艦が座礁した際に監視こそすれど、それ以上の行動を起こさなかったのは理由があるのだ。
「原子力潜水艦の事故情報は即時通報の別枠を設けましょう」
「放射性物質の放出可能性を含めて?」
「含めます」
ブラントはそこでペンを取った。
「ではその方向で実務者に検討させます」
話は決まった。条約でも声明でもない。しかし国家間の制度というものは多くの場合こうして始まる。誰かが数字を口にし、別の誰かが半分に削り、最後に官僚が文章を整える。
ヴィクトルはコーヒーを飲んだ。のどが渇いているわけではない、間を置くためだった。
そしてメモを取る彼女に問いかける。
「ではこちらももう一つ」
今度はブラントが苦笑した。
「まだあるのですか」
「当然でしょう」
ヴィクトルは手を前で組んだ。
「ノルウェー企業の対ロシア投資です」
彼女はペンを止めた。そっと彼を見る。
「国営といえど、実質半官営の企業に政府から物言いをつけることはむずかしいのですが」
「承知しています」
「では?」
彼は軽く告げた。
「止めないでいただきたい」
ブラントは意味を理解した。
政治的な理由だけで通常の商取引まで締め上げるなという要求だった。
「企業が採算性ありと判断すれば、ノルウェー政府が妨害する理由はありません」
「その採算性を判断できる環境そのものが必要です」
「それを作るのはロシア政府です」
素早い切り返しだった。ブラントは指を折っていった。
「契約の保護。突然変更されない税制。利益送金。国際仲裁。投資資産の保護。環境事故が起きた場合の責任分担。そして合弁会社の監査。それらがあれば私たちから何か物言いをつける必要がない、少なくとも政府としてはそういう扱いはできます」
ヴィクトルは反論仕掛け、途中で止めた。
「随分多いですな」
「随分大きな国ですから」
ヴィクトルはファイルの端へ短いメモを書き込んだ。
不可能ではない。むしろいずれ整備しなければならない制度だった。
外資のためだけではない。ロシア人自身が、翌朝になれば契約条件が変わっているような国家で商売を続けることはできない。
「前向きに検討します」
「検討だけですか」
日本人のようだなと彼は苦笑しながら答えた。
「実現可能な順番を検討するという意味です」
「それなら結構です」
しばらくしてヴィクトルはペンを置いた。
残っているものがあった。避けて通ればこの会談は半分しか終わらない。
「首相。最後に答えにくい話を一つ」
ブラントはため息をつかなかった。
「NATOの加盟論、ですね」
ヴィクトルは薄く笑った。
それを議論の台上における女性が目の前にいることに、彼は感謝した。
「話が早い」
「東側でしょう、特にポーランド。政局を争いながらも連帯が動いていると聞いています」
ヴィクトルはうなづいた。ブラントの表情から先ほどまでの柔らかさが消えていく。
「ノルウェーがポーランド人やチェコ人、バルトの人々に安全保障政策を指図することはできません」
91年の冬、臨時サミットで散々議論した時より、より強い言い方だ。
あの時目の前にいたのはG7のシェルパだったが。
ヴィクトルは当時に思いをはせながらゆっくりと切り返す。
「ロシアにも自国の安全保障について懸念を表明する権利はあります」
彼女はうなづいた。それで、と問う彼女の瞳に彼はそっと返答を添えた。
「ならばそれを議論する席をいただきたい」
ブラントはヴィクトルを見た。
「拡大しないという保証ではなく?」
「それをノルウェーから取れるとは思っていません」
「本当に?」
一瞬だけ二人の間に別の種類の沈黙が生まれた。
ヴィクトルは否定しなかった。
「今は、ですね」
ブラントは鼻から小さく息を抜いた。
「正直ですね」
「嘘をつけば信用していただけますか」
「いいえ」
彼女はかすかに笑みを浮かべていたが、それは猛禽のような鋭さの上の笑みだった。
ブラントはペンを指先で転がしている。それを見ながらヴィクトルも気を引き締めた。
なにがしかの譲歩を引き出せるとは思っていない、だが黙っている気はないと示す必要があった。
「ただ申し上げると、すべての国がどちらかへ入るとも限りません」
ヴィクトルは彼女を見る。
「例えば?」
「リトアニア」
その国名に彼の表情がほんのわずかに変わった。
ブラントは続ける。
「あの国は面白いことを始めていますね」
「東欧のスイス、ですね」
「本人たちはもっと真剣なのでしょうが」
西にも東にも完全には属さない国。
軍事的には自国を守れる程度の能力を保つつ、外交では中立を掲げる。
WW2にて否定されたように見える生き方だった。
だが、だ。仮に成功した場合は東西の資本でバルト海の物流、金融、商取引の中継点となることができる。大国の間に挟まれているという弱点は、両方から必要とされるという強みに化ける。
それがヴィリニュスで少しずつ形になり始めていた。
「彼らはCSTOには加盟しないのでしょう?」
ブラントが尋ねた。ヴィクトルは目線を外に向けた。空を鳥が飛んでいく。
白く優雅な鳥は越冬を終えノルウェーの沿岸に至りつつあった。
「しないでしょうね」
「残念ですか?」
彼は首を振った。城壁の向こう、オスロ湾の水面に雲の切れ間から光が落ちている。
「いいえ」
答えは短かった。
「それで、彼らが生き残れるのなら」
ブラントは何も挟まなかった。ブラントは知っている。リトアニアはヴィクトル自身が交渉した国だった。ロシアの同盟国になることを拒みながら同時に西側の前線基地になることも望まない国。
もし目的が勢力圏の再建であるならそれは失敗例だったといっていい。
だが目の前の男はそうは考えていないらしい。
「ただし」
ヴィクトルは視線を戻しながら告げた。
「中立を選んだ国を東西が奪い合う競争にはしたくありません」
「それには同意できます」
彼女の同意にヴィクトルはかすかに苦笑した。
「意外ですな」
「なぜ?」
「NATO加盟国であればその意義を世界に広めるべきなのでは?」
ブラントは首を横に振った。
「NATO加盟国であることと、全ての国をNATOへ入れるべきだと考えることは同じではありません」
そして付け加えた。
「仮に中立を選ぶならその国自身が中立でいられるだけの制度と力を持つべきです。誰かから与えられた中立は、誰かの都合で取り消されます」
ヴィクトルはその言葉を記憶した。表向きはリトアニアについて話している。
しかしそれだけではない。
ノルウェー自身についても語っているのだろう。
この世に完全な中立は存在しない。誰もが経済を、軍事を他国に依存し、依存されている。
だからこそノルウェーは同盟国を持ちながら、可能な限り自らの判断を残す。
巨大な国々の間で生きるための小国なりの技術なのだ。
「首相、あなたはCSTOを強くしたくない。そうお考えですが、同時にロシアが弱いままでいることも望んでいない」
彼は議論をまとめにかかる。
「そしてNATOは維持する。しかし我々とも話す」
「ええ」
ヴィクトルは腕を組んだ。
「矛盾していますな」
ブラントが今度ははっきりと笑った。
「それをあなたに言われるとは思いませんでした」
ヴィクトルも笑った。確かにその通りだった。
ロシアもまた同じことをしている。
軍を縮小しながら軍事力を残そうとしている。
西側資本を入れながら自国産業を守ろうとしている。
CSTOを作りながらNATOとの対話を求めている。
国家というものは矛盾をなくして動くものではない。
矛盾した要求を抱えたまま、そのどれもが破局へ至らない位置を探し続けるのだ。
と、ここでブラントは開いていたファイルを閉じた。軽い音が部屋に響く。
「ではその矛盾が戦争にならない仕組みを作りましょうか」
その言葉には理想主義的な響きがあった。
だがその下にあるのは数字と国益だった。
だからこそ信用できるのだ。
「そのために」
彼は答えた。
「オスロへ来ました」




