第二部-27 北の交渉
式典が終わってから十五分ほど後のこと。
アーケシュフース城塞の一角、海に面した小さな応接室にヴィクトル・ペトロフとノルウェー首相グーロ・ハルセン・ブラントは向かい合っていた。ここには記者も儀仗兵もいない。
窓際には低い書棚があり、その上に北海沿岸の古い海図が飾られている。テーブルに置かれているのも国賓を迎えるための銀食器ではなく、外務省職員が持ち込んだ数冊のファイルと二人分のコーヒーだけだった。ブラントは椅子へ腰を下ろすと開口一番こう言った。
「大統領は予定になかったことまでお話しになったそうですね」
「よくあることです」
ヴィクトルは答えた。
「我々は大統領が原稿を読む場合と読まない場合の両方に備えています」
ブラントの口元が緩む。
「大変なお仕事ですね」
「まあ慣れましたので」
ブラントは手元の資料を一枚めくった。
「さて、私たちも海の上でも平和な国境を作りたいと、そう考えています」
先ほどボリスが口にした言葉だった。
ブラントは首相としての言葉として非公式ながら手を差し出したのだ。
「ただ先ほどの発言はロシア政府の方針と同じと考え、よろしいですか?」
「大統領の言葉は即興ではありますが、我が国の方針は確固たるものです」
ヴィクトルは即答した。
「我々はバレンツ海の係争を終わらせたいと考えています」
「先ごろフィンランドでそちらから接触があったスタトイルについても?」
「それは後ほど」
ブラントは首を傾げた。彼女としてもここまでは小手調べに過ぎない。
「では双方関心がある軍事の話をしましょうか」
ヴィクトルはわずかに眉を上げた。最初に軍事が出ることも想定はしていた。
だがそれはロシア側からの譲歩として彼が提示する想定だったのだ。
「意外そうですね」
「少々」
ブラントは窓の外を見た。会場では双方の参加者がマーブルにまじりあっている。
彼女はかすかに力を抜いた。
「企業との話なら産業省でもできます。ですがそちらの北方艦隊についてスタトイルの社長を通すわけにはいきませんから」
「それは、確かに」
ブラントはファイルを閉じた。
「率直に伺います、ペトロフ殿」
視線がヴィクトルへ向けられる。
「CSTOは何になるつもりですか」
一瞬だけヴィクトルの指が止まった。
「随分と大きな、しかしあいまいな質問ですな」
「三年前に貴国と、そして旧ソ連諸国は我々の前に現れました。ただその時点では中身がない蜃気楼のようなものと私たちは受け取っていました。失礼ながらね」
ブラントは続ける。
「だが今は十分に組織化されてしまった。国防相同士の会合も定例化され、各国の参謀が共同計画について話している。今年からは統一訓練まで始めるそうですね」
彼女の情報は正確だった。少なくとも新聞を読んで並べた程度の知識ではない。
「統一訓練と言えるほど立派なものではありません」
ヴィクトルはカップへ手を伸ばした。
「ようやく各国の軍人が同じ地図を広げ、一つの命令書で部隊を動かせるか試している。それだけのことです」
「ですがその軍人たちは数年前まで同じ軍隊にいた」
ブラントはすぐに返した。
「同じ学校で教育を受け、同じ言葉を使いこなし、同じ装備を持っている。通信手順も地図記号も参謀教育も大きくは変わっていない」
ヴィクトルは返事をしなかった。ブラントはそこを見逃さなかった。
「組織は幼い。しかしそこに所属している者たちはどうでしょうか? 身体は昔の動き方を覚えているのでは」
「警戒に値すると?」
「現在のCSTOをNATOに並ぶ軍事同盟だとは考えていません」
彼女は首を振った。
「しかし五年後については分かりません。そして私にはそれを考え国を運営する義務がある。国民からの信託を受け、陛下に宣誓を立てた卑賤な身としては、です」
ヴィクトルの目がそこで止まった。
ブラントはコーヒーにはまだ手をつけない。
彼女は彼の動きを一瞬たりとも見逃さないように注意深くしゃべっていた。
「我々が注視しているのは戦車の数だけではありません」
この部屋の厚い扉の外側を誰かが通った。おそらく警備兵だろう、伝わる足音は向こうへ消えていく。
「あなた方は軍を縮小した。これは事実です。かつて西欧へ向いていた巨大な軍団も消えつつある。国防予算もソビエト時代とは比較にならない」
彼女は指でコツコツと机をたたいた。
「それでもその国防予算は多額なのです。私たちが身構える程度には」
ヴィクトルは何も言わなかった。
「安定して兵士への給与が支払われ、軍の生産は整理されながらも残っている。厄介なことに私たち西側が技術者を送り始めてしまった。ルーブルも下落しつつも崩壊しなかった」
そこまで言ってブラントは初めてカップを持ち上げた。
「あなた方の軍隊が今日どれほど弱いかより、ロシアが壊れなかったことの方が長期的には重要なのです」
その評価に敵意はなかった。
だからこそヴィクトルは興味を持った。
「首相は我々が再びあなたたちに並び立つほど強くなると?」
「可能性はあります」
「それを望まれない?」
彼女は少しだけ間を置いた。
「弱く不安定で核兵器を持ったロシアよりは、豊かで安定したロシアの方が好ましい。これは否定しません」
ブラントはそこで言葉を区切った。
「ですが豊かで予測不能なロシアも困ります」
ヴィクトルはかすかに口元をほころばせた。
あまりにも正直で、取り違えようもない程度には率直な表明だった。
女傑といってもいいだろう。好感が持てる女性だった。
「注文が多いですな」
「隣国ですから」
彼女は簡潔に返した。ヴィクトルは背もたれへ体を預け考える。
彼女はロシアを好きになる必要などないと思っている。
そして民主主義に改宗すれば安心できるとも考えていない。
さらに言えばロシアが善良な国家になること、またはあることなど期待していない。
ただ明日何をするのか分かる国家であれと言っている。
そして善良な国家など存在しないことを前提に彼に問いかけていた。
それなら話は早かった。
「そのための提案があります」
ブラントが目を向ける。
「NATOとCSTOの間に常設の協議窓口を設けたい」
ブラントは返事をすぐに返さなかった。
「ロシアとNATOではなく?」
「CSTOとNATOです」
ブラントの表情が変わる。拒絶ではなかった。
しかしその雰囲気は先ほどまでより明らかに慎重になっていく。
「それは難しいでしょう」
「理由を伺っても?」
「欧州を二つの軍事圏が管理するという構図をもう一度作ることになります」
WPO(ワルシャワ条約機構)との対立の再来とみなされかねない、そう彼女の瞳は語っていた。
「地図の上にはすでに二つ存在しています」
「存在することと、それを固定することは違います」
ヴィクトルは反論しかけ、やめた。正論だった。
NATOとCSTO。二つを対等な主体として正式に向かい合わせれば、その間にある国々まで二つの陣営のどちらかに分類されかねない。
それはロシアにとって有利な面もある。だからこそブラントは警戒している。
だが同時にそれは祖国にとっても負担を再度背負わせることでもあった。
ヴィクトルは要求を切り下げた。
「では同盟間協議という名称は捨てましょう」
ブラントの眉が動いた。
「CSTO事務局からブリュッセルへ軍事連絡官を一名。NATO側からも一名」
「任務は?」
「演習の通告。国境付近での大規模な部隊移動通知。航空機や艦艇の偶発的接触防止。捜索救難。平和維持活動など」
そこで指を一本加える。
「さらに原子力事故。これを隠しだてなく情報共有する。信頼関係の醸成のために」
ブラントが頷いた。民間でさえチェルノブイリ、或いは西側ならばスリーマイル島原発事故やウィンズケール火災。双方が冷戦で隠しあったそれを早々に共有することで信頼関係の醸成につなげ、被害を軽減する。悪い話ではなかった、核の平和利用という大義にも沿っている。
「必要でしょうね」
「信頼関係からの行き違いを防ぐための関係構築です。政治的承認でも勢力圏の承認でもない」
「NATOとCSTOが対等な安全保障圏であるという意味を持たせない?」
「我々CSTOとしてはそれで結構です」
彼女はうなづいた。
「文書にもそう記すのであれば受け入れましょう」
「そこまで念を押されますか」
ブラントは初めて少し笑った。
「そうしなければ小国は長く生き残れません」
ヴィクトルもそれ以上は押さなかった。欲しかったものの大半は得られる。
CSTOという名称が西側の軍事機構と正式な連絡線を持つ。
それだけでも三年前には考えられなかった前進だった。
だがブラントは当然、無料では帰さない。
「ではこちらからも一つ」
「どうぞ」
「北方艦隊の動向です」
来たか、とヴィクトルは思った。




